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カテゴリー | ダメダメ家庭は立派な言葉が好き | |
配信日 | 03年11月19日 (10年7月6日 記述を追加) | |
タイトル | 人間はただ生きているだけですばらしい存在なんだ! | |
ダメダメ家庭は、意外にも、「良識溢れる」・・・とされる言葉が飛び交っているケースもありします。罵詈雑言が飛び交っているのではなく、まるで道徳の教科書から引用したようなご立派で典型的なセリフが、臆面もなく展開されていたりする。 ダメダメ家庭は自分の目で現実を見て、自分のアタマで物事を考えることをしないので、逆に言うと、現実離れしたご高説を臆面もなく持ち出すことになる。 例えば、そんなご高説1つとして、「人間はただ生きているだけで、素晴らしい存在なんだ。」という言葉を、今回では取り上げましょう。 この私も、以前に、高級住宅街に住むご婦人から実際に言われたことがあります。まあ、彼女の娘は登校拒否をやったりしたそうですが・・・ しかし、そのようなありがたい言葉を言われると「アンタが、そんなこと言うような人だから、娘が登校拒否になっちゃうんだよ!」と思ってしまいます。まあ、いくら無鉄砲な私も、サスガに実際には言わなかったんですが、まさに、口の先まで出掛かりました。 しかし、お読みになった方は怪訝に思うのでは? 「人間がただ生きているだけで素晴らしい。」というありがたい言葉が、何故に、娘の登校拒否に繋がるのか?って・・・ ここで、言葉そのものの論理的正当性は横において置いて、その言葉が実際に使用されるケースを考えて見ましょう。 例えば、70歳のおばあさんが、しみじみと「人間は、ただ生きているだけで、素晴らしい存在なんじゃ。」と言えば、周囲も『おお!そうなのか!』と思いますよね? 私だって、素直に聞くことができますヨ。 しかし、10歳の少女が「人間はただ生きているだけで素晴らしい存在なんだよ!」と、周囲の子供や、下手をすれば年上の人に語ったとすれば・・・とてもではないけど、素直には聞けないでしょ? そう!「生きるって素晴らしい。」と周囲に説教する10歳の少女は不気味ですよ。 それに滑稽ですよね? そのような「ありがたい」言葉を聞かされた方は、「オマエ・・・そもそも、本当の人生なんて、これっぽちも知らないじゃないか!」と誰でも感じるでしょう? たとえ、50歳のご婦人でも、三食昼寝付きでテレビばかり見ているような生活のご婦人が「人生は素晴らしい。」と言ったら、滑稽ですよね? そんな滑稽さを踏まえて、ここで、同じ成人同士の間柄であれば、軽く聞き流したり、もう会わなくなるという方法も取ることができます。 そんな問答無用の説教人間とやり取りをしてもつまらないだけですよ。 しかし、親子の関係だったら? そんな状況だと、子供にはつらいですよね? 何と言っても、「会わなくなる。」という方法は取れない。家族だったら、どうしても毎日顔を合わせることになる。 そのような時に、この「人間は、ただ生きているだけで素晴らしい。」というような問答無用の正論が展開されたら? そもそもこの「人間はただ生きているだけで素晴らしい。」という言葉は、どのような時に使われるでしょうか? 朝の挨拶?買い物での交渉?まさかね・・・ このような言葉が発せられるのは、それなりの状況がある時です。 往々にして、子供が人生の問題について考えて「人は何故に生きるのか?」などと考え込んでいて、それを親に意見を求めたりする場合でしょう。あるいはテレビなどで、非常に辛い思いをしながら生き抜いている人が紹介されていて、もし、家族でそれを視聴していたら、子供がそのような「問い」を親に対して投げかけてくることもあるかもしれませんね。 「あの人って、あんなツライ日々なのに、生きているんだね・・・」 「そうまでして、生きて生きないといけないのかな?」 つまり、子供なりに色々と考えている状態の時に、このような「問い」が発せられるわけです。「人間の生きる価値って、いったい何だろう?」ってね。 決して「そこの醤油を取って・・・」と同じフィーリングではないわけです。 そのような子供の疑問に対して、あっさりと『人間は生きているだけで素晴らしい。』という回答を親がしたら? その回答を受けて、子供は「そうか!そうか!ボクはただ生きているだけでいいのか!」と納得するでしょうか?そもそも、そんなに簡単に納得するような子供が、「人間はなぜ生きているのか?」などとシリアスな疑問を持つでしょうか? 「人間は生きているだけで素晴らしい。」 この正論は正論であるだけに、反論が出来ないものです。 しかし、「正しい」意見などは、このような場合に意味がないのです。むしろ正しいからこそ、反対意見が許されないからこそ、子供にはダメージになってしまう。 「人間はただ生きているだけで素晴らしい存在」なのに、そんな当然のことに対して疑問を持ってしまって・・・ああ!ボクは何とダメダメ人間なんだ!!」となってしまう。「ああ!このボクは生きる資格がないんだ!」と、自己嫌悪なり自己否定につながってしまう。 ダメダメな親はそこを追及したりします。さながら異端審問のように。 『そんな当然のことに疑問を持ってはいけません!!』『なんて子だろうね!もうっ、ワタシは情けないよ!』『なんてことを言い出すんだろう!オマエはケダモノだ!』『そんな考えを持っていると、地獄の業火に焼かれるであろうよ!』『オマエは永遠に呪われるであろう!』 子供からの質問を受けたダメダメな親は子供に納得させるというよりも、二度とそのような面倒な質問が出てこないようにしたいと思ってしまう。だから、揚げ足取りに似た雰囲気で、子供からのそんな質問を追及する。 ダメダメ家庭を作る人間は、相手から合意を取るというよりも、「反論されない」状態を作りたいだけ。だからこそ、「反論されにくい」ご立派な言葉が大好き。 「生きているだけですばらしいんだ!」と言う立派な言葉を投げつけることによって、相手を殺すこともできるわけです。少なくとも、子供の心は簡単に傷ついてしまうでしょう。ギャグのように思われる方もいらっしゃるでしょうが、論理的にも心理的にもそうでしょ?それにダメダメ家庭においては、現実に起こっていること。いや!ダメダメ家庭だけではなく、ダメダメな学校もそんなパターンでしょ? 「生きているだけで素晴らしい。」そんな問答無用の正論によって、ダメダメな親は会話を中断させたいわけです。折角、子供が会話を求めているのに、そんな正論によって、取り付く島もない状態になるわけです。子供はその大正論に対して、何か反論できるでしょうか? 「だってぇ・・・」と口ごもるしかない。 納得していなくても、納得したふりはしますよね。子供だって異端として認定され、地獄の業火に焼き尽くされたくはありませんからね。こうやって、家庭内から、フランクな会話が喪失し、とおりがいい余所行きのやり取りばかりになってしまう。 現実から逃避し、会話から逃避したがる親は、反論されにくい正論をスグに持ち出すことによって、会話や思考から逃避してしまう。 「とりあえず、これ、言っておけばいいじゃん!」「これだったら、誰も文句を言われないだろ?」そんな軽いノリで「人生はすばらしい!」といっているだけ。 『そこの醤油を取って。』と言われて「ハイ!どーぞ!」と応える。そんなノリとまったく同じなんですね。 議論の出発点としての適切な言葉と、議論の終着点としての言葉・・・これは全然違っています。議論の出発点として適切な言葉は、相手に様々な考えを喚起させる言葉なんですね。考えや議論がスグしぼんでしまうようでは、不適切といえます。 だから正論というものは、議論の出発点としては不適切なんですね。 それと同時に、子供の目の前で「実際に生きている」親が、「人間は生きているだけで素晴らしい。」と本当に思っているのか?このことは子供も見ています。また親が「子供は・・・つまりボクは・・・生きているだけで素晴らしい存在。」と本当に思ってくれているのか?あるいは、その親当人が自身を肯定的に見ているのか?子供としても、やっぱり見ているものです。 普段から、グチばかりなのに、子供からそんな質問を受けた時だけ、「生きていることは、すばらしい!」と言う・・・しかし、そんな「言葉」は説得力がゼロでしょ?そんな「形ばかり」の言葉を言われてしまったら、何を言えばいいの? 主張というものは、普段の行動とリンクしているもの。 「これ言っておけば反論されないだろう・・・」くらいの雰囲気で、何も考えずに、心にもないセリフを、平然と言い放つ親に対して、それ以上何を言うの? 単なるタテマエとしての「人間は生きているだけで素晴らしい。」という言葉は、「うーんっ!もうっ!鬱陶しい!面倒な事を聞くな!」「私はそのようなこと考えたくもないんだ!!」と全く同義でもあるわけです。 ですから、質問してきた相手に対しては「私は議論したくない!考えたくもない!」「子供とやり取りをしたくない!」というような本音の部分も子供に伝わってしまうわけですね。 会話なんて、実際に、これっぽちも進まないでしょ? 本当に子供の人生を大切に思っているのなら、そんな子供からの質問に真摯に答えるものでしょ? 逆説的な言い回しになりますが、「子供が生きて、考えていること」を、軽んじているからこそ、子供の質問を一刀両断してしまうわけでしょ? そんな正論からは、その家庭の会話の不全や、親の現実逃避が簡単に見えてくる。 だから、「人間はただ生きているだけで、素晴らしい存在なんだ。」と言うゆるぎない正論は、子供の登校拒否に繋がってしまうわけです。 それに、「生きているだけで素晴らしい存在」であれば、他に何もしなくてもいいわけです。 「何か新しいことにチャレンジしたい。」と子供が言い出したりしても、親の側から『アナタは生きているだけで素晴らしい存在なんだから、余計なことしなくてもよろしい。』なんて言われちゃったらどうします? 色々とチャレンジして、そして失敗してしまった後で「まあ、気を落とすなよ!生きていれば色々とあるよ!人間は生きているだけで、すばらしいものなんだ!」という慰めの言葉なら、その言葉もそれなりの意義があるといえるでしょう。 しかし、ダメダメ家庭においては、チャレンジする前に「生きているだけですばらしい!」という言葉を投げつけてしまう。 「生きているだけですばらしい」んだから、チャレンジは余計なことであり、そこでの失敗は、当人の「不徳」ということになってしまうでしょ? だからこそ、そんな言葉を受けた子供は、極度に失敗を恐れるようになってしまって、何もできないままになってしまう。そんな極度の警戒感の中で、どうやって「生きているって、すばらしい!」なんて思えるの?しかし、親からの大正論を受けた子供は、そんな失敗できない日々の中から、「生きているすばらしさ」を得ようと無理をすることになり、結局は精神的に疲れ果ててしまう。 正論が跋扈したダメダメ家庭においては、人生を何も体験しない前から「人生はすばらしい!」という正解が決定されている。だからこそ、その正解に到達するために、必死の思いで人生を生きることになってしまう。 まさに、わき目も振らず、「正解以外を考えてはいけない。」という教条的な雰囲気の中で、人生を生きることになる。 これでは、精神的に疲れ果てて、登校拒否にもなりますよ。 ダメダメ家庭においては、プラス方向へのチャレンジを否定するどころか、マイナスからのリカヴァリーも否定してしまう。 それこそ、「病気になって、このままでは、後遺症が残ってしまう。」「早急に治療が必要だ!」 そんな事態になっても、それを放置するしてしまう。 「だって・・・後遺症くらいはいいじゃないか!半身不随だっていいじゃないか!人間は生きているだけですばらしいんだぞ!エライ先生方も言っているじゃないか!」 適切な治療をすれば避けられる後遺症であっても、「生きているだけですばらしい。」という名目を掲げて、後遺症を受け入れてしまう。 あるいは、進学のような場合でも、この正論が適用されたりする。 「高校なんて行かなくてもいい!人間は生きているだけですばらしいんだから!」 そのように子供に言い渡して、進学のサポートをしようとしない。 ダメダメな状況においては、子供の可能性を摘み取ったり、ハンディキャップを放置する大義名分として、「生きているだけですばらしい」という大正論が活用されてしまう。 挙句の果てには、西郷隆盛認定の正論である「子孫に美田を残さず。」まで持ち出し、子供へのサポートを拒否する。 そして、「子供にいのちを与えてやったワタシって、なんて、すばらしいんだろう?!」「西郷隆盛に従って、子供へのサポートを拒否したワタシはなんと立派な親なんだ?!」と自画自賛するだけ。 そのような道徳の教科書のダイジェストのような言葉を発する人間は、往々にして実際の会話を家族で行っていない。 そんな状態だったら、子供だって、親と話をするよりも、道徳の教科書を斜め読みした方がラクですよ。それに、そんな正論大好きの女性と結婚した夫だって、若い頃はいざ知らず、社会経験を経た後では、現実無視の大正論は鬱陶しく思いますからね。会話というものは、相手の言葉が予測できないからこそ意味があるわけでしょ?結局は、夫との会話もなくなってしまう。 そうなると、夫からの現実世界の情報が入らなくなる。そうなると、定評ある道徳の教科書的な見解だけを、ますます尊重するようになって行く。あるいは、まさに典型的な「ヒューマンドラマ」のようなものから、「人生を学ぼう」とする。 いわば、正論がスパイラル的に進化し、現実がスパイラル的になくなってしまう。 人生の最後にしみじみと振り返る場合には適切な言葉であっても、人生に出発点に叩き込んでしまうと逆効果になってしまうだけ。 あるいは、チャレンジの後には有効であっても、チャレンジの前には、不適切となることもある。 言葉はその使われる状況と切り離して考えても意味はない。 このように色々と考えてみると、会話を終わらせ、チャレンジを否定するこのような正論が、ダメダメ家庭を作り上げるのにいかに効果的かが理解できるでしょ? ダメダメ家庭の親は、正論を言うことで、子供との会話を終わらせようとしたり、正論を使うことで、子供のチャンレジを阻害したり・・・と、子供の可能性と摘み取ってしまう。『コレ、言っておけばいいじゃん?』といったズボラな気分でのやり取りになってしまう。親として自分の子供のことを、考えようとはしない。 ダメダメ家庭の親は、「人生はすばらしい!」と子供に言わせるように命令しても、自分の子供が「人生はすばらしい!」としみじみ思うような人生を送ってもらいたいとは考えない。 それこそ北朝鮮の民衆が「将軍様のおかげで、我々は幸せ!」と「言わせられる」のと全く同じなんですね。 「おお!人生は美しい!」とつぶやく10歳の子供は、害にしかならないんです。 そんなこと70歳になったり、余命が見えてきたら、しみじみと感じればいいんですよ。 お気軽で、レディーメイドなスタイルで、人生を語ってしまっている・・・そのこと自体から見えてくるものもあるわけです。 自分で考えることなく、ご高説を盲目的に信奉する姿は、結局は親譲りだったりするもの。 「人間は、生きているだけですばらしい!」という立派な言葉は語っても、自分の人生に真摯に向き合うことから逃避している姿勢も、結局は親譲り。 そんな家庭環境で育つ子供が、自分の人生を肯定できるわけがないじゃないの? (終了) *************************************************** 発行後記 福岡の方でまたダメダメ家庭の事件があったようですが… 若い亭主が自分の子供を「なつかない」と殺しちゃった事件ですね。 そのようなどうしようもない亭主を非難することは簡単ですが、周囲の人がもっとしっかりしていれば、子供を作らないようにもっていけたはずです。 そもそもそんな男は子供を持つ資格なんてありませんからね。 結局周囲の人もダメダメなんですね。特に実家の連中は何をやっていたのやら? |
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R.11/2/14 |