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カテゴリー ダメダメ家庭が持っている発想
配信日 08年8月15日 (10年10月10日 記述を追加)
タイトル 隷属への意思 (パシリになりたい!)
19世紀ドイツの哲学者のニーツェは「権力への意思」なんてことを言いましたよね?まあ、その言葉を、ナチスが曲解して、自分たちの考え方に取り込みましたが・・・
ニーツェは、ナチスによる政策の下準備をしたわけではありませんよ。そんなことは、ニーツェの本を読んだことがある人だったら、スグにわかること。

そこそこ教養がある購読者さんは、このメールマガジンで言っていることは、意外にもニーツェに近い・・・と言うことに気がついている人もいるでしょう。
あるいは、くだけた会話調を使って「自分がわかっていないこと、それ自体を自覚しましょう!」と言ったスタイルは、それこそソクラテスの考えやスタイルだし・・・
このメールマガジンの文章は、実は、あきれるほど、伝統的なんですよ。
もちろん、「伝統的な知の系譜」ではなく、「知の伝統の系譜」という意味で、伝統的なんですが・・・

さて、「権力への意思」なんて言葉だと、「自分が権力を持って、誰かを支配しよう!」なんて捉えられてしまいやすい。まさにナチスの連中が誤解したように。
しかし、「権力」という言葉でなく「尊厳」という言葉で捉えた方が、ニーツェの発想が理解しやすいんですね。あるいは、「高貴さ」と言ってもいいでしょう。

「自分自身の尊厳は、自分自身で作っていくしかない。」
「そのために、自分で努力しましょうよ!」
「弱っちい自分を嘆いているだけでは、よくはならないよ!」

ニーツェが言いたいことは、要はそう言うこと。
これって、実に当たり前のことでしょ?

しかし、ダメダメ家庭の人間は、被害者意識が強い。どんなトラブルも自分が被った被害と捉えるばかり。
おまけにダメダメ家庭の人間は、当事者意識がない。自分自身でやり遂げたいものがないわけ。やり遂げたいものがないので、当然のこととして、何も達成できない。何も達成していない人が、尊厳なんてありようがないでしょ?

と言うことで、そんなダメダメ人間は、個人としての自己から逃避して、カテゴリー分類にこだわり、そのカテゴリーの価値に逃げ込むようになるわけ。
それこそ、民族的な価値とかに逃げ込むパターンはポピュラーでしょ?
ワタシはドイツ人だ! → ドイツ人は偉大だ! → だからワタシは偉大だ!
と、理屈の上では、なる。
そんな手法で安直に高貴さを獲得するスタイルを提供したのが、ナチス。

ニーツェは、「アンタら・・・それじゃあ、アカンよ!」って言っているんですよ。
「一人の人間としての自分の価値を、自分自身で作っていこうじゃないか!」
「自分自身に厳しい運命があったとしても、その自分の厳しい運命は自分が望んだことである!」
「厳しい運命は自分を鍛えてくれる!」
「それくらいの当事者意識覚悟を持って、自分の運命を愛し、戦っていこう!」
ニーツェが言っているのは、そんなことなんですね。

しかし、ナチスの連中が、そんな「当たり前」のことがわからないように、ナチス以外の人でも、やっぱり誤解する人も、多い。
まあ、うまく行っている人は、無理に色々と考えなくてもいいわけですが、うまく行っていない人は、改善のために考える必要があるでしょ?しかし、現実では、うまく行っていない人ほど、考えていないし、考えようとしない。
そして、あえて考えることと言えば、「どうすれば考えないで済むのか?」そんなことくらい。
ダメダメ人間が、「考えないために、考える」ことについては、以前に配信しております。

考えることから逃避するダメダメ人間が、往々にして見せるのが、「隷属への意思」と言えるもの。
自分から進んで、何かに隷属しようとするわけ。
そして、隷属することによって、命令を聞くだけで済むようになり、自分は何も考える必要がなくなる。

これも以前に書きましたが、誰かを自分の規範と認定して、その規範認定した人物の言動に盲目的に合わせようとしたり、あるいは、ボスを設定して、自分から率先してボスのパシリになろうとするわけ。
いわば、上意下達の世界に逃げ込むわけ。

隷属状態を求めている人は、誰かとやり取りする際に、「この人はワタシを隷属させてくれる人か?」という点をチェックすることが多い。
問答無用で命令してくれる人には、喜んで従うことになる。
問答無用であるがゆえに、当人にしてみれば、「自分で考えること」から解放されるわけですからね。

逆に言うと、「そんなことはアナタ自身で考えなさいよ!」という人には反発したり、あるいは、問答無用とは逆の、優柔不断な態度を見せると、侮蔑の念を持つことになる。
別のところで集中的に取り上げておりますが、ドイツ出身の社会心理学者のエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」の中にこのような記述があります。
『権威主義的人間は相手が無力になればなるほど、いきりたってくる。』
『権威主義的性格のもつ勇気とは、本質的に、宿命やその人間的代表者や指導者などが決定したことがらを耐え忍ぶ勇気である・・・彼は権威が強く、命令的であるかぎりそれを信じている。』

つまり、思考から解放してくれる存在、自分を隷属させてくれる存在を待ち望み、積極的にそれに従おうとするわけ。

ニーツェと同じように何かとナチスとの関係が問題視される19世紀のオペラ作家のワーグナーですが、彼の最後の作品は1882年初演の「パルシファル」という作品です。
その「パルシファル」には、オペラの歴史の上でも、もっとも謎めいた女性の一人と言えるクンドリという女性が登場いたします。

クンドリは、まさに隷属を求め続ける。
そして、自分を隷属させてくれる問答無用さを持っているかどうかを、自分が誘惑することでチェックする。自分が誘惑して、陥落してしまったら、そんな軟弱なオトコはそれで用済みとなる。彼女は、相手が自分の誘惑に陥落してしまったことを嘆く。
散々と誘惑しても、陥落しなかったら、まさに「自分の支配者」と認定して、入れ込んでしまう。
彼女が真から求めている人は、自分の求めに応じない人。
彼女にしてみれば、「問答無用さ」こそが、重要になっているわけ。
ゆるぎなく問答無用なところこそが、自分を思考から解放し、それゆえに、求めることからの解放や苦悩からの解放を意味するわけですからね。

オペラ・・・正式には舞台神聖祭典劇・・・「パルシファル」におけるクンドリほどではなくても、「そっけなくされるがゆえに」燃え上がるパターンも実際にあるでしょ?
クンドリとしては、「どれくらいまで、自分に対してそっけなくできるのか?」について手を変え品を変えてチェックする。そして、完璧にそっけないがゆえに、まさに完璧に隷従させてくれる存在として認識し、入れ込むことになる。

それこそ、マルティン・ルターの言葉である、『神はわれわれの正義と知恵によってではなく、我々から出てくるのでもなく、我々自身に潜むものでもなく、どこか外から我々にやってくる正義によって、神は我々を救おうとしたまう・・・言い換えれば、正義はもっぱら外部からやってくるものであり、我々とはまったく縁がないということが、教えられなければならない。』を思い起こせば、クンドリにしてみれば、自分を討伐しようとする騎士パルシファルは、自分に対して完璧にそっけないがゆえに、そして自分に何も配慮しなく命令的であるがゆえに、深層心理的には待ち望んだ存在であり、自分にとっての完璧な支配者となるわけ。

まあ、こんな心理は一般のオペラ愛好家は当然として、オペラ指揮者どまりの人にもわからないでしょうねぇ・・・

このようなクンドリの心理と、ナチを受け入れたドイツ人の心理は共通しているわけ。対象とした心理のつながりにおいて、ワーグナーとナチスは繋がっていると言えるでしょう。しかし、逆に言うと、そのような心理が作品として表現されているんだから、その時点で、防衛策を取ることもできたわけでしょ?

あるいは、人間などの具体的な存在のパシリになるだけでなく、特定の主義主張のパシリになって、盲目的にその考えを主張するパターンもポピュラーです。思考における権威主義に安住するわけです。

その種の人ほど、権威主義的であり、「権威があるんだから、従う。」というスタイルに安住することになる。つまり「何を言っているのか?」「どんなことを言っているのか?」について考えることから逃避して「誰が言っているのか?」だけに着目することになる。
それによって、自分で「考え」「対処する」というよりも、「従い」そして「隷従」することに徹し、思考から解放されるわけ。

ダメダメ人間は、当事者意識がなく会話の能力もないので、「人は人、自分は自分」と言ったネコ型ではなく、厳しい序列が支配するイヌ型の組織に安住したがるものです。
そして、自分が属している組織なりカテゴリーについてだけを語るようになる。

カテゴリーに基づいて「オレたちは、立派だ!」と主張するわけ。しかし、「オレたち」はいいとして、「じゃあ、アンタ個人の尊厳はどうなっているの?」と聞かれてもやっぱり答えられない。
それこそ「我々○○民族は偉大だ!」と連呼するばかり。
このようなことは、ナチスだけでなく、韓国人もまったく同じでしょ?

そんなことをしていても個人としての尊厳に到達しないのは当然のことですが、逆に言うと、自分で考えることから逃避できるので、精神的にはラク。だから、結局は、そんな方向に堕してしまう。

そうやって、パシリの状態に安住してしまう。
しかし、パシリに尊厳なんてないでしょ?その人の高貴さはどうなるの?
そんなパシリに安住する精神では、当人の高貴さがなくなるだけでなく、高貴な存在を理解することもできなくなるでしょ?

そのように「高貴な存在を理解できなくなってしまった状態」を、ニーツェは「神は死んだ!」と言ったわけ。人々がパシリだらけになって、神のような崇高な存在を認識できなくなった。人間の精神的な堕落によって、神が存在する土壌が破壊された・・・そんなことなんですね。「神は死んだ!」という言葉は、神様が道を歩いていたら、石に躓いて転んでしまって、死んだ・・・とかの話ではなくて、高貴な存在を認識し、受け入れる、人間側の精神が衰退したことを言っているわけ。

まあ、パシリに安住しているのなら、逆に言えば、人畜無害。
しかし、人間は、自分が一番下だと、やっぱりイヤ。だったら、自分で努力して序列を上げればいいわけですし、そもそも、そんな序列が支配している世界からは離れ、個人としての自立を志向した方がいいのは誰だってわかること。

しかし、当人がカテゴリーの一員という立場に心理的に依存している状態であることは変わらないんだから、そのカテゴリーから抜け出せない。
ということで、そんな人がやるのが、自分に隷属するものを見つけようとするわけ。自分より下の序列の存在を探すんですね。

「オマエたちは、オレたちより下なんだぞ!」
と、序列関係を強引に主張するわけ。
ナチスが「下」認定したのは何なのか?
あるいは、韓国人が「下」認定している誰なのか?

それについては、誰だってわかることでしょ?
隷属したがる人は、自分に隷属するものを求めることにもなる。
結局は、「隷属」という「関係性」に依存しているわけ。
あるいは、家庭内でそれをやることがありますよね?
周囲の人たちに隷属してパシリ状態の人が、家庭内では居丈高になって、子供に威張り散らす。

そんな人たちが言う言葉は、ナチスも韓国人も児童虐待の親も、いつも一緒。
「オマエのために、オレはこんなにも被害を受けたんだ!」

かと言って、そんな人たちは、自分で努力をするわけでもない。
そもそも隷属状態を、別の言い方をすると「隷属関係」を自分で求めている人たちなんですからね。
「隷属することによる安心感では尊厳につながらない。」
「それを捨てさって、自分自身の尊厳を勝ち取るために戦おう!」
ニーツェが言いたかったことは、そんなことですし、私の文章も、そんなことを書いているんですよ。
それくらいなら、誰だってできることでしょ?

(終了)
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発信後記

今回の文章はチョット難しいかもしれません。
メールマガジンの世界にあるまじき、中身ですからね。
まあ、「それなりに」読んでいただいて、アタマの片隅にでも置いていただければ結構です。

そのうちに、とある著作を集中的に取り上げる予定にしておりますが、今回配信の文章は、その前哨戦のような位置づけです。

中身的には難しいところもありますが、基本的には、「自分自身について、自分自身の言葉で語れるようにしましょうよ!」と申し上げているだけです。
その積み重ねが、その人の尊厳につながっていくのでは?

偉大な思想家って、実は当たり前のことしか言っていないもの。
逆に言うと、その「当たり前」のことに気がつくことができることが、その偉大さの所以というものなんですよ。
R.10/10/10