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カテゴリー ダメダメ土曜講座(表現と作品 編)
配信日 09年10月10日
タイトル ゲーテ「冬のハルツの旅」から
ブラームス「アルト・ラプソディ」から
ちょっとした言葉で、「スウィッチが入った。」とかの言い回しがありますよね?
自分が前々から興味を持っていて、そのことを相手がたまたま聞いてきた。「待ってました!」とばかりにスウィッチが入って熱く語り出す・・・
あるいは、前々から問題意識を持っていて、色々と調べてきたことに関連することが、実際に起こった・・・よし!もっと調べてみよう!となる。
以前から、引き出しに色々と入っていれば、そこから連鎖的にドンドンと出てきて、止めどもなくなってしまう。

まあ、オタクの方々がよくそんなことになったりするようです。
そうして、自分のオタク知識を熱く語ったりする。

オタクじゃない人にしてみれば、そんなオタク知識を熱く語られても、困ってしまうだけ・・・なんですが、何かについて、スウィッチが入るようなことは誰でもあったりするでしょ?
逆に言うと、どんな状況でもスウィッチが入らないなんてことは、それだけ日頃からの問題意識がないということ、つまり、当事者意識がないダメダメ人間ということ。
たまには、スウィッチが入ったりすることは必要でも、それを人に語ったりするには、語る相手と語り方を考える必要があるというだけです。
まあ、私は幸か不幸か、引き出しが多い方なので、色々なことでスウィッチが入ったりします。そうして、アタマの中の引き出しから関連するネタが次々と出て来ることになる。

さて、そんなスウィッチが入った一つとして、先日に起こった「クレヨンしんちゃん」の原作者さんが山でお亡くなりになった事件があります。
まあ、事故か自殺か色々と詮索されているようですが、今となっては本人しかわからない。
かと言って、毎日が本当にマンガどおりのお気楽で楽しい日々だったら、一人で山に登ったりはしないでしょう。山に登るにせよ、仲間と行くのでは?一人で登ったということは、何か苦悩を抱えていたと考える方が自然なのでは?

苦悩を抱えて、一人で山に登る・・・そんな心情に思いを寄せていたら、私の中で段々とスウィッチが入ってきたんですね。

アタマの中で、悲痛で重苦しいメロディが鳴り出すことになる。
♪ むこうにいるのは 誰だ
その足跡は藪の中に消え 背後の繁みはとざし
草はまた立ちはだかり 荒涼があの男を呑んでいる ♪

ブラームスの「アルト・ラプソディ」という曲です。
この「アルト・ラプソディ」という曲は、ゲーテの「冬のハルツの旅」という詩の一部に音楽を付けた曲です。そのタイトルどおりにアルト(女性の低音歌手)のソロがオーケストラをバックに歌い、最後になって男声コーラスがそのアルトに合わせる曲です。

その「クレヨンしんちゃん」の原作者さんの最後も、まさに「草はまた立ちはだかり 荒涼があの男を呑んでいる」状態そのもの。

さて、そのゲーテの「冬のハルツの旅」というか、ブラームスの「アルト・ラプソディ」ですが、上記に続く言葉は、

♪ ああ 香油が毒になり あふれる愛からも
人間の憎悪を飲んだ男の苦しみを 誰が癒せよう
軽蔑され やがては自ら軽蔑者となり
飽くことのない自我の妄執にとらわれて
ひそかに自らの価値を食い尽くしてしまう ♪


ここで、香油が毒になり・・・という一節は、ゲーテの「ウェルテル」を読んで、そこにある溢れるような愛の記述から、むしろ自分自身の「愛の欠乏」を思い、自分自身を呪ってしまっている・・・そんな読者を意味しています。

「ウェルテル」を読んで・・・は、ともかく、まあ、どこかで見たことがあるような読者さんの姿でしょ?
ちなみに、「軽蔑され やがては自ら軽蔑者となり 飽くことのない自我の妄執にとらわれて ひそかに自らの価値を食い尽くしてしまう。」・・・そんな精神状態となると、以前にトルーマン・カポーティの小説「冷血」を取り上げましたが、そこでの犯罪者ペリー・スミスがまさにそんな心理状態。
あるいは、まさに韓国人の心理がそれでしょ?
あるいは、インターネットの掲示板に常駐している人間なんて、まさにそのパターンでしょ?
その手の人は、「自分より下の存在をわざわざ探し出し」、軽蔑を向けることで自我を保とうとする。
そうして「イタイ奴!」などと言って、その人を軽蔑し自己満足に浸ってしまう。
そんな姿はインターネット掲示板だけではなく、それこそマスコミの報道姿勢なんて、その典型でしょ?
自分より下の存在がほしいので、何かというと「恵んでやる」「教えてやる」なんて態度を取りたがる。
あるいは、「自分はアイツを軽蔑しているんだ!」と自分自身に納得させるために、「」とか「www」とか「ぷっ」なんて表記を無理に挿入したりする。
人を軽蔑することで、必死で「根拠のない自負心」にすがろうとしている状態。
そんなことだから「自らの価値を食い尽くしてしまう」のも当然のことですよ。

さて、「アルト・ラプソディ」の最後の歌詞は以下のものです。ここから男声コーラスが入って来ます。

♪ 愛の父よ あなたの竪琴に
あの男の耳に入るような ただ一つの音でもあるならば
あの男の心を楽しませたまえ 
あのすっかり曇った瞳をひらいて
砂漠の中の 渇した人の傍らにも 千の泉があることを知らせたまえ ♪


ブラームスは、ゲーテの「冬のハルツの旅」の中間の3節に音楽を付けています。
いわば、曲がり角の部分です。
苦悩にうちひしがれ、自らそれを見すえようとする人を描写し、そんな人へ恩寵を願う・・・そんな部分です。

じゃあ、ブラームスはこの曲をどうしてアルトで歌わせているの?
曲名だって、「冬のハルツの旅から」とかの、詩のタイトルから直接的に取ったものではなく、わざわざ「アルト・ラプソディ」というネーミングになっている。つまり、ブラームスはアルトという声域あるいは、アルト歌手が持つキャラクターを強調しているわけです。
それにコーラスが、どうして混声ではなく、男声コーラスなの?

じゃあ、音楽的にはアルト(低音の女性歌手)は、どんな役割があるの?
オペラだったら、アルトは脇役であることが一般的です。高音パートのソプラノがヒロインで、低音パートのアルトは、ソプラノが担当するヒロイン役のお母さんだったり、侍女さんだったり、あるいは恋敵だったりするもの。

しかし、アルトにはちょっと別の使い方があったりします。
いわゆる「ズボン役」です。オペラにおいては男声の高音パートであるテノールが主役となることが多い。そのテノールが歌う役よりも、もっと若い男性の役が登場する場合には、その若さを際だたせるために、女性歌手に男性役をやらせることもあります。
主人公は、一人前の青年で、その役はテノールが担当。その主人公の周囲にいる脇役で、いわば半人前のボーヤの役を、女性歌手が担当するわけです。それをズボン役なんて言ったりします。
たとえば、オペラに兄弟が登場する場合、兄が主人公となると、兄をテノールが担当し、その弟は、アルトになる・・・そんな感じとして理解していただいて結構です。兄がテノールで、弟がそれより低音のバスだと、収まりが悪いでしょ?

そんなことがアタマに入っていると、ブラームスがなぜにアルトでこの歌詞を歌わせたのか?よく見えてくる。
愛の欠乏に悩み、苦悩する「まだ半人前の若者」が、霧が立ちこめる山に一人で入って行く。自分自身と対話して、その苦悩と向き合う覚悟を決めたら、霧が晴れ、周囲には同じ苦悩を持った人たちがいることに気が付いた・・・そんな構図になっている。

だからこそ、コーラスは男声なんでしょうね。
今まで霧で見えなかった先輩たちが見えるようになった。そんな先輩たちが、暖かく、そして厚い手をさしのべている・・・詩において以上に、音楽的にそんな構図になっている。若者の先輩という役割を際だたせるために、コーラスが男声オンリーとなっているのでは?女声が入ると、ベターとした仲間意識に安住する雰囲気が出てしまう。お互いが寄りかからない己に厳しい人たちというイメージを守りたかったからの男声コーラスなのでは?

カポーティの「冷血」におけるペリー・スミスは、「軽蔑され やがては自ら軽蔑者となり 飽くことのない自我の妄執にとらわれて 自らの価値を食い尽くしてしまう。」ことへの自覚がないがゆえに、犯罪者となってしまう。自我の妄執にとらわれているがゆえに、自分自身が見えなくなってしまっている。

芸術家と犯罪者は、その心理としては、実に似ている。
その点については、以前にセルジオ・レオーネ監督の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」という作品を例示しながら考えております。

ゲーテは、自分自身のそんな精神状態が自覚できた・・・だからこそ、作品を作る芸術家となった。そしてそんな心理は、作曲家ブラームスも同じ。

だから、この「冬のハルツの旅」なり「アルト・ラプソディ」は芸術家の若き日の苦悩の象徴として使われる例があったります。
フランスの映画作家のレオス・カラックスの「ポーラX」という映画では、このアルト・ラプソディがチラっと流れていました。それにより、その映画の主人公の軽薄な流行作家さんが、やがては真の苦悩に目覚めていく・・・そんな、その後の展開の予告としていました。
まあ、あの「ポーラX」という映画でも、ワンパターン的に、「ラヴロマンス」とかのモンキリ解説がされたようですが、ちょっとした音楽に気が付けば、作品の作り手の意図はよくみえるものなんですよ。

ちなみに、ゲーテの「冬のハルツの旅」という詩は、ゲーテの「ウェルテル」を読んで、逆に落ち込んでしまった、まさに「あふれる愛からも 人間の憎悪を飲んだ」読者を励ます目的での旅を詠ったものです。
ゲーテは実際にハルツ地方の山を登って行きました。まさに「Harzreise im Winter」・・・なんですが、ここでのハルツは地名と言うだけでなく、ドイツ語のハルツ(英語で言うとハート)を掛けているのでは?

まさにこの詩で詠われているのは「心の旅」なんですね。
「冬のハルツ」は、「凍てついた心」のメタファーとなっているのでは?
私個人はドイツの地理には詳しくありませんが、冬山の光景に繁みとか、藪の描写があるのはいいとして、雪は降っていないの?
逆に言うと、作者のゲーテとしては、あえて「冬の」という「言葉」を持ち出してきているといえます。
それだけ、「凍てついた」心情と、そこからの解放がテーマになっているわけです。
自分自身の心に旅をするからこそ、逆に言うと、同じ苦悩を抱えた仲間・・・まさに乾いた魂を潤す千の泉の存在も見えてくる。
しかし、「誰かワタシのことを理解してくれないかなぁ・・・」「誰か一緒にグチれないかなぁ・・・」なんて、傷のなめ合いを求めて周囲を見回しているばかりの人は、結局は、「ひそかに自らの価値を食い尽くしてしまう。」だけ。そんなことをしている内は、瞳も曇ったままだし、霧が晴れないままで、周囲にいる先輩や同志の姿も見えないまま。

このことは、何もゲーテがこの詩を制作した18世紀や、ブラームスが音楽を付けた19世紀や、カポーティが「冷血」を書いた20世紀だけでなく、21世紀の今も全く同じでしょ?
ストゥルム・ウント・ドラングとか、ノンフィクション・ノヴェルとか芸術上の様式には、時代上の変遷があったりしますが、ゲーテも20世紀のカポーティも、同じことを言っているんですよ。

よろこばしい目標へ向かって すみやかにたどる幸運な人をうらやんで、そんな人を無理に軽蔑しようとしても、ますますドツボにはまるだけ。
まさしく神は 人それぞれに ゆく道を定め給うた・・・と言えるでしょう。

(終了)
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発信後記

本文中の翻訳の言葉は、井上正蔵氏の翻訳の文章を中心に、別の方の翻訳も入れたりしております。
ご興味がありましたら、皆さんも色々とお調べくださいな。

ちなみに、上記の私の文章のように、ゲーテの「冬のハルツの旅」を、ブラームスの「アルト・ラプソディ」に関連付けながらのエッセイは、「風立ちぬ」でおなじみの堀辰雄氏の文章があるそうですが、これもご興味のある方はお調べくださいな。
堀さんは、さすがに時代的に、カポーティとかレオス・カラックスまで話を広げてはいないでしょう。逆に言うと、それだけ多くの人の関心を受けている作品と言えるわけです。

古典作品から「学ぶ」という姿勢だと、何も得るものがない。
しかし、「一緒に考える」そんな姿勢だと、色々と得るものがあるはずです。
逆に言うと、そのためには、まず自分自身で考えることが最初に必要になるわけ。
この「冬のハルツの旅」という作品は、まさしくそのこと自体がテーマという作品なんですね。
R.11/2/15