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カテゴリー やり取りと距離感
配信日 05年9月2日 (10年7月31日 記述を追加)
タイトル コミカルでシリアスなハリネズミのジレンマ
「ハリネズミのジレンマ」という言葉はご存知でしょうか?
あるいは、「ヤマアラシのジレンマ」とも言ったりします。
このメールマガジンの文章は、くだけた言葉を使っていますが、内容自体は結構高度なことを書いていたりします。ですから「購読者の方の知的レヴェルは結構高いのでは?」と発行者としては勝手に推測しています。本屋さんに平積みで置いてある本などよりも、はるかにレヴェルは高い文章でしょ?
そうそう、「ハリネズミのジレンマ」というのは、人と人の間の「適正な」距離の話です。

寒い日に、ハリネズミが2匹いた。寒いのでお互いの体温で暖め合おうと近づいていくと、お互いのハリが刺さってしまう。かと言って離れすぎると、暖かさが伝わらない。ということで、2匹のハリネズミは「傷つかず」「ぬくもりを感じる」適正な距離を見つけた・・・そんな話です。
このメールマガジンは人間関係についてのメールマガジンの一種であると言えるわけですから、購読されておられる方もその分野に関心があるわけでしょう。ですから、どこか別の機会でこの話をお読みになったこともあるでしょ?

この手のハリネズミのジレンマは何もダメダメ家庭のみで起こるわけではありません。新婚夫婦が実家と「スープの冷めない距離で別居」なんて言い方があったりするでしょ?同居すると面倒が起こるし、電車を使う距離だと完全に疎遠になってしまう。お互いがジャマにならない近さというものがあるわけ。これも人間同士の適正な距離の問題というハリネズミのジレンマの一種ですよね?

このように、マトモな人間にもハリネズミのジレンマという問題は起こるわけ。
試行錯誤の結果で、適正な距離を見つけて、そこに落ち着くことになる。
しかし、ダメダメ家庭の人間だと、もっとシリアスで複雑になってしまうわけです。

そもそも、ダメダメ家庭の人間は「人に入れ込む」ことが多いと何回も書いています。普段から「自分は周囲に理解されていない。」と思っているので、「自分の理解者」と認定した人への「入れ込み」は激しいわけ。だからハリネズミのジレンマのケースですと、もう1匹のハリネズミへ近づきたいという欲求は激しいわけ。

しかし、ダメダメ家庭の人間には別の面もあります。
親が子供を守ろうとはしなかったため、ダメダメ家庭出身者は「他人は頼れない!」「自分の身は自分で守る。」という切羽詰った心理状態になっている。だからトラブルが起こりそうになると、スグに、ハリネズミどころか脱兎のように、逃げ出すわけ。
「常に逃げ場を意識する。」という発想を持っているわけです。

それにダメダメ家庭の人間は、一般の人間よりその「ハリ」が長くて強力でしょ?それにその肌は柔らかく傷つきやすい。「傷つけやすく」「傷つきやすい」そんな特性があるわけです。それにともなってジレンマも強力になってしまうわけ。

つまりハリネズミのジレンマの例でいうと、「お互いのぬくもりを求め、近づきたい!」という欲求は、一般のマトモ人間よりも遥かに強く、「傷つけ合うことから逃げたい!」という欲求も、一般のマトモ人間よりも遥かに強いわけ。

それでは「適正な距離」を見つけてそこに落ち着くというわけには行かないでしょ?
適正な位置をみつけると、それなりに安定することができる。そんな位置は、人間関係に限らず、色々な分野で存在するもの。
たとえば、天文学では地球と月と太陽の引力の平衡点をラグランジェ・ポイントと言います。そこにいれば、月にも地球にも太陽にも引っ張られずに安定して、落ち着いた状態でいられるわけ。

一方方向に引っ張られないラグランジェ・ポイントは、天文学だったら明確ですし、2匹のハリネズミだったら何とか見つけることもできるでしょう。
あるいはマトモな家庭の出身者だったら、それこそ「スープの冷めない距離」を見つけることもできるでしょう。

しかし、ダメダメ家庭の人間はそうは行かないわけ。
上記のように、「求めること」も激しく、「常に逃げることを考えている」性質を持っている人間が、安定した距離を保てるわけがありませんよね?
それにマトモなハリネズミというものは「自分はハリネズミである。」とわかっているもの。「自分にはハリがあり、相手を傷つけてしまう。」ということを自覚しているわけ。

ハリネズミのジレンマを経て、適正な距離を見つけることができるのは、「自分がハリネズミであり、」「相手もハリネズミである。」ということをわかっていないと無理でしょ?

ところがダメダメ家庭出身の人間は往々にして「自分がハリネズミである。」・・・つまり「相手を傷つけやすい。」ということを自覚していないんですね。

だから相手のことに配慮せずに、気軽に近づいていって、勝手に入れ込んでしまって、相手を傷つけ、その反応によりちょっとでも自分が傷つくと、脱兎のように逃げ出す。
それで終われば大したことではありませんが、その手の人は、また戻ってきたりするんですね。そうして、また同じ人に近づいて行って、勝手に入れ込み、自分がちょっとでも傷つくと、また急いで逃げ出すわけ。

上記で例示した天文学でいうラグランジェ・ポイントでも、凸状態での、かろうじての平衡なのか、あるいは凹状態での安定なのかによって、大きく違ってくるでしょ?
凸状態だったら、ちょっとでも位置がずれると、後は加速して離れてしまう。
そして、たとえ戻ってきても、とんでもないスピードがついている状態。
しかし、凹状態での安定にいれば、ちょっと位置がずれた場合には、自然に適正な位置に戻ってくる。
凸状態の平衡だと、常に意識して、その場なり距離間を維持しておかないとダメ。だからこそ、心理的に疲れてしまう。

ダメダメ家庭の人間は、人とのやり取りにおいて、適正な距離に安定的に落ち着くというわけには行かないんですね。一人で勝手に往復運動しているわけ。そんな人は放っておくしかないわけですが、何せ「人のぬくもり」を激しく求める人なので、かまってもらおうと、再び、近づいて来て、ちょっかいを出してくるわけ。かと言って、ちょっと「かまってもらって」傷ついたりすると、また脱兎のように逃げ出す。「もう、これで最後かな?」と思って安心していると、また戻って来る。

ギャグのように思われる方もいらっしゃるでしょうが、結構ポピュラーな事例です。経験ある方もいらっしゃるでしょ?

一般のハリネズミや一般の人間は、「適正な」距離で落ち着くことができ、少しくらいの刺激があっても、自然に適正な距離に戻って、そこで安定している。つまり、凹状態の安定状態に近い。しかし、ダメダメ家庭出身の人間の場合は、とりあえずは落ち着いていても、実際には凸状態の平衡に近く、自然な安定とはいいがたい。だから、近づきすぎて「傷つき」「傷つけ」、そして必要以上の距離まで逃げ出した後で、また勢いをつけて戻ってくる。
そんな終わりのない往復運動を繰り返しているもの。

以前に取り上げました、ダメダメ家庭出身のフランスの映画監督フランソワ・トリュフォーには、晩年の作品に「隣の女」という作品があります。
その結びのセリフはこんな言葉。
「あなたと一緒では苦しすぎる・・・でも・・・あなたなしでは生きられない。」

(終了)
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発信後記

本文中で言及いたしました映画「隣の女」は81年の作品。10年ぶりに再会したかつての恋人と不倫関係に陥り、最後には心中という話です。
今ほど太っていないジェラール・デュパルデューと当時のトリュフォーの恋人だったファニー・アルダンの主演映画です。
トリュフォーはアルダンと付き合う前は、あの大女優のカトリーヌ・ドヌーヴと付き合っていました。「隣の女」の試写をみたドヌーヴが「呆っきれた!全く・・・なんて人なの!」と絶句したそう。

ドヌーヴとトリュフォーの恋人同士のプライヴェートの実際の会話が、そのまま映画のセリフとして登場していたわけ。
ドヌーヴだって、確かに呆れるでしょうね。
しかし、トリュフォーはそのようなことは常習犯だし、確信犯。今更呆れるも何もありませんよ。それだけ、何事にも真剣とも言えるわけ。まあ、ドヌーヴも呆れはしましたが、立腹したわけではなかったよう。
まあ、「もうっ!まったく・・・しょーがない人だなぁ・・・」と言った感じだったんでしょうね。

その「隣の女」の最後の方で、女性が医者と会話をします。
その医者が、まあ、「お約束」の正論をぶつわけ。
「人間は、愛し、愛される存在だ!」

まあ、別の言い方をすると、「人間は生きているだけですばらしい存在だ!」なんて言い方もありますが、そんな言い方を平気でする人って・・・例外なく・・・鈍感な人ですよね?

そんな正論を聞かされて、アルダンは独特の表情でその医者を見つめます。
そして「アナタは所詮、物分りが言い、上手な聞き役でしかない。」「人生の重さをわかっていない。」と医者に言うわけ。
その言葉はともかく、その時のアルダン演じる表情はやったこともある方もいらっしゃるでしょう。

お時間がありましたら、ヴィデオでも借りてごらんになってみてくださいな。ちょうどツタヤの半額セールのようですし。
R.10/8/1