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カテゴリー ダメダメ家庭の対抗心
配信日 08年4月14日 (10年11月5日 記述を追加)
タイトル 故意のあら探し
追記 購読者さんよりの補足文章があります。(10年10月29日 追加)
まあ、最近はいわゆるブログの炎上なんてことが頻発しています。
そのブログの文章を気に入らないのは勝手として、ヘタクソな文章で、抗議の文章を書き込んでもしょうがないでしょ?
自分なりの考えがあり、それがブログの文章と相容れないとしても、まずは自分の考えを分かりやすくまとめることが先でしょ?自分なりにまとまった文章が出来上がったら、それを相手に読んでもらえばいい話。それを踏まえてディスカッションすればいいだけ。それだったらお互いが納得できますよ。

しかし、ダメダメ家庭の人間にしてみれば、自分の考えそのものがない。
「あの考えは気に入らない!」「あの文章は気に入らない!」そんな感じで、何かを否定しているだけ
だからこそ「で、結局は、アンタはどうしたいの?」なんて言われてしまう。
しかし、その質問そのものも気に入らない。そうして「どうしてそんなことを言うのよ!キーっ!」と逆上するだけ。

いずれにせよ、自分自身の考えなど存在しないので、自分自身を「何かの被害者」としてしか認識できない。だからこそ「自分に被害を与えている存在」を探し回ることになる。
そうして該当者を見つけて、
「ああ!ワタシはこの○○による被害者なんだ!」と確認して大喜び!
そうして、その「被害vs加害」の構図を、自分自身に確認するするために、集団でブログを炎上させたり、あるいは個別に逆上メールなり、また先日配信したスサムメールを送りつけることになる。

その手の人は、たまたま出会った「とある文章に腹が立った」というより、わざわざ、「腹が立つ」文章なり表現を探し出す・・・そんな面もあるんですね。実際に「みんな」で探し回っているでしょ?
そうして、他者のあら探しに励むわけ。
「ああ!こんなに問題がある文章だ!こんなに問題があるんだから、オレが被害者になってしまうんだ!ああ!オレって、なんてかわいそうなんだ?!」

いわば故意に「あら探し」行うわけ。
この手の行動の似た例として、以前には「下探し」というか「失敗例収集家」というタイトルの文章を配信しております。ダメダメ人間は、自分より下の存在をわざわざ探して、「ああ!なんてイタイやつ!」「下には下がある!」と大喜びするもの。
自分より下を見つけて、安心してしまって、当人は、結局は何もしないわけ。
本来なら下を探す手間を、自分を向上させる努力にすれば、そっちの方が建設的でしょ?しかし、それから逃避するのが、まさにダメダメ人間なんですね。

自分が向上するための努力よりも、逃避するために行動するのがダメダメ人間。
そのためには、他者に欠点がないと困ってしまうわけですし、だからこそ他者の欠点を積極的に探す必要があるわけ。

そんな人は、他者の文章を読む際にも、そのスタイル。
「この人は、何を言おうとしているのか?」「自分にとって参考になることが書いていないのかな?」そんな視点では読もうとしない。
「えーと・・・なにかヘンなことが書いていないかな?」「気に入らないことはないかな?」そんな視点なんですね。だから全体は無視して、部分部分だけに注目するもの。

そうして、気に入らない表現を見つけて、それに対して独りよがりの反論をぶつけて大喜びする始末。
ブログを炎上させている文章って、そんな感じじゃないの?
まあ、前にも書いておりますが、この私に対し、たまに来ることがある「スサムメール」は、そんな感じなんですよ。

そもそも、そんな人は相手の話なり意図を汲み取ろうとする気が最初からないわけ。
自分が被害者と認定できればそれでいい。
だから釈明すると、図に乗って、より大きく騒いで、次には、丁寧に説明すると、いつの間にかトンズラしてしまう。
そうして、トンズラして、しばらく経ったら、また別の「あら探し」の対象を探しに出掛けるわけ。

そんな人は、自分でゼロから文章をまとめることはしないもの。まずもって、自分で何かをやるという発想そのものがない。だから文章をまとめるどころではない。それに、あら探しの精神が身についているので、自分で文章をまとめて、人から、あら探しをされるのが怖い。
結局は、他者にあら探しをすることしか能がない人間が集まって、一緒になって、他人のブログを炎上させたり、グチ大会で盛り上がったりするわけ。
そんなダメダメ人間が集まって、「ああ!あの○○の文章にケチをつけているオレたちって、なんてスゴイんだ?!」と法悦のひと時。

いやぁ・・・立派な人たちだなぁ・・・

ギャグを書いていると思われる方もいらっしゃるでしょうが、実は身近にあったりするものなんですよ。それこそブログ以外でも、インターネットの世界では頻繁に見られる光景でしょ?

この「故意のあら探し」は、ブログなどの他者の文章を対象とする場合だけではありません。
人間そのものを対象とする場合もあるもの。
それこそ、ちょっと知っている人の子供が、いわゆる難関の学校に合格した。
そうなると、まさに「故意に」「あら探し」を始めるわけ。
「どうやら、あそこは、今回は、うまく行ったみたいだけど・・・なにかダメな面はないかなぁ・・・」と探し出す。

「あの子は・・・普段の素行に問題があって・・・」
「アタマのいい子は、性格に問題があるもの・・・」
「なにがズルイ方法で、合格したのでは・・・」
「あの学校も・・・レヴェルが落ちたものね!」

そんな視点で、子供なり、その親を「観察」、というよりも「詮索」するようになる。
そんな視点で見ていれば、まあ、聖人君子ではないんですからね。何か「あら」も見つかりますよ。
そうして、その欠点を見つけて、大喜びするわけ。
「ああ!アイツも問題があるんだ!」
「ワタシは、アイツに負けたわけではないんだ!!」

本来なら、その人に問題があろうが、なかろうがどうでもいいでしょ?だって、その人に「欠点」があっても、だからと言って、当人のレヴェルが上がるわけでもありませんからね。

しかし、逆に言うと、自分自身からの逃避を求めているダメダメ人間にしてみれば、逃避につながる情報なり論理がほしいわけ。

他者のあらを探す行為そのものが、自己逃避であり、結果として得られたネタで、自己からの逃避が達成できる。しかし、当然のこととして、自分自身は向上しない。だからコンプレックスが肥大化して、ますます他者のあら探しに必死になる必要がある。
あら探しをする人の周囲は、同類ばかり。逆に言うと、あら探し傾向の個人がいるということは、その集団全体がそんなキャラクターということ。
前にも書いていますが、インターネットの掲示板とか、人の詮索ばかりしているダメダメな井戸端連中とか、あるいは市民運動なんて、まさにそんな状況でしょ?
その手の人たちは、高邁な理想を語ったりするものですが、そのような理想は、自分を振り返るためのものではなく、他者を評価するのに使うわけ。あら探し傾向と、立派な大義を語る姿勢は、自己逃避という共通の土壌を持っている・・・そのように見ると、その手のあら探し傾向の人のキャラクターも見えてくるでしょ?
そうして、必死になって、人の詮索に明け暮れ、人の「あら」を見つけて大喜びすることになる。

それこそ東北の「なまはげ」のように、「悪い子はいねぇかぁ・・・悪いことはやってねぇかぁ・・・」と目を血走らせて探し回る。
そんな姿を見せられれば、
「悪い子はいねぇかぁ」・・・って・・・アンタ・・・それって・・・アンタ自身じゃないの?
と思うのは当然でしょ?

しかし、自己逃避のダメダメ人間は、まるで恋の熱情の中にいる人間のように、ひたすら相手を見つめる。
「あの人のちょっとしたしぐさが、一言一言が、ああ!なんと心をざわめかせることか?!」
「いつだって、いつだって、あの人のことが気になってしまう!!」
「もう!あの人のことしか考えられない!」

故意のあら探しによって、その人のダメダメさが、ますます「濃く」なっていく。
そんな人って、結構いるでしょ?

(終了)
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発信後記

まあ、よく言う言葉で「かわいさ余って、憎さ百倍」なんて言いますよね?
誰かを可愛く思うのなら、関心を持つのもいいでしょう。
しかし、憎く思うのなら、無視すればいい話。

しかし、否定形が身についたダメダメ人間は、誰かを可愛く思うことはもとから滅多にない。
それに対し、憎く思うことは実に頻繁。
誰かに憎しみの感情を抱くことは、もともと対抗心が強いダメダメ人間にしてみれば、まさに普段どおりの感情なんですね。
それに誰かに対抗心を抱くことによって、自分を被害者として認定して、自己逃避もできるわけ。

こんなことは、まさに韓国人がその典型でしょ?
日本のダメダメ人間も、そんなことをやっているわけ。我を忘れるほどの憎しみによって、逆に言うと、自分自身を忘れることができる。
自分自身から逃げてばかりいるダメダメ人間は、そんな状況を、故意に求めるわけです。
購読者さんよりの補足文章があります。(10年10月29日 追加)
 私の母も、よく人のあら探しをする。彼女は友達も少ないのだが、ただでさえ少ない友人のあらを見つけては、私たち息子の前でグチるのであった。
あら探しをする上に、発想が減点法なので、人付き合いも面倒くさがる傾向がある。

付き合いで出かけたとしても、楽しそうに帰宅することはほとんどなく、帰宅後には、いつもきまってグチや人のあらばかりを子供に話すのであった。
子供の頃からそのような話を母から聞かされるので、私としては人とのやり取りに対して警戒感を持ってしまった。そのせいか、人と関わること自体が嫌になってくるのであった。その母も、まだ若い頃は、今ほどグチっぽくなかった。しかし、年齢が増すごとにグチや不平も増える傾向にある。それを聞かされる私は、年齢を重ねるごとにうんざりして、いやな顔を隠せなくなるのであった。

近年は、グチを聞かされる側のうんざりした気持ちを察したのか、母は友人知人の誘いを断るようになってきた。だから出かけるとしても買い物などの必要最低限の用事に限られるようになってきている。人との交流もほとんどなく、そして久しぶりの外出となると緊張するようで、それが悪循環となり、ますます周囲から孤立した生活になりつつある。

そして、そんな母の現在の状況は、母を育てたその母親の最後とよく似ているのである。
私の母は、彼女の母のことでよくグチったりするが、結局は、自身も同じ状況になっている。
私としては、そのことに、呆れ、悲しみ、同情し、そして恐怖したりするのである。
R.10/11/5