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カテゴリー ダメダメ家庭は立派な言葉が好き
配信日 09年2月6日
タイトル 女性への敬意、女性への蔑視
ダメダメ家庭の人間は、自分自身で考えることはしない。ただ、ありきたりなカテゴリー分類をして分かった気になっているだけ。
それこそ韓国人は、「○○北道」とか「△△南道」とかの地域分類だったり、学歴分類だったり、身分分類だったり・・・とカテゴリー分類しかしませんよね?
そんな人は、「カテゴリーはいいとして、アナタ自身はどんな人なの?」というシンプルな質問に答えられない。

あるいは、ダメダメの「メッカ」と言えるイスラム教徒もカテゴリー大好き。
スンニとかシーア派とか・・・宗教的な考え方に違いがあるのはいいとして、無理に対立する必要はないじゃないの?だって、まさに「神様だけが真に偉大。」なんでしょ?
このようなことは、それこそ左翼学生運動でも全く同じですよね?「○○派」とか「△△派」とか・・・カテゴリーが重要ではなく、「苦境にある労働者をどうサポートするのか?」の問題が重要なのでは?

本来は、自分が所属している集団が重要というより、本人自身の問題なりキャラクターの方が重要でしょ?
しかし、「自分がどう考えるのか?」という問題から逃避しているダメダメ人間にしてみれば、カテゴリー分類でわかった気になるのがうれしい。わかった気になることによって、それ以上まで考えることから逃避できてしまう。
しかし、そんなことをしているから、ますます思考力が向上しない。だからこそ、ますますカテゴリー分類に精を出すしか能がなくなってしまう。

このようなカテゴリー分類の代表が性別分類ですよね?
男女を全く同じ扱いにすることは生物的に無理でしょう。社会的にも色々とハンディがあったりする。しかし、カテゴリー分類しか能がないダメダメ人間は、あらゆることを、そんな男女分類で考えることになる。
そんな女性がよく言ったりするのが、「女性への敬意」だったり、全く逆に「女性への蔑視」という言葉です。方向性は違っていますが、実は全く同じもの。

ちなみに、芸術表現の世界では、そんな「女性への敬意」なんて言葉を使ったりするような登場人物は、「もっともらしい正論を言うけど、実際には何もわかっていない。」というキャラを描写するのに使われたりします。

以前に取り上げたノーベル賞作家のエルフリーデ・イェリネクさんの「ピアニスト」という小説において、まさにそんな記述がありました。
「あなたも・・・母親から生まれたんだから・・・もっと女性への敬意を持ちなさい!」なんて、主人公の女流ピアニストのエリカが、生徒の男子学生に対して説教するシーンがありました。

一見もっともらしい論理のようですが、逆に言うと、そのもっともらしい外見であるがゆえに、「何もわかっていない人間」が使いたがる言葉なんですね。いわば「とりあえず、コレを言っておけば安心!」くらいのズボラなフィーリングとなっている。
そもそも、主人公のその女流ピアニストだって、自分が見も知らない女性を「子供を産む能力がある」というだけで、敬意の対象に値する・・・と本気で考えているの?
そんな一般論を言うより、自分が知っている女性を具体的に取り上げ、「この女性はこんなにすばらしいのよ!だからもっと尊敬してね!」と言われた方が納得しやすいでしょ?

それに、その「ピアニスト」という作品の主人公のエリカは、「あなたも母親から生まれたんだから・・・」などと言ったりしますが、そのエリカ自身は、結婚もしていないし母親ではない。そのエリカ当人はどう扱えばいいの?
「ワタシは、こんなにスゴイのよ!」なんて自画自賛を聞かされた方が、まだマシですよ。だって具体的に考えることができるわけですからね。

カテゴリーで扱うと無理が出るんですね。そんなことをするよりも、尊敬に値する実際の女性たちについて語れば済む話ですよ。
逆に言うと、芸術表現の世界においては、そんな「女性への敬意」という一般論でしか語れないキャラ・・・それだけ物事を本当には分かっていない・・・ということが表現できることになる。まあ、ちょっとしたヒネリのある表現の一種です。

つまり、その女流ピアニストのエリカさんも、古今の様々な作曲家の作品に対する「理解」はその程度・・・通りのいい言葉は並べられるけど、本質的な理解はしていない・・・その程度のピアニスト・・・という作者のイェリネクさんの描写なんですね。
作者イェリネクさんとしては、そんな記述から、読者に対して「女性への敬意」を要求しているのではなく、登場人物のエリカの抑圧的で、自己逃避で、思考停止なキャラクターへの認識を求めているわけです。

具体例を挙げて説明できないということは、具体的に考えていなし、理解もしていないということ。
まあ、芸術作品に対する理解が不十分になってしまうくらいなら、笑って済む話でしょう。
現実でのやり取りにおいて、そんな一般論ばかりだったら、笑い事では済まない。

たとえば、韓国の問題だって同じでしょ?「韓国人は偉大だ!」なんて連呼するよりも、「立派な韓国人」を具体的に上げた方がマシですよ。それができないのは、立派な韓国人が存在しないのか?そもそも「韓国人は偉大だ!」と連呼する人間の知能が低いのか?そういう問題になるわけです。

自分自身の思考力の不足を隠すために、カテゴリーで分類して分かった気になる。
だからそんなカテゴリー分類が頻発する人は、会話の能力がない人ばかりでしょ?はっきり言って、一緒にいても楽しくない人と言えるでしょ?

「女性への敬意」を要求するような女性に、「いいオンナ」って、いないでしょ?
あるいは、スグに「女性への蔑視だ!」なんてクレームをつけるような女性だって、「いいオンナ」だったためしがないでしょ?
何か女性絡みの事件があった際に「女性への蔑視」なるコメントを出される識者さんがいらっしゃいますが、芸術表現の分野だと、そんなコメントは、コメントを出した人の精神的な抑圧を表現してしまう。まあ、芸術表現の分野ばかりではなく、現実でも、そんな一般論ばかりで、被害者意識が強いコメントを出すような人は、危険人物と言えます。
そんな人を蔑視する必要はありませんが、避けた方が無難なんですね。

何もこのことは、女性に限るわけではありませんネ?
同じような「男性への敬意」という言葉もあるでしょ?
「オレたちオトコは、オマエたちオンナを守ってやっているんだ!だから敬意を持て!」
そんなことを言う男性に「いいオトコ」なんて、いたためしがないでしょ?

世の中には「女性を守っている」男性もいるでしょうが、そうではない男性もいますよ。そんな男性まで一緒に議論する必要なんてないじゃないの?
女性だって子供を産んだ女性もいれば、産んでいない女性もいますよ。
そもそも「子供は女性から産まれたんだから、アナタも女性に対して敬意を持て!」と要求する女性は、出産経験がない女性のことが多いでしょ?
そんなに出産することが、立派だと考えているんだったら、自分で達成すれば、それでいいじゃないの?

「いいオンナ」の物言いは、それこそ「ワタシたちオンナって、こんなことしちゃうのよねぇ・・・自分でも笑っちゃうわ!」とか、あるいは「いいオトコ」の物言いは「オトコって、いつまで経っても子供だよな、ワハハ・・・」そんなものでしょ?
敬意は他者に要求するものではありませんよ。
敬意を他者に要求する時点で、敬意に値する人物ではない・・・それが現実というもの。
女性への敬意を主張している時点で、いいオンナにはなれないわけです。

「自分はこのように考え、このようにしたい!」
って、性別やその他のカテゴリーに関係なく言える話でしょ?まずは、本人の問題でしょ?それぞれのカテゴリーには、実際にそれぞれの特色もあるでしょうが、ダメダメな人はカテゴリー分類によって、自分自身の問題から逃避してしまう。そして逃避しているという自覚からも逃避する。一般論で語ることにより、当人は何もしなくてもいい。だから当人にはラクチン。

所属しているカテゴリーが一緒というだけで、何も知らない人間と自分自身を同一視する・・・ということは、ある意味、「自分自身について、何も知らない」ということと同一なんですね。

(終了)
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発信後記

「女性への蔑視」なんて言葉は、それこそレイプ事件などのコメントにお約束のように出てきます。とは言え、そんな簡単な言葉で、その心理が理解できるわけがない。

昨日に、義父にレイプされ、売春されられた少女のニュースがニュースサイトに載っていましたが、義父はそんな人間として、じゃあ、実母は?
そういう問題になるでしょ?
そもそも、そんな鬼畜なオトコと再婚する時点で、その母親も、かなりマズイでしょ?

その少女も、その義父の問題は、まだ自覚しやすい。
その少女に対して、「アナタは悪くない!」と言ってあげるのはいいとして、実際問題として、実母の問題の自覚まで導いてあげないと、トラブルがあるとスグに思考停止になる人間になってしまう。
スグに思考停止になるがゆえに、当人が一番よく知っている、その行動になじんでいる実母と同じようなことをする・・・
そんな実例も、ご存知の方もいらっしゃるでしょう。

そして、他者に敬意を要求したり、遠くの存在を犯人認定して、「蔑視だ!」と被差別意識を叫ぶことになる。
以前にも書きましたが、鬼畜な義父と、周囲には「いい人」と認定される母親の組み合わせによるダメダメ家庭は結構存在するもの。その「いい人」認定された母親は、ボランティア活動なんてやっていたりする。周囲から人格者と言われているものだから、子供としても、それに配慮して問題を顕在化できないわけ。それに減点法の「いい人」だから、問題を「見たくないし」「見ようとしない」。

よくダメダメ家庭の問題を考えるに際し、「言っていること」「していること」から考えるのではなく、「言おうとしないこと」「しようとしないこと」から見た方が理解しやすいと頻繁に書いていますが、義父による事件なんてその典型でしょう。
この義父にして、この実母あり・・・現実はそんなもの。「鬼畜」と「いい人」も、当事者意識の欠如や、会話の不在は似ているわけ。
R.11/1/3