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カテゴリー やり取りと距離感
配信日 04年3月22日 (10年9月27日 記述を追加)
タイトル 突然かまいだす
ダメダメ家庭の親は自分の子供のことなど、普段は関心を持ちません。
何回も書いていますが、「子供に何か与えてあげよう!」なんてこと考えません
しかし、まるで神からの啓示があったように、突如として「子育て目覚める」ことがあるんですね。

周囲の人から「アナタは放任主義ねぇ・・・」とか言われたり、「アナタって、お子さんのことは、親として全然興味ないのねぇ・・」などと言われたりした時には大慌てで構うことになる。あるいは、当人がたまたま暇になって「何か面白いことないかなぁ・・・」と考え、「そう言えば、子供の相手でもしようか!」と思ったりする時にも、突然に構いだすことになる。慌てて「子育て」に目覚め、狂気のように、「親」稼業を始めるようなことをするわけです。

「この本を読みなさい!」とか
「この服を着なさい!」とか、
「学校の勉強はどうなっているの?」とか、
「アナタ、将来のは何なの?」とか。

子供としては、急に言われても戸惑ってしまいますよね?
今まで放っておかれたので、子供としては、相手の意図がさっぱりわからず戸惑ってしまう。突然に構い出した親の側も、今までの子供と会話があったわけでもないので、子供の興味の対象とか趣味とかも全然知らないわけ。子供としては、自分の趣味とは全く違った本とか服を押し付けられて、困惑の極みの状態。

オマケに親の側は、「さあ!子育てするぞ!!」「よし!子供の相手をするぞ!」と気合が入っている状態なので、目も血走り金切り声。それでいて、一応は善意から発しているつもりのようなので、子供としても無視するわけにもいかない。

普段から子供に構っていないので、子供に着せようとする服なども、趣味が違っているというレベルを超えて、サイズからして違っていたりもする。かと言って、子供としては喜んで着ないとマズイ状態。なんと言っても、親は顔を血走らせて、「さあ!さあ!これで喜べ!」とやっているんですからね。
しかし、サイズが違っている服をどうやって着ればいいの?
本だって、ただ「この本を読め!」というレベルを超えて、「感想を言いなさい!」と迫ってくる状態。

子供としてはどうすればいいの??
嵐が過ぎ去るのを待つしかありませんよね?
まあ、実際にスグ去って行くわけです。ほんの気まぐれなんですからね。
実際に、嵐のように訪れ、嵐のように去って行く。本当に迷惑な存在と言えるわけです。

イングマル・ベルイマン監督の「秋のソナタ」という映画でも、大人になった娘が母親に対して「お母さんが急に私に構い出した時は怖かった!」と言ったセリフもありました。
結構よくあるダメダメな実例なんですね。

あるいは、トルストイの小説の「アンナ・カレーニナ」においても、アンナが別居している夫のもとにいる息子の元に、突然に会いに出かけて大混乱を巻き起こすシーンがありました。
かと言って、それ以降は、やっぱり会いにも、手紙を出したりもしない。
まったく気まぐれに会いに出かけただけ。
そして、その気まぐれと、切羽詰まった雰囲気に、子供は恐怖するだけ。
予想ができない相手に対して持つ感情・・・恐怖とはそのようなものでしょ?

子供としては恐怖が伴っている事件であるがゆえに、よく覚えている実例なんですね。普段とは顔つきが変わって、狂気のように子供の世話をする親の姿。皆さんも覚えていませんか?

そもそもダメダメな親は、その発想の根本が否定形であり、子供という存在を肯定しているわけではない。だから、子供をこのようにしたいとか、このようなことを与えたいとかの肯定的な目的を持って子供とやり取りをするわけではない。

「他にすることがない。」というタイミング的なスタイルの二重否定だったり、「相手をしておかないと、自分がマズイ立場になる。」という状況的な二重否定によって、子供に構うわけ。
子供の心情を肯定したわけではなく、常に自分の立場に視点が向いている。
だからこそ、子供にしてみれば、非常にタチが悪いわけ。

頻繁に書いておりますが、子育てに対して当事者意識がなく、「自分は子育てという面倒を押し付けられたかわいそうな被害者」として自分を認識しているのがダメダメな親。
そんなダメダメな親としては、「こんなことは、本来はしなくてもいい」けど、子供の面倒を、「親切な自分がわざわざ見てやっている」という意識になっているわけ。「しなくてもいいけど、わざわざしてやっている」がゆえに、その手間が大きければ大きいほど、その人は親切でいい人ということになるでしょ?
「こんなに大変なことなのに、ワタシはしてやっているのよ!」
そのように周囲に語るわけ。
子育ては親としての義務と考えていたら、子供に構うことを大げさに語らない。
しかし、ダメダメな親は、子育ては被害と思っているがゆえに、周囲に対して、子供への親切を語るわけ。
逆に言うと、そのように語られた子供への親切は、その親がダメダメであることの証明のようなもの。

そんなトンチンカンなダメダメ家庭は、周囲から浮いてしまうのが常識的な見解といえるでしょう。そして、周囲の常識的な人から指摘があり、そのようなアドヴァイスから改善へのきっかけとすることも、論理的には可能と言えますが、現実的にはそうはいかない。
ダメダメな親は、そんな自分たちのダメダメなスタイルが「ふつう」とされる環境を求めるので、実際に、自分たちのダメダメさが周囲から目立たず、そのような気まぐれに構うスタイルが「ふつう」とされてしまうわけ。

本来なら、そんな人は、子供を持たなければ、そんな面倒を背負うこともないわけですが、当事者意識がないがゆえに、何も考えずに、子供を作ってしまう。
何も考えないでできてしまった子供なので、その子供に由来する不都合は、自分に対する「被害」として認識されることになる。
だからこそ、大仰に、子育てによる被害を語り続ける。

以前で、栃木県で青年が、知人をリンチして殺して埋めた事件がありました。その主犯の青年の警察官である父親が、以前に自分の息子を呼びつけて、そのことを「子供の話を聞いたことがあった。」とか言っていました。しかし、呼びつけられた側の子供としても、たとえ父親といっても、今までやり取りが何もない人から、突然に呼びつけられて、「おい!何か困っていることがないか?」と尋問されても、「アンタからの急な呼び出しに困っているよ。」と思うのは、本来は誰でもわかること。
子供の側としても、やり取りの実績もなく、つまり相互理解もできていなくて、会話の能力がない親から突発的にからまれても、怖いだけ。
だから、生返事でお茶を濁すことになるのは当然でしょ?

しかし、突発的にからむ人は、むしろ「わざわざ話をしてやった」という意識であり、ある種の被害として認識している。自分の被害を意識しているので、恩着せがましい。
そして、被害感情が伴っているので、相手が喜ばないと怒り出す
「オレがこんなに親切にしてやっているのに、なんなんだ、オマエのその態度は?!」
そんな怒りの姿に、「構われた」子供としては、ますます恐怖することになる。

ダメダメな親は、このように狂気のように「親」稼業に取り組み、1週間後にはそのようなことをすっかり忘れているわけ。
しかし、「せっかく、自分が相手をしてやったのに、子供が喜ばなかった。」という被害感情だけはいつまでも記憶している。そして、そのことで、後になって怒ったりする。
これでは子供もビクビクしながらの「子供」稼業になっちゃいますよね?

その栃木県の事件でも、犯人の父親がそのように、息子とのやり取りを語っているということ自体が、その事件の要因を説明しているわけです。
子供だって家庭内でそれだけビクビクして、気を使っているんだから、当然のこととしてはけ口を求めるようになるでしょ?

ダメダメな親は、「子供に構ってやった!」と、恩着せがましく、つまり自分の被害感情を伴った形で語っても、「自分の子供はこんなことが好きで、今ちょっとこんなことに困っているようだ。」という具体的な形では語れない。

気分次第で突然に子供に構い、そして、それにより「子育てという面倒を背負わされたかわいそうな自分」を確認し、さらに被害者意識を膨らませていくだけ。
気まぐれに、突然に構うからこそ、子供の側のストレスは一方方向に蓄積されていってしまうことになるわけです。

(終了)
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発信後記

このメールマガジンは最初のサンプル発行が9月23日でしたので、発行を始めてほぼ半年といったところです。もう70本以上配信しております。
まあ、この「目次録」が完成したら結構価値があるものになると思いますが・・・
完成はまだかなり先になりそう・・・
それまでお付き合いよろしくお願いいたします。
R.10/9/27