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カテゴリー ダメダメ土曜講座(人物編)
配信日 09年6月6日
タイトル ライブドアの堀江さん
月曜日に配信した「反動」というお題の文章で、ライブドアの堀江さんについて言及いたしました。「LIVEDOOR」という名前は、自分自身に対して門戸を開かない社会への反動の意味があるのでは?そんな言及です。

その折に、堀江さんをライブドアの創業者と書きましたが、実際は違っているとのこと。
堀江さんは、ライブドアという既存の会社を買収して、買収した先の会社の名前を、もともとの自分の会社の名前にしたんだそう。

まあ、心情的には、実際に、社会に対する不満があったんでしょうが、創業者という表現は不適切でした。
購読者さんからのそんな指摘をいただいたので、改めて堀江さんについて考えてみました。

このメールマガジンでは、以前より堀江さんについて言及したりしております。
彼にはダメダメ家庭出身者の特徴がてんこ盛り。だから同類といえるダメダメ家庭の出身者からは支持されることになる。
彼を支持した人」に関しては、読者さん投稿の文章があります。

私としては、彼を支持した人よりも、堀江さん本人に関心を持っており、彼の行動パターンについて言及いたしております。
彼は会話不全の人間であって、だからこそ、序列意識が強い。だからその努力は、「序列のための努力」と言えるもの。
別の言い方をすると「支配・被支配の構図」を作ろうとする。
だから権威主義

以前取り上げたエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」では、マルティン・ルターと権威との関わりについて記述があります。
フロムによると「ルターは権威をたたえ、それに服従しようとする。しかし同時に彼はみずから権威であろうと願い、他のものを服従させたいと願っている。」「権威主義的性格には、権威に挑戦し、『上から』のどのような影響にも反感を持つ傾向がある。」
・・・それって、まさに堀江さんの行動スタイル。

ルターは、度を越して厳格な父親によって育てられ、愛や安らぎを知らない人。
その父親への反発が、そんな権威主義を生んでいるわけ。
権威に対する反発と憧れを持っているから、堀江さんのメンタリティは、いわば市民「運動家」のそれ。

その文章中にも書いてありますが、堀江さんは、「資本家に対抗する市民運動家が、そのまま資本家になった。」趣でしょ?資本家になっても、いつまでも対抗心を売りにしている。
堀江さんは自分の成功との付き合い方がわからないわけ。
だからいつも挑戦者として、自分を規定する。

トルーマン・カポーティの「冷血」という作品にある記述には、「残骸となった人間は侮蔑と憎悪を蓄積することには成功するかもしれませんが、成功を蓄積することはありません。なぜなら、侮蔑と憎悪に生きる自分自身にとっては、勝ち取った成功こそが敵であり、自分が達成したものを心から楽しむわけにはいかないからです。・・・」とあります。

マルティン・ルターと同じように、堀江さんの言動から、父親への反発が見えてくる。
そもそも息子が東京大学に入学したんだから、父親だって「アタマがいい」わけでしょ?

しかし、その頭脳が生かされない境遇にいると、逆に不満が溜まりやすい。
だから何かを犯人認定をしたりするもの。その犯人探しの対象は、往々にして、自分の子供に向かいやすい。
「オマエが生まれたせいで、オレはうまくいかないんだ!」ということになってしまう。
父親はアタマがいいかもしれませんが、どうも「お金の使い方」は知らないようですね。

だって、息子の堀江さんは全然、お金の使い方を知らないでしょ?それだけ、その家庭では有意義にお金を使っていないことがわかるわけです。お金の使い方の適切な見本となっていないわけです。これはで、優秀な息子としては不満を持ちますよ。
その父親への反発を自覚すればいいでしょうが、その自覚から逃避していて、まさに「遠くから考える」ようになってしまう。

本来なら、前の世代のオヤジたちに反発するよりも、まずは自分自身の父親へ反発するのが先でしょ?

堀江さんは、もともとアタマがいいし、ある意味において、自己否定的で強迫的な向上心がある。このキャラクターは、前回配信したレオーネ監督の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」において、主人公ヌードルスと親友関係だったマックスの行動パターンと同じ。

この「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」におけるマックスも、堀江さんも、アタマがよく、強迫的な向上心を持ち、トップに登りつめ、そして没落していく・・・と、まさにお約束の世界。

そんな流れは、前記の「序列のための努力」の中で言及しております、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の映画「教授と呼ばれた男」の主人公と同じ。
そのトルナトーレ監督は、例の「ニュー・シネマ・パラダイス」の監督です。

映画「ニュー・シネマ・パラダイス」では主人公のトトは、故郷のシチリアに30年近く帰りませんでした。堀江さんも、「故郷に帰っている雰囲気はない」でしょ?
その「ニュー・シネマ・パラダイス」で、年老いた母親が、息子に対して、こんなことを言いますよね?
「オマエに電話をすると、いつも別のオンナの人が出る。しかし、オマエを本当に愛している声は聞いたことがないよ。」

堀江さんのご母堂はどんな人なのかはわかりませんが、堀江さんに電話をかけたりはしないのでは?
その面を、もっと自覚すれば、別の対処がとれるでしょうに。
映画「ニュー・シネマ・パラダイス」の主人公トトは、自分の喪失体験を、自らの原点として、それを見つめることによって、作品を作る人になった。

しかし、堀江さんは、自分にとって最も重要な問題から目をそらしている。
往々にしてダメダメ家庭出身者は、自分にとって「肝心な問題こそ思い出せない」もの。
まずは、「自分との対話」が必要になるわけです。

彼自身は、「LIVEDOOR」という名前にちなんで、まずもって自分自身の心のドアを、そして自分自身の記憶のドアを開ける必要があるわけなんですね。

作品を作る人は、その自分自身の思い出を原点として出発するものなんですが、堀江さんには、今のところ無理のようです。
結果的に作品を作れないくらいなら、たいしたことではないわけですが、そんな人間の成れの果てがどうなるのかは、多くの作品で描かれているものなんですよ。

(終了)
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発信後記

今回の文章では、本文中でジュゼッペ・トルナトーレ監督の「ニュー・シネマ・パラダイス」という作品に言及しておりますが、この映画は、昨日取り上げた、セルジオ・レオーネ監督の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」と実によく似ています。

双方とも、少年期、青年期、そして中年以降と3つの時代にまたがっている。
そして、中年以降の視点で、若き日々を回想している。思い出の事物を見ながら、かつての夢や喪失感が、吹き上がってくる。そしてその音楽はエンリオ・モリコーネ。
あと、双方とも、最後のシーンは、ある種の劇場に類するところで、ちょっと笑顔を見せて終わる。そういえば、「ニュー・シネマ・パラダイス」で、映画監督をやっている主人公の映画中の芸名はレオーネという名前じゃなかったのかな?
まあ、トルナトーレとしては、意識はしていたんでしょう。

創作する人は、自分の喪失感に真摯に向きあうことで作品を作ることができるわけですが、作品がヒットして、周囲からほめられたりすると、その喪失感が薄くなったりするもの。そうなると、その創作者さんは、「生ぬるく」なってしまう。まあ、「ニュー・シネマ・パラダイス」でヒットを飛ばしたトルナトーレさんは、そんな感じ。
創作する人にとって、何が幸福なのかは簡単ではないものなんですよ。まあ、いつまでもリルケ流の「放蕩息子」のままでいないとね。
R.10/12/22