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カテゴリー | オペラに描かれたダメダメ家庭 | |
配信日 | 06年9月5日 (11年1月22日 記述を追加) | |
タイトル | オペラ「カルメン」(1875年作品) | |
作曲 | ジョルジュ・ビゼー | |
原作 | プロスベル・メリメ | |
このメールマガジンでは「作品の中で描かれたダメダメ家庭」(オペラで描かれたダメダメ家庭)というカテゴリーを設け、いわば総集編的にダメダメの具体例をピックアップしたりしています。 今回の文章は、総集編的に取り上げるのではなく、「入れ込み」「入れ込まれ」の成れの果てでの事件を考えるための事例として、有名なオペラである「カルメン」について考えてみましょう。 取り上げるシーンは、オペラの最後の第4幕の第2場です。 ドン・ホセがカルメンを刺し殺すシーンです。 入れ込みの成れの果てとしては、実に典型的な会話なんですね。 大まかなやり取りをここで再現してみましょう。 「アンタね?」 『オレだよ!』 「みんな言っていたわ!アンタが来ているって・・・アタシを殺しに来ているって・・・でも、アタシは怖くはないわ!やれるもんならやってみなさいよ!」 『オレは脅しに来ているんじゃないんだ!頼んでいるんだ!すがっているんだよ!なあ、カルメン!もう一度やりなおそうよ!』 「鬱陶しいわねぇ!アンタとの間はもう終わったのよ!」 『このままじゃ、オレもオマエもダメになっちまう!なあ!頼むからもう一度やり直そうよ!オレはオマエを救いたいんだ!』 「もう放っておいてよ!ジャマくさいわね!」 『カルメン!まだ時間があるよ!やり直そう!オマエが望むなら何でもやるよ!また一緒にいたいんだ!オレにオマエを救わせてくれ!』 「もう、鬱陶しいからアッチへ行ってよ!」 『オマエ・・・もうオレのことを愛していないのか?・・・もう、愛してくれないのか?』 「そうよ!アンタなんか愛してないわ!」 『・・・オレはまだオマエのことが好きだよ!・・・なあ!もう一度やり直そう!』 「もういい加減にしてよ!アンタから貰ったこの指輪、もうっ、アンタに返す!」 『ええい!このぉ!』 こんな感じです。 いやぁ・・・まさに絵に描いたようなストーカー殺人事件と言えます。ストーカー殺人を最近の問題だと思っている人もいるのかもしれませんが、21世紀での事件も、この19世紀のオペラのシーンとどう違うの? ちなみに、面白いのはドン・ホセのセリフです。 「もう一度やり直そう!」と復縁を迫るのはともかく、「オレはオマエを救いたい!」という言葉で、カルメンを助けたいという思いを口にする。 ここで、オペラ「カルメン」におけるドン・ホセというのは、ある意味において立派な人といえます。 自分で自分を律することができる人。本来なら倫理的にも問題ない。だからこそ倫理に外れたカルメンを救いたいと思うことになる。「彼女はこのままじゃダメだ。」と善意を持ってカルメンを見ている。むしろダメダメとは対極にある人なんですね。別の言い方をすると、「きちんと挨拶ができるマジメな子」。 それに対し、カルメンは「何も考えない人」と言えます。倫理感なんて立派なものは全然ない。しかし、カルメンは倫理感だけでなく、対抗心も被害者意識もない。本当に、何も考えない。ただ自分の欲望に忠実なだけ。身体はともかく、精神的にはガキンチョなんですね。 ドン・ホセは普段から自分を律することに疲れてしまっている。よく言う「いい子でいるのに疲れた。」状態と言えるでしょう。だからこそ自分の欲望に忠実なカルメンに惹かれてしまう。しかし、本来は住む世界が違っている。 ドン・ホセは、カルメンに対して「どうしてこんな女を好きになっちまったんだろう?」と思いながら、カルメンを救いたいと思っている。カルメンを救うことで、自分の居場所を作ろうとしているわけです。まさに絵に描いたような共依存状態。 一緒にいて楽しく感じるというより、「救いたい」「救われたい」という思いに近い。実際にこの愁嘆場でも、「オマエを失うとオレは救いをなくしてしまう!」と言ったりしています。しかし、そんな善意はカルメンには迷惑。と言うことで、最後の刃傷沙汰となる。 「救いたい」という思い自体はいいとしても、ドン・ホセは「オレだけがカルメンを救ってあげられる。」と入れ込んでいる。愛情においても「オレだけが彼女を愛し、理解できることができるんだ!」となっている。入れ込みって、そんな感じでしょ? 入れ込みの成れの果てで、「オレだけが・・・」という心理に到達してしまう。だから他の人間のモノになるのが許せない。 「オレだけがアイツを救ってあげられる!」とか「ワタシだけがあの人を分かってあげられる!」なんて「ワタシだけが・・・」などと言った言葉が登場してくるようになったら、かなりヤバイ状態と言えます。 よく若い男女が、そんな感じで刃傷沙汰になりますよね? まあ、かなり前に岐阜県でも中学生の刃傷沙汰がありました。 本来なら、あの男の子だって、「オンナなんて星の数ほどいるぜ!」で、勝手に楽しめばいいじゃないの?「去るものは追わず」ですよ。どうしてそんなに執着するの? あの岐阜県のケースでは、あの男の子としては、女の子が倫理的に堕落していくのを「このままじゃダメだ!」「オレが救いたい!」なんて思ったわけではないでしょう。 今回取り上げたのは、ちょっと前に(06年)山口県で事件が起きたからです。 今回の山口県のケースは、まあ、まじめな男子学生が・・・という、いつものキャラ設定のようです。女の子の方のキャラは、「カルメン」とは違っているようですが。 いずれにせよ、本来は自分のやりたいことをやればいいわけでしょ?今回の山口県の事件の犯人の男の子のやりたいことって何? 女の子を殺すことなの? 自分から去っていく女の子なんて、放っておいて、さっさとナンパに出かければいいじゃないの?そのように「さばけて」いないからこそ、嫌がられるんでしょ? しかし、マジメな子はそんなことはしないもの。 それに、ダメダメ家庭の人間は自分自身から逃げている。だから自分が本当にしたいことが自分でもわかっていない。周囲の人の価値観に盲目的に自分を合わせているだけ。 だから、周囲の人からはマジメと言われる。しかし、それって自分自身で考えていないだけなんですね。そんな感じで、マジメに見える人間だからこそ、自分自身の価値が自分でも見いだせずに、自分の価値を人に求めてしまい、人に「入れ込む」ことになる。 今回の事件の心理が、どのようなものだったのかについては、今の段階では判断できませんが、犯人の男の子に「オレだけがアイツを分かってあげられる。」という心理があったことは確かでしょう。オペラ「カルメン」での心理と同じかどうかは分かりませんが、最後のやり取りの言葉自体は、まさにカルメンと似ていたのでは? 入れ込んだ挙句の刃傷沙汰って、いつの時代でもありますよね? このような入れ込みの心理って、いつの時代も、どんな場所でもあったりする。 私個人は、人を殺したことはありませんし、殺されたことも一回もありません。それに、人に「入れ込んだり」はしませんしね。しかし、このメールマガジンの購読者の方の中に、似たような体験をなさった方もいらっしゃるかもしれません。この手のシーンなり、やり取りって、実に頻繁に見られるもの。 いつまでも残る芸術って、そんな人間の本質をちゃんととらえているから後世に残るんですね。 ちなみに、ここでちょっとムダ話的な教養講座をしてみましょう。 オペラが芸術として確立してきたのは、16世紀末から活躍したイタリアの作曲家クラウディオ・モンテヴェルディによってです。歌と芝居の融合という理念だけが先行していたオペラ創作の現場の中で、モンテヴェルディは、オペラに人間の真の精神や感情を表現しました。 そのモンテヴェルディの最後のオペラが1642年の「ポッペアの戴冠」という作品です。 そのオペラのあらすじは、「ローマの皇帝ネロは、才気があって美貌の愛人であるポッペアの元に入り浸っている。それに嫉妬した正后が、幼馴染をけしかけて、ネロの暗殺を謀る。それがバレて、后は追放となる。愛人ポッペアは、はれて皇帝と結婚し、正式な后となってメデタシメデタシ・・・」というお話。 まあ、今風に言うと、「したたかな悪女のポッペアが、のし上がっていく話」と言えます。 そのモンテヴェルディ以降も、多くのオペラが作られましたが、今ではほとんど上演されません。非の打ち所のない立派な人間が舞台の上から説教をぶっこいても、観客としては「なんだかなぁ・・」と思うだけでしょ?だからそんな説教オペラは「最初のうちは、絶賛をはくして、それでオシマイ。」となってしまう。観客としては「一クセも二クセもある登場人物が、舞台上で暴れまわる。」作品の方がおもしろいに決まっていますよ。 モンテヴェルディ以降、150年くらいは、そんな「ご立派」な説教オペラが主流でした。そこに風穴を開けたのが、有名なモーツァルトです。モーツァルトは多くのオペラを作りましたが、今現在上演されるのは、1782年の「後宮からの逃走」という作品以降に作曲したオペラたちです。モーツァルトはこの「後宮からの逃走」によって、モンテヴェルディ以降、芸術的には沈滞していたオペラというジャンルから、真のドラマの力を復活させました。 その「後宮からの逃走」というオペラの舞台は、トルコの後宮・・・つまり皇帝のハーレムです。 後宮を日本風に言うと、「大奥」となりますよね? オペラの歴史は、「ポッペアの戴冠」という、「したたかな悪女もの」の後、150年間沈滞し、「大奥もの」で復活したわけです。 このあたりは、連続テレビドラマと変わらないでしょ? 視聴率を取れるのは、昔からそんなものなんですね。 「カルメン」という、入れ込んだ挙句の刃傷沙汰のドラマも、まあ、連続テレビドラマの王道でしょ? ホント、人間のやることや考えることって、いつの時代も、どんな場所でもそんなに変わりませんよ。 ちなみに、この「カルメン」だと、オペラをそのまま映画にしたヴィデオがレンタル・ヴィデオ・ショップにおいてあります。監督はフランシスコ・ロージーという人。 俳優は全員、オペラ歌手の人で、それこそ日本のコマーシャルでも歌っていた有名なプラシド・ドミンゴもドン・ホセで登場しています。 カルメンを演じているフリオ・ミゲス・ジョンソンという歌手が、体を張った演技をしていて楽しい。 だいたいのレンタル・ヴィデオ・ショップにはおいてありますから、お時間がありましたら、ご覧になってくださいな。 ストーカー殺人のような、この手の刃傷沙汰があった時に、思い出すこともあると思います。それに自分がそんな事件に巻き込まれないためにも、参考になるでしょ? この「カルメン」でも典型的に出てきますが、「オレだけが・・・」「ワタシだけが・・・」なんて心理が登場してくると、かなりヤバイ状態といえます。 あと、「アイツが間違っているのを、このワタシが正してやりたい・・・」なんて心理が出てきても、要警戒です。 そんなことを言い出す人は、自分自身の問題から目を逸らしているといえます。本来ならそんな人のことなど放っておいて、自分がやりたいことや、やらなければならないことをやればいいじゃないの?その「間違っている」人が相談に来たら、相談に乗ってあげればいいだけでしょ? 強引に「オマエのここが間違っている!」なんて言っても、相手にされるわけがありませんよ。 しかし、自分自身のことは棚に上げて、「オマエのここが間違っている!」なんて、余計な説教をぶっこく人間は、意外とポピュラーな存在です。 それこそほんの数日前に、イスラムの指導者が、「アメリカ人はイスラムに改宗すべき!」などとぶっこいていました。 余計なお世話ですよ。 そんなことより、イスラム世界を、もう少しマシな社会にした方がいいんじゃないの? しかし、自分自身から逃避しているダメダメ人間は、自分の問題を見つめるのが怖い。だから他の人間の行動に注目して、「オマエのここが間違っている!」とやりだし、「こんなに親切に言ってやっているのに、分かってくれないなんて・・・オレって、なんてかわいそうなんだ?!」と被害者意識に浸りだす。被害者意識が燃え上がっているので、「加害者認定」した人に対して復讐することになる。 同じことは、韓国人も典型でしょ? 「日本のここが間違っている!」って、イスラムの連中と全く同じような文句を言ったりしていますが、そんなことより、韓国という自分たちの国を、良くしていくためにはどうしていけばいいのか?そのことを、自分なりに考えていった方がはるかにマシでしょ? しかし、ダメダメ人間は、そのような「自分たちの問題」を考えるのが怖いんですね。 「あの人を救いたい。」と言う人は、往々にして、自分自身でやりたいことがない。 自分の価値を誰かに依存している状態となっている。 逆にいうと、こんな自分でも依存してくれる誰かを探し回っている。 それこそ、インターネッットの掲示板や相談サイトに入り浸たって、自分がアドヴァイスできる人を探すことになる。 しかし、人に対してアドヴァイスしたがる人は、自分の考えを客観的に説明できない。本来なら、自分なりの考えを、客観的にまとめておけばいいだけだし、それに対して質問があれば、その質問に対して答えるようにすればいいだけじゃないの? 自己逃避であると、自分なりの考えを客観的にまとめておくことができないわけです。 だから、誰かにアドヴァイスする形で、「オマエのために言ってやっているんだ!」と、恩を着せる形で上からの物言いをする。 逆に言うと、それだけ自分以外の人間が必要になってしまう。 そうやって人にストーキングして、「どうして分かってくれないんだ?」と、被害者意識を燃え上がらせ、やがては「ドッカーン!」となってしまう。やたら、人のことに言及するような人間からは、早めに離れないと、まさに「カルメン」のラストのような事件になってしまうわけです。 (終了) *************************************************** 発信後記 最近、またまた文章が長くなってきてしまって、申し訳ありません。 そういえば、もうすぐ、天皇家に男の子が誕生しそうですが・・・ 私個人は、別に女帝でもいいと思いますが、どうしてダメなんだろう? しかし、今回誕生する男の子と結婚する女の子はいるのかな? 両方とも、マトモな感性を持っている人は、避けるでしょう。 そう考えると、イトコ同士の結婚というのが、一番スジがいい。両方の親も納得できる。 男の子の方も女の子の方も、お互いの苦労をわかっている間柄ですしね。 25年くらい経ったら、そんな話が出てくるでしょうね。 |
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R.11/1/22 |