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カテゴリー 様々な二重否定表現
配信日 03年12月26日 (10年9月11日 記述を追加)
タイトル 我が子を愛さない親はいない!
備考 「愛さない」という言葉は意味的に否定形ですので、それを否定したこの表現は、二重否定表現となります。
「自分の子を愛さない親はいないモンだ!何か問題があったら、家族の間で話し合ったらどうなの?」
子供が家庭内で困ったことがあった際に、周囲の大人に相談を持ちかけることもあるでしょう。相談してきた子供に対して上記の言葉でアドヴァイスする大人が結構いますよね?

以前に、たまたま家庭問題に関するテレビ番組を見ていたら、やっぱり良識派の代表として出てきたであろう芸能人が、この「お決まり」のセリフを言っていました。
一見素晴らしいアドヴァイスに見えると思いますが、実は子供を一番追い込むセリフであるわけです。

そんなことを書くと、「何故?」と思われ方もいらっしゃるでしょう。

大体において、この「自分の子を愛さない親はいないから、家族で話し合ったらどうか?」という言葉を受けて、実際に家族で話をする子供が一体何%くらいいるでしょうか?家族の間で色々な行き違いがあり、家族の間ではやり取りができないから、わざわざ他の人に相談しているのに、このセリフを言うことは実質上の門前払いと同じであるわけです。
多分、良識派はそのようなことを考えない人なのでしょうね。

たとえば、その相談を持ちかけた子供が家庭内でフィジカルに暴力を振るわれているような場合には、「親と話し合え!」という言葉を返すことによって、「さっさとクタバリやがれ!このクソガキ!!」と言う直接的な言葉より、厳しい言葉と言えるわけです。だって、親切そうな真顔でやっている分、余計にタチが悪いんですね。

フィジカルな暴力は非合法ですが、フィジカルな暴力の場に押し戻すことは合法的ですからね。
それこそ、北朝鮮から命からがら逃げ出してきた人に対して、ちょっと食料を提供して、「これからは故郷の北朝鮮で仲良く暮すんだよ!お幸せに!」などと笑顔で語りかけたら、そんな人が一番の外道でしょ?あるいは、家庭の問題において、フィジカルな暴力なら、まだ、相談もしやすいわけですが、それこそ性的な虐待だったら、笑顔で門前払いなんて、鬼畜そのものですよ。

一見、正論に見える言葉でも、それをダメダメ家庭にそのまま当てはめると、逆効果になってしまうわけ。
別の言い方ですと、この良識溢れるセリフによると、「すべての親は自分の子供を愛している。」わけですので「家族の問題の発生はもっぱら子供の側にある。」・・・と言っていることになるわけですよね?

「親の愛を受け止められない」子供の側に問題があるんだ!全くケシカラン子供だ!親御さんがお気の毒だ!!
・・・良識派のご高説によるとそうなっちゃいますよね?

スウェーデンのイングマル・ベルイマンが脚本を書いた映画「愛の風景」で、主人公の青年の母親が「あの子を愛せない私をお許しください。」と神に祈るシーンがありました。
実際には、そうですよね?すべての親が自分の子供を愛せる・・・というものではないわけです。むしろその母親は自分の子を愛していない自分を自覚している分だけ、マシといえることもあるわけです。

勿論のこと、ほとんどの親は自分の子供に対して愛情を持っているでしょう。
しかし、家族に問題があるダメダメ家庭の場合は、必ずしも絶対の前提条件とは言えない。
良識派自身が自分の子へ愛情があるからと言って、他人がその子供に愛情があるとは断定できないわけです。
あるいは、愛情と依存を混同している場合も多い。
オマエしかいない!」と子供にすがりつくのは、子供に対する愛情ではなく、単なる依存でしょ?しかし、ボンクラな人は、依存関係を、愛情と誤認してしまう。

相談を受けた側が、親が子供に愛情を持っていることを前提に話を進めてしまうので、相談を持ちかけた子供は、親からの日頃のプレッシャーと、アドヴァイスした良識派からのプレッシャーでダブルバインドの状態に陥るわけです。

家族に問題があるから相談を持ち掛けたのに、悪いのは親の愛情を受け入れられない子供の方。このように追い詰められた子供がどうなってしまうのかについては言うまでもないでしょう?

ですので、テレビでの放映された「自分の子を愛さない親はいないものだ。何か問題があったら、家族で話し合ったらどう?」と言う良識溢れる発言によって、自ら命を絶った子供も少なからずいることでしょう。何と言っても、子供にとっては一番キツイ言葉なのですからね。
よくテレビでこんな殺人的な言葉を言えるなぁ・・・と、この私も絶句したものでした。

他人からのこのセリフが大きな効果を持つように、親自らが、このセリフを使うことは、より一層効果があるわけです。

親の方から、「親たるものは我が子を愛している。うまくいかないのはすべて子供のせい。」このように指摘したら、子供にしてみれば、全く出口なしの状況に置かれることになります。
言うまでもなく、親として、この良識溢れるセリフを発言することは合法的・・・というよりステータスといえるほどです。良識派人間のレッテルがもらえるわけですので。

ヘタをすれば、「愛され方が悪い」あるいは「親の愛の受け止め方が悪い」子供に対して、厳しい指導をするようになってしまう。
「子供を愛さない親はいない」わけだから、子供に対して厳しい指導をするのは、論理的であり、かつ、「良識的」でしょ?
その結果として、子供が虐待死してしまっても、そんな指導を実践した親としては、それは、まさに、その親の良識の結果となっているわけ。
「子供を愛さない親はいない。」という言葉は、別の言い方をすると、「親に懐かない子供は悪い子供。」となり、まさに児童虐待の現場でおなじみの、「懐かないから殴った。」という言葉になってしまうわけ。

「子供が懐かないから殴った。」という物言いも、「自分の子供を愛さない親はいない。」という言葉も、言い方は違っていても、発想の本質は同じなんですよ。
「自分の子供を愛さない親はいない。」と二重否定的な表現のスタイルでは言えても、「自分は、親として、オマエのことを大切に思っている。」と単純な肯定のスタイルでは言えない。

実際に、親が語るそんな御高説を聞いた子供の側は、「じゃあアンタ自身はボクに愛情をもっているの?」と怪訝に思うだけ。もし、その親が自分の子供に愛情を持っていれば、何も一般論などは使わないで、「オマエも、何か困ったことがあったら、何でもワタシに相談してくれ!」と子供に対して直接的に言いますよ。
それが言えないからこそ、反論されにくい一般論に逃げているわけ。

本来は、一番端的に言えないことから色々と見えてくるものですが、ダメダメ家庭においても、あるいはダメダメ家庭の周囲にしてみても、自分自身から逃避していて、自分の問題は見えていない。
自己逃避の人間は、「子供を愛さない親はいない」というスタイルのような、自分個人の問題を超越した一般論しか言えないわけ。

それに、「自分の子供を愛さない親はいない。」と語る人は、「じゃあ、何のせいで、うまくいかないのか?」という犯人探しの心理に陥りやすい。
だから、何かと、あら探しばかり。
一般的にはその対象が、身近にいる自分の子供になるわけです。
逆説的になりますが、「自分の子供を愛さない親はいない。」からこそ、自分の子供のあら探しをして、「自分の子供には、こんな欠点がある。だから親であるワタシは、自分の子供を愛せないんだ!悪いのは全部子供のせいだ!ああ!ワタシって、なんてかわいそうなんだ?!」となってしまうわけ。
言われてみれば、実に、筋道の通った論理でしょ?
そして、ダメダメ家庭においては、現実に起こっている流れなんですね。

自分の子供を犯人認定するケース以外にも、時代とか政府とかを犯人認定することになる。
そして「あ〜あ、悪い時代だなぁ・・・」「政府がもっとしっかりしてくれないと、ワタシは子供を愛せないわ!」と嘆くことになる。
だって、「自分の子供を愛さない親はいない。」ということは、どんな親も愛情の面においては欠点がないということでしょ?だから、自分以外のものを犯人として設定し、「悪いのは全部○○のせいだ!」という犯人認定の心理の土壌となってしまうわけ。

ダメダメ家庭出身の子供が立ち直る?あるいは、少しはマシになるためには絶対条件がありますよね?
それは自分の家庭がダメダメであると認めること。
そして自分の親を嫌うこと。

「自分の親を嫌ってもいい。」と子供が自分を許すことから、子供の新たな人生?が始まるわけで・・・そのようなダメダメ家庭の子供の再出発を阻害する言葉として、この「自分の子を愛さない親はいない。」というご高説以上の言葉はあるでしょうか?

しかし、この「自分の子供を愛さない親はいない。」という言葉は「とおり」がいい。世間受けが抜群ですよね?
しかし、あらゆる言葉の中で一番悪質な言葉であるわけです。結果的に人を殺しちゃうんですからね。
結局は相手のことを何も考えていなくて、自分自身のことしか考えていないわけですからね、そのような良識派さんは・・・

(終了)
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発行後記

私はマメ?なので、来週もいつもどおり配信いたします。
よろしくお願いいたします。
R.10/11/28