トップページに戻る | 配信日分類の総目次へ | 似て非なるものに関するトピックスの目次へ |
カテゴリー分類の総目次に戻る | タイトル50音分類の総目次へ | |
カテゴリー | ダメダメ土曜講座(発想と視点編) | |
配信日 | 09年11月7日 (11年1月1日 記述を追加) | |
タイトル | LOVEとNEEDの違い | |
以前にこのメールマガジンで「とらドラ!」というアニメ作品を取り上げました。 その文章において、英語における「LIKE」や「LOVE」と、「NEED」の間にある違いに注目する必要があることについて書いております。 そこでの文章と重複する面も多くありますが、ここで再度、「LOVE」と「NEED」の違いについて取り上げてみます。 「LIKE」や「LOVE」という感情は、対象を肯定したものと言えます。 エーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」の中で書いておりますように、「愛とは相手を肯定している感情である。」と言えるわけです。 別の言い方をすると、その人自身のアイデンティティを、それなりに持った上で、そしてその人自身の判断として、対象を肯定していることになります。 それに対し、NEEDは、「離れたくない」「止められない」という二重否定的な感情であり、対象とする相手を肯定しているというよりも、自分自身を否定し、「自分自身から逃避」している・・・そんな点が違っています。 自分自身で、自分自身の価値が見いだせないがゆえに、対象とする相手に、自分の価値を依存してしまう。自分の価値を依存している対象なんだから、まさに「NEED」になりますよ。 NEEDは、そのまま日本語とすると、「必要とする」になるわけですが、それは「離れられない」「止められない」の二重否定であり、より心理的な用語を使いますと、依存であり、中毒であり、耽溺となり、あるいは、「入れ込み」と言うことになる。 それこそ、中毒となると、アルコール中毒が有名です。 単にアルコールが好きという肯定的な心情なら、夕食後にでも、人より多めの量を、心ゆくまで飲めばいいだけ。 しかし、「離れられない」という二重否定となると、まさに真っ昼間から飲むことになってしまう。本当にお酒が好きなのなら、ちゃんとしたシチュエーションで味わいながら飲めばいいわけですが、「離れられない」という心理なので、飲むTPOを選んでいられない。ヘタをすると、工業用のアルコールにまで手を出す始末。 このような症状に近いのは、「逆・約束の地」という発想です。 「あの○○に帰れば、この苦しみから解放される!」そんな発想に浸ってしまって、逆に言うと、現実を直視することから逃避する。 それこそ、お相撲さんだった、朝青龍さんが、「モンゴルに帰りさえすれば・・・」そんな感じで、何かあると、スグにモンゴルに向かったでしょ?そんな行動は、モンゴルを肯定しているのではなく、現実と向き合うことにそれだけ恐怖を感じているんですね。 朝青龍さんは、モンゴルを愛している(=LOVE)ではなく、必要としている(=NEED)になっている NEEDは、心理的には依存であり、つまり自分以外の他のものに依存しなければならないほど、自分自身のアイデンティティがカラッポということ。 それを自覚して、自分なりに充実させていけばいいわけですが、抑圧的な人間は、手っ取り早くその空虚感を埋めようと他者に依存することになる。 中毒とか依存となると、それこそアルコール中毒のような代表的なものから、あるいは、特定の趣味に入れ込む人もいらっしゃいますよね? 趣味だって、LOVEなのか?NEEDなのかによって、扱いが違ってくるわけです。 プラモデル作りに打ち込んでいても、それがLOVEのような肯定的なものなら、別の対象・・・たとえば家族も愛することもできる。あとはバランスの問題だけ。 しかし、プラモデル作りをNEEDとしている依存状態だったら、両立は難しくなる。だって別のものを手掛けても、それは、プラモデル作りへの障害となるわけで、そうなると、「NEED」が持っている「離れられない」という心情に火が付いてしまう。 「こんなに多くの障害があるのに、オレは、プラモデルをやるんだ!」なんて心理になって、ますます気合いが入ってしまう。 そんなNEED状態の人・・・つまり依存傾向のある人が、プラモデル作りから足を洗って、生身の人間を好きになろうとしても、そのような依存傾向のまま、人と接することになってしまう。まさに「オレにはオマエが必要だ!」と「ストーキング」してしまう。 ストーカーも、相手を肯定的に愛しているのではなく、離れることができないという二重否定状態。 いわば中毒であり、耽溺。逆に言うと、相手のことはどうでもいい。 それこそ、夫婦間なり親子間での暴力が常態化している家庭内暴力の状況において、暴力オトコは、妻を愛しているのではなく、単に必要としているだけ。 あるいは、子供に暴力を暴力をふるう親は、子供を愛しているのではなく、必要としているだけ。 だからこそ、「アイツのせいで、うまくいかない!」とグチりながら、離婚しようともしないし、子供を養子に出すこともしない。 離れられないことが、これすなわち、肯定的な結びつきとなっているというものではないわけです。むしろ「離れられない」という二重否定であるがゆえに、単純な肯定であるLOVEからは二重に遠くなってしまっている。 NEEDというものは、対象と強く結びついているように外からは見えるわけですが、その実際は、自己否定であり、自己逃避。つまり、自分自身との距離の問題になってくるわけです。 アルコール依存でも、あるいは、趣味への依存でも、あるいは宗教への依存でも、一時的に対象から距離を取ることができても、自分自身との距離感の問題は何も解決していないので、依存する対象が別のものになるだけ。 そう言えば、日本の芸能人の方で宗教に入れ込んだり、アルコール中毒になったり、男性に入れ込んだりという女性がいらっしゃいましたが、それって、まさに対象の問題ではなく、自分自身との距離感の問題なんですね。自分自身から逃避しているがゆえに、対象に耽溺し、後になって対象を攻撃することになってしまう。相手を攻撃するというのは、いわば対抗心に依存した状態であり、やっぱり「離れられない状態」となっている。肯定にせよ、否定にせよ、他者に依存しているわけです。 依存においては、ちょっとヘンテコな趣味なり、アルコールへの依存のようなケースだと、逆に言うと、周囲も当人もわかりやすい。もっとまっとうな、世間受けしやすい依存のケースだと、そのひずみが、当人ではなく子供に集約したりすることになる。 それこそワーカホリック(仕事中毒)は、周囲の人からは責められることはあまりないでしょ?しかし、単にその仕事を好きという肯定的な心理ではなく、自己逃避の心理がある場合には、所詮は、依存症の一種と言えるわけです。結局は、家族が犠牲になるだけ。 あるいは、家族に依存・・・特に自分の子供に依存するケースもポピュラーでしょ? 「ウチの子は、いつまでもワタシがついていないとダメだわ!」 その言葉を、他人の間柄でやると、純然たるストーカー扱いですが、家族内でやると、誰からも責められない。 しかし、一人の人間として精神的に自立していないが故に、その自分の価値を他者に依存しているという心理は、アルコール中毒と変わるモノではないわけです。 むしろ、その態度が周囲から指弾されることがないがゆえに、そのまま突っ走ってしまう。 結局は、子供がダメになってしまうことになる。 プラモデル作りにでも耽溺しているくらいだったら、プラモデルがどうなろうと、所詮はプラモデル。しかし、他人をストーキングしたり、自分の子供に付きまとったりしたら、相手が人間だけにシャレにならない。 いつも書いていますが、ダメダメによくあるのは二重否定であって、肯定ではない。 自分が対象に対して持つ気持が、LOVEなのか?あるいはNEEDなのか?それをちゃんと見分けることが必要になるわけですが、自己逃避の人間が、自分は自己逃避であると認識することは論理的に見ても不可能なこと。だからこそ、「これはLOVEなんだ!」と自分で勝手に納得して、そのまま突っ走ってしまう。 そして、その手の二重否定的な人間が持っている発想の代表的なものが、「ふつう」になりたいというもの。 「ふつう」という言葉は、実に説明しづらい言葉ですが、「特に変わったところがない。」という二重否定的な意味として捉えるのが一番適切でしょ? だから、抑圧的な二重否定人間は、「ふつう」の形に憧れ、求めることになる。まさに「止められないほど」強迫的に、「ふつう」を求めてしまう。 別の言い方をすると「人と違ったところを、なくそうと」悪戦苦闘することになる。 逆に言うと、その点につけ込まれやすい。 今回、この「LOVE」と「NEED」を取り上げたのは、昨今、話題になっている結婚詐欺師の事件に関連してです。 狙われたのは、まさに「ふつう」を渇望している男性でしょ?被害者の中には、プラモデル作りに打ち込んでいらっしゃった方もいたようですね。 女性が被害者になるタイプの結婚詐欺師の事件だと、どっちかと言うと、「愛を求める」心情につけ込まれた面が大きいようですが、今回の男性は、「ふつうという形」を求める面につけ込まれたのでは?だって・・・今回の男性たちが愛を求めているとは言えないでしょ? 「ふつう」を求める人は、二重否定であり、自己逃避であり、自分で考えることから逃避している。 逆に言うと、自己逃避人間は、周囲が上手にリードすると、計算通りに流れていくもの。 そもそも「変わったものがない」という「ふつう」状態を渇望し、「止められない」「避けられない」というNEEDの心情にいる人間は、人を観察する際にも「都合の悪いものは見たくない」という二重否定的な観察眼を持っていることが多い。都合の悪いものを認識してしまって、離れる必要が出てきてしまうのが怖い。「一種の洗脳状態を自分で作ってしまう」わけです。 「都合の悪いものは見たくない」んだから、どんなに前兆があっても、無視してしまいますよ。あるいは、その解釈において、「都合のいいように解釈」してしまう。 たとえば、今回の事件では、大学院の学費として何百万円を出させた・・・そんな話が出てきましたよね? 「本来なら、そこでヘンと思うだろうに・・・殺された方は何を見ていたの?」 そのように思われた方もいらっしゃったのでは? しかし、お金を出させるというのは、依存症に陥っている人間をリードするには、効果的な手段なんですよ。 以前に、エーリッヒ・フロムの「サディズム」の考えを紹介いたしましたが、サディズムは、基本的には、相手への支配欲であって、ムチを使った暴力的なサディズムだけでなく、アメを使った優しいサディズムもある・・・そんな考えを紹介いたしました。アメであろうが、ムチであろうが、所詮は支配欲が重要になるわけです。その考えを使えば、相手に「お金を出させる」ことによって、「アナタはワタシの支配者」という関係性が確定した・・・と、心理的にはなるわけです。相手が持っている人に優しいサディズムを刺激しているわけです。 相手にお金を出させることによって、「心理的な結びつき」を確定させる儀式としているわけです。 いわば、お金を出させることによって、その男性の役割なり居場所を「作ってあげた」わけです。「この人にはオレが必要だ!」と思わせてあげることによって、相手から依存される関係性に、心理的に依存するという「共依存」状態を作ってあげたわけ。 自己逃避人間にしてみれば、安直に、役割なり居場所ができたので、喜んでしまう。 そして、まさに「NEED」になってしまう。 NEEDは別の言い方をすると、「入れ込み」であって、結局はどっちかが血を見ることになるもの。 自己逃避の人間は、逃避し続けているがゆえに、自分の居場所や役割を求めているもの。 いわば「自分探し」状態。 それが集団化すると、「ボランティア」の連中になるわけです。 程度問題は別として、ダメダメ家庭の周囲では常にみられる光景と言えます。 今回は男性が殺されたわけですが、NEEDというか、依存という心理がある人は、ちょっと歯車が狂うと、相手を殺す場合もある。そして自己逃避であるがゆえに、そんな自分自身の心情まで分からない。 何回も書きますが、依存というのは、対象との関係性の問題というよりも、自分自身との距離感の問題なんですね。対象そのものや、対象との関わり方は多少変化しても、自分自身から逃避しているという点においては、変わらないわけです。 「ふつう」という言葉を頻繁に使う人は、自己逃避であり、自分自身が見えていなくて、それゆえに相手が見えない。だから、「ふつう」という形に拘る人は、「一般的」なり「平均的」な人とは結婚しないもの。 そして、トラブルになって、「ワタシは、ただ、ふつうの生活がしたかっただけなのに・・・」と嘆くことになる。 しかし、そんな姿を見て周囲の人は、「えっ?あの人と結婚して、どうやったら、ふつうの生活になると思っていたんだろう?」なんて、ビックリしたりするもの。 「ふつう」を求めているがゆえに、「都合の悪いものは見たくない。」という心情になってしまう。その結果が、まさにこんな事件というわけです。 本人が自己否定であるがゆえに、相手から自分を否定された結果になる。 論理としては、あまりに明確でしょ? このような事件があると、「あのオンナはケシカラン!」と倫理的な観点から加害者を断罪してオシマイとなってしまうもの。しかし、そんなオンナに引っ掛かるくらいの「人を見る目」のない人間が、将来において自分の子供を守ることができるの? しかし、人を見る目がないが故に、自分が支配できる存在である子供を求めてしまう・・・ そんな姿は、往々にして、その人の親譲りだったりするもの。 そんな点を、自覚していれば、この手の事件の被害者にならずに済むわけですし、上手に利用すれば、まあ、その手の人間を対象とできるわけです。 (終了) *************************************************** 発信後記 「ふ・つ・う」を渇望する人は、要は人に合わせようとしているだけ。 つまり自分では考えたくないわけ。 だから、人と違っている面を、必死に修正しようとする。 そうやって、「自分はどうしたいのか?」について考えることから逃避するわけ。 それこそ結婚詐欺事件の被害者も、「歳をとって老人になったら、子供がいないと寂しい。」とか「自分の介護を子供にやってもらいたい。」という発想があって、無理に結婚しようとしているのかもしれませんが、そんな感じで、「子供に要求する」ことばかり考えていたら、結局は、子供も逃げ出してしまいますよ。 そんなことは、自分の親を見れば、わかることでしょ? 逆に言うと、自分が一番よく知っている事例について考えることから逃避したいと思っているわけ。そんな人なんだから、誰でもわかるような怪しい前兆があっても、無視してしまいますよ。 そんな人は、子供にとっても、もちろん、妻にとっても、困った夫でしょ? 自己逃避だからこそ、「ふつう」という形に拘るわけで、だからこそ、トラブルになる・・・そんな流れは、レヴェルはともかく、ダメダメ家庭の周囲ではお約束のように繰り広げられているものなんですよ。 |
||
R.11/1/1 |