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カテゴリー | ダメダメ家庭と「いい人」 | |
配信日 | 05年5月18日 (10年6月9日,11年1月27日 記述を追加) | |
タイトル | 外面がいい | |
ダメダメ家庭の親は、子育ては親である自分が押しつけられた被害だと認識している。 そんな家庭では、親は子供にとっての支配者であっても、保護者とはなっていない。だから、そんな家庭の子供は、自分の身は自分自身で守るしかない。 ダメダメ家庭の子供は、子供の頃からそんな切羽詰った気分で育っている。 周囲とモメごとを起こさないように、周囲の人の気分に十分に配慮することになる。 子供の頃から、そうやって育って来ているので、そのような配慮が、何も考えずに習慣的に出来てしまう。 そうなると、非常に外面がいい人間となってしまうんですね。 だって、周囲との間に摩擦が起ってしまったら、大変でしょ?誰も助けてくれるわけもなし。そりゃ、外面もよくなりますよ。 とにもかくにも人に合わせて、自分の意見も強く主張することなく、空気を読んで、相手に配慮する。 勿論、原則的には「いいこと」でもあるわけですが、そんな人が親になってしまったら? この手の「外面のいい人」というのは、ダメダメ家庭を作る親のスタイルとしては非常にポピュラーなパターンです。外面がいいのはともかく、その負担を自分の子供に負わせてしまうことになる。まあ、「ウチ面が悪くなる」とでも言いましょうか? その手の親は周囲の人に献身的に奉仕したりするわけですので、当然のこととして周囲からの受けもいい。こうなってしまうと、その家庭の問題がある場合には、潜在化してしまい、顕在化しない。だから、何も対処することなく、行くところまで行ってしまう。改善することが難しいわけです。 何か子供に問題があったとしても、「あんな立派な親御さんなのに・・・何と言う親不孝な極道息子だ!」でオシマイでしょ?そんな物言いは、実にポピュラーな物言いですよね? しかし、そのような家庭では、親の外面がいい分だけ、家庭内で負担が掛かっているわけです。それでは、子供だって疲れてしまうでしょ? おまけにダメダメ家庭の人間は、被害者意識が強い。自分が子供を持ったことによる「被害」を、自分の子供当人や周囲の人に対し語ったりしている。そのような前提があるので、「あんないい人が」「ダメな子供のせいで」「大変にお気の毒!」と、立派なストーリーになってしまう。 有名な話で鬼子母神の話があります。 旅人を殺して、お腹を空かせていた自分の子供の食料にしてしまった母親の話です。ご存知の方も多いでしょう。 旅人を殺してしまうのは、当然のこととして、ほめられた話ではありませんよね?しかし、「いざとなったら、母親は子供のために命を張ってくれる!」という 信頼感を子供は持つことが出来るでしょ? しかし、外面のいいダメダメ家庭だったら、全く逆になるわけです。 お腹をすかせた旅人が、やっとのこと宿に入る。行儀のいいご婦人が、「それは、それは、さぞお困りでしょう!!」と、自分の子供を殺して料理する。 「子供のために旅人を犠牲するのか?」 「旅人のために子供を犠牲にするのか?」 どっちもイヤですよね? 勿論、この選択は極端な話です。 しかし、「周囲の人との関係のために、自分の家庭を犠牲にするのか?自分の家庭のために、外面を犠牲にするのか?」そのような選択は頻繁に発生するでしょ?外面のいいダメダメ家庭では、このような場合には、いとも簡単に自分の子供の方を犠牲にしてしまう。 日頃から、そんな姿を見ているので、子供の方は親を全く信頼していないわけです。 だからこそ、問題が起こってしまうんですね。 外面を良くするというのは、意外にも簡単なもの。 だって、周囲に人の意向に従えばいいだけ。 つまり、自分自身では判断する必要はない。 いわば「 他者の視点 > 自者の視点 」となり、そんな方法によって、自己逃避ができてしまう。 まさに、教科書どおりの「絵に描いたようなすばらしい家庭」の外面を作ることが目的化されてしまう。 子育てにおいては、本来は、自分の子供の意向を実際に聞いたりしないとダメでしょ? しかし、会話の能力のないダメダメな親には子供と会話することもしない。 権威主義的な形で、「こうしなさい!」と一方的に正論を押し付けるだけ。 逆に言うと、その家庭の中では、権威筋認定の正論が支配しているわけだから、実に立派な家庭と言えてしまう。ただ、家族がその正論に支配され、息が詰まっているというだけ。 外面がいいので、周囲から高い評価が得られ、誉められたりするので、自分が評価されている外の世界にどんどんと出てしまう。 外とのやり取りで良好な関係を築くことができれば結構なこと。 しかし、その心理の根底として、身近なものとのやり取りがうまく行かない現実と向き合うことからの逃避のパターンもあるわけです。 「外の人から評価を得ている。」という単純な肯定的な関係なのではなく、外ではないところ・・・つまり身内とうまく行かないから、外に逃げているという二重否定のケースも多いんですね。 それこそボランティア活動などをして、周囲に自分の善意の姿を振りまいて、ますます外面を良くしても、やり取りをしていた相手が、いったん「身内」になってしまうと、急に態度が変わってしまう。 今まで善意の対象だったものが、身内になってしまったら、「負荷を押し付ける」対象に変化することになる。 身内に対して負荷を押し付けているので、どうしてもトラブルになりやすい。 トラブルが顕在化しそうになると、そんな状況からは、サッサとトンズラ。 逆に言うと、そのようにスグに逃げられる立ち位置を求めてしまう。 誰かをサポートするに当たっても、自分の立ち位置が重要になり、相手のことはどうでもよくなる。 実際に、自分のボランティア体験を語る人は、サポート対象のことはほとんど語りませんよね?語るとしたら、「あの人に恵んでやった自分は、なんていい人なんだろう?!アナタもそう思うでしょ?」そんな感じでしょ? 外面を良くすることが目的化されてしまっている。 現実においても、やたら外面がいい人って皆様の周囲にもいるのでは?いかにも「わたしはいい人です!」なんて雰囲気を漂わせていたりして。 かと言って、その家庭の子供が問題を起こしたりするようなことって、実際にあるでしょ? 外面のいい親は、自分自身では意識せずに外面がよかったりする。だから、外面を良くしようとしているという自覚もないし、外面のよさを維持する「無理」には気がつかない。 前にも書いていますが、外面を良くするのは、人の意向に従っているだけなんだから、自身では考えなくてもいいから、ラクなもの。そのしわ寄せが自分の子供に行ってしまっているというだけ。しかし、そんなムリが続くわけがないことは本来は誰でも分かること。 それこそ、10年において、ボランティアで高校のラグビーの指導をされた方の娘がネグレクトで自身の子供を死に至らしめる事件を起こしましたが、外面の良さの裏面として存在する自己逃避的な心理を理解すると、そのような事件も予想できるわけです。 何回も書きますが、外面がいいことは、実際問題としては、身内に負荷がかかっているということ。 その手の人は、常に減点法であり、自分では判断はしない。 展望も何もなく、目の前に現れたマイナスを認識し、それを除去する・・・そんなことばかりをやっている。 判断から逃避してばかりだから、いざと言うときには頼りにならない。 何かあると、「あーでもない、こーでもない。」と議論のための議論をして、結局はトンズラしてしまう。 自分の目標を達成するために、何かを捨てることもできない。 捨てる気持ちの弱さは、達成する気持ちの弱さそのものでしょ? 外面のいい人の周囲では、ネグレクトが起こりやすいんですね。 あるいは、外面のいい人は、自分が判断の基準とするディシプリンがない人と言えるでしょ? ディシプリンがあれば、そのディシプリンを元に行動するわけですから、すべての人にとって「いい人」とはなりませんよ。外面がいいとは行きませんよ。 そして、ディシプリンがないような人は、信頼とは無縁でしょ? 外面ばかりを気にする人は、信念がないがゆえに、尊厳もない。 だから、それまで保ってきた良好な外面が崩れてしまったら、急に態度を変え、ふてくされたりする。 もし、その人が自身の尊厳を意識しながら生きていたのなら、外面が崩れるとかの問題で一喜一憂などはしませんよ。信念がないがゆえに、周囲の人に過剰に期待し、周囲の人に過剰に合わせているだけなんですね。 実際に、何かあるとふてくされる人は、普段は人に合わせるいい人を装っていたりするものでしょ? そんな人は、結局は、「嫌われてもやり遂げる」信念がないわけです。 よく「アナタは、ただの『いい人』よ!」なる言葉がありますが、「いい人」というキャラクターは、たまにやり取りをするにはいいとして、一生を供にする人とは言えないでしょ? 別の言い方をすると、好意を求めている人とは言えるでしょうが、信頼関係を構築できる人ではないわけです。 だって、外面を良くするように、周囲の人に合わせていたら、そこには一貫性が何もないでしょ? 一貫性のない人間を、特に内部の人間は信頼しませんよ。 だって、「明日になったら別のことを言っているかも?」と警戒しながら、話を聞いていて、そこに信頼関係ができるわけがないじゃないの? つまり、信頼ではなく、好意を向いた人・・・「外面がいい人」については、そんな言い方もできるわけです。 そして、そんな人と一緒になる人も、信頼というものを理解できないダメダメな人なんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 今回のお題とは関係ありませんが、JR西日本は相変わらずですね。 以前に引き起こした信楽での事故の追悼集会にJRの総務部長が遅れて着いたそうです。 「車が渋滞に巻き込まれた。」とのこと。 ウソか本当かはわかりませんが、そもそも、そのようなところに自動車で行ってはダメでしょ?部長クラスがね、それも鉄道会社の・・・まあ、それだけ鉄道が信用できない、と分かっているんでしょうが。その部長さんだって、自分は死にたくないと思っているんでしょう。 JR西日本の安全性を高める・・・とかで色々と対策が取られるようですが、そんなことは実に簡単なこと。 JR東日本とかJR東海の安全対策のスタッフを呼んで、色々と教えてもらえばいいじゃないの? そもそも同じ会社だったわけだし、同じような技術を使っているわけだし、運行システムも基本的には共通しているでしょ?それに営業的に競合しているわけでもない。 大学の交通の専門家よりも、はるかに実際的なアドヴァイスがもらえますよ。 自分と似ているところを参考にするのが、一番でしょ? それこそ、日本の第2次大戦からの復興を、アジア諸国が参考にしようとするのと同じ。ドイツの復興を参考にするよりも、参考にしやすいでしょ? しかし、「日本を見習え!」ということを口が裂けても言わない国がありますよね? 同じように、JR西日本は「JR東日本やJR東海を見習らおう!」とは口が裂けてもいおうとしない。乗客ですら、言っている様子がない。 「東京の人間に頭を下げて教えを請うくらいなら、死んだ方がマシだ!」って啖呵に、むしろ喝采を浴びせているくらいじゃないの? 「死んだ方がマシだ!」と思っている状態だったら、死ぬような事故だって起こりますよ。 「JR東日本を見習え!」って、どうして言えないのかな?そのような言葉がラクに言えるようになったら、安全性も進歩したと言えると思います。それまでは自分の身は自分で守るしかないわけ。乗らないことが一番なんですね。その点、JR西日本の総務部長さんは見習うに値すると思います。 |
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R.11/1/27 |