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カテゴリー ダメダメ土曜講座(トピック編)
配信日 09年1月17日 (10年12月20日,11年2月18日 記述を追加)
タイトル 名前とのぎこちなさ
このメールマガジンでは、人の名前の問題について、たびたび触れたりしております。
人には、それぞれ親が付けた名前がある。
これは、当然のこと。

名前についてのフィーリングで、その人の出身家庭の問題が見えてきたりするもの。そもそも名前というものは、親が子供に与える最初のものと言えますからね。
まずは、初めが肝心ですし、そこでコケると、ボタンの掛違いが積み重なるだけですよ。

今回のダメダメ土曜講座では、そんな名前との関わりについて、考えて見ましょう。
ダメダメ家庭出身者は、名前において「ぎこちない」対応をすることが多い。

たとえば、周囲の人の名前をなかなか覚えられなかったりするもの。
そもそもダメダメ家庭を作る親は、子供の名前について、その子供の将来まで踏まえてしっかり考えて付けたりはしない。託す思いもなく、まさに、その時の気分で「て・き・と・う」で付けてしまう。

そんな名前を付けられた子供は、自分の名前が内心ではコンプレックスとなっている。
周囲の子供は、しっかりした意図の元に名前を付けてもらっているのに、コチラとしたら、「て・き・と・う」で付けた・・・んだから、コンプレックスにもなりますよ。
だから名前に関する話題は避けるようになるわけですし、あるいは、そのようなコンプレックスをもつようなマターは、無意識的に思い出さないようになってしまう。
いわば「記憶耗弱」状態。
まさに名前に関する記憶は、いわばアンタッチャブル領域に近いところに置かれるので、自分の名前に関する記憶ばかりではなく、他者の名前の記憶も、思い出しにくくなってしまう。

これは、トルーマン・カポーティの小説「ティファニーで朝食を」で描かれたホリー・ゴライトリーがまさにその典型と言えます。
彼女は、ご近所さんの名前は全然覚えられないし、自分が飼っているペットには名前を付けようとしない。その「ぎこちなさ」から、彼女の出身家庭の状況が見えてくるわけです。

そもそもダメダメ家庭では、会話が不全となっている。だから名前を使ったやり取りそのものが消失してしまっている状態。
1年間のうちに、親は自分の子供の名前を1回も呼んでいない・・・そんな事態が現実に発生している。
それこそ、親が子供を指し示す際には「息子」とか「次女」とか・・・あるいは「あれ」とか「これ」等の「代名詞」で呼ばれることになる。もちろん、「おい!」とか「こら!」のパターンもおなじみです。

子供の名前がそうなっているだけでなく、それこそ祖父母の名前も、消失している。
一般のマトモ家庭においても、祖父母というものは「おじいちゃん」「おばあさん」と呼ばれ、名前で呼ばれることはないでしょう。しかし、名前を知っていて、「おじいちゃん」と呼ばれるのと、そもそも名前を知らないのとは全然違うでしょ?
ダメダメ家庭では、子供が祖父母の名前を知らないような事態が発生する。
つまり、子供が「おじいちゃんの下の名前はどんな名前なの?」と、自分の親に対して質問する雰囲気ではないんですね。それだけ会話がないわけですし、名前についてアンタッチャブルになっている。
だからこそ、普段の何気ないやり取りにおいても、名前を使うことには、慣れていないし、また心理的な抵抗を持ってしまう。だから、ますます名前を覚えられない。
あるいは、そんな雰囲気だからこそ、今度は自分が親になった時には、まさに「いい加減」で「て・き・と・う」に自分の子供の名前を付けるようになってしまう。
名前について考えること自体がイヤなんですね。

まさに、名前というものがアンタッチャブルになっている。
だから、知人同士のちょっとしたおしゃべりおいても、そのような内容にならないように無理に仕切ろうとすることになる
あるいは、「ワタシの名前の由来は・・・」とか、「ワタシは、親が付けてくれたこの名前が大好き!」と、誰からも聞かれてもいないのに、先制的に語りだすことになる。
自分でやり取りをリードする形でないと、名前についてのおしゃべりはマズイと無意識的に思っている。仕切っておかないと、自分にとってのアンタッチャブルな方面に話題が行ってしまう可能性があるでしょ?自分が仕切ることによって、それを避けようとするわけです。

それこそ、「外国人にも覚えやすい名前」という由来でもって自分の名前を説明するのはいいとして、やり取りの相手から『じゃあ、今までに、どんな外国人に覚えてもらったの?』とか、『その外国人さんは、アナタの名前についてどう言ったの?』と質問が返ってくると、何も答えられなくなってしまう。だから、そんな質問が発生しないように、必死にその場を仕切ろうとすることになる。
逆に言うと、そのような強引な仕切りから、名前の問題がアンタッチャブルになっていることが見えてくるわけです。

それこそ、対面でのやり取りだったら、強引な仕切りとなるわけですが、メールでのやり取りだったら、逆上メールとなる。
強引な仕切りでも、逆上メールにおいても、相手に対して「言わせない」状態なり、自分に対して「逆らうことができない」状態を作ろうとする。それだけ、名前の問題について触れたくないんですね。

名前に対する「ぎこちなさ」によって、その人の出身家庭のダメダメさが、簡単にわかったりするものなんですよ。
名前についてアンタッチャブルな人は、出身家庭そのものについてもアンタッチャブルとなっている・・・それこそ、「ティファニーで朝食を」のホリー・ゴラトリーだけでなく、皆さんの周囲のダメダメ家庭出身者もそんなものでしょ?

そのホリーは飼っているネコに名前を付けようとはしなかったわけですが、一般的にはペットには名前を付けるもの。
名前にぎこちない人だと、名前を付けるのがイヤだという点から、ペットに対し心理的な敷居の高さをもったりする。
あるいは、名前という点において微妙になるのは「ぬいぐるみ」です。
ぬいぐるみに名前を付ける人の方がポピュラーでしょうが、付けない人もいますよね?
しかし、ぬいぐるみに名前を付けない人は、往々にして、ぬいぐるみの数が少ない。
ぬいぐるみの数については住宅事情もありますから、一概には言えませんが、ぬいぐるみに名前を付けて、多くのぬいぐるみを持っていれば、その家庭は、マトモであることが想定できたりする。
それだけ、名前と自然に接することができるわけですし、子供にとって大切なものも持っているといえる。

逆に言うと、持っているぬいぐるみに名前がなければ、それは住宅事情の問題とはいえないでしょ?
そんな家庭は、名前というものとの距離感がつかめない状態であることがみえてくる。
子供の友人とのやり取りにおいても、ぬいぐるみの名前について聞いてみると、その家庭について見えてくるものも多いはずです。
女の子でぬいぐるみが一つもなければ、その時点で、その家庭はダメダメでしょうし、そのぬいぐるみに名前がなければ、やっぱりダメダメなんですね。

(終了)
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発信後記

近頃、長い文章が続いていたので、今回は短い文章にいたしました。
名前というものは、親が子供に対して使うだけでなく、周囲の人が子供に対して使うもの。
どれだけ多くのシチュエーションを想定して名前を付けるのか?
付けられた名前からそんな思考が見えてくるわけ。
しかし、ある種のダメダメ家庭では、親本人が、子供に対して名前を使わないんだから、様々なシチュエーションも何もないわけです。
R.11/2/18