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カテゴリー ダメダメ家庭が持っている発想
配信日 04年7月16日  (10年5月19日,10年10月16日 に記述を追加)
タイトル 権威主義
「子供は親の言うことを黙って聞いていればいいんだ!」
ダメダメ家庭ではレギュラーのセリフといえます。
「親の方が子供よりエライんだから、子供は大人である親の言うことに従え!」

そのような物言いも、合理的な理由が全然ないわけではありませんよね?
大人は子供よりも多くの人間と接しており、社会をより知っている。現実的にこれは確かでしょう。
だからと言って、人とのやり取りにおいて、そのような問答無用のスタイルがいいわけないでしょ?

子供は子供なりの視点があるでしょうから、大人がそれを取り入れることに何かデメリットがあるの?子供とちゃんと会話して、いいものは取り入れればいいじゃないの?
子供ならではの新鮮な視点もあるものでしょ?

ところがダメダメ家庭では子供の言うことなど一顧だにしない。まあ、政治とか科学技術のような分野ですと、やっぱり大人ならではの経験も有用でしょう。しかし、年齢に関係ない分野もありますよね?たとえば、19世紀のフランスの詩人アルテュール・ランボーのように10代の頃に作った詩が「若書き」だからと言って、他の詩人よりも劣るというものではないでしょ?

しかし、10代のランボーには神から与えられた天分はありましたが、ないものがあった。それは地上の権威です。権威を尊重する人間には、作者が10代の若造というだけで考慮に値しないものなんですね。

権威を尊重する人間は、人とのやり取りにおいては「相手が何を言うのか?」は問題ではないわけです。「誰が言っているのか?」その点が重要なんですね。そのことを言っている人間が「権威のある人」だったら、とにもかくにも了承する。ところが権威のない人がいくら語っても相手にしない。

人間のブランド化の発想です。ブランドのある人間であればその言葉もありがたがる。ブランドのない人間の言葉であれば、一顧だにしない。
「重要なことは人間の序列だ!」そんな信念で生きている。
確かに実際問題として人間の知性もすべての人が平等というわけではないでしょう。実際に話してみて「この人ちょっとヘン!」「洞察力が不十分だ!」「教養が欠けている。」と思ってしまうような言葉もありますよね?しかし、ブランド化に浸りきっている権威主義の人間は、そもそも人と会話する意欲がないわけです。
だって、言葉そのものは重要ではないんですから・・・「言葉の発し手が誰か?どんな立場なのか?」だけが、問題なんですからね。

自分自身で言葉を聞き、判断する意欲があれば、「誰がその言葉を発したか?」なんて二の次でしょ?納得できる言葉であれば、自分で判断して取り入れる。納得できなければ、それまで・・・そんな感じの対応で問題ありませんよね?自分自身で会話ができれば、言葉の発し手が誰かなんて問題ではないわけです。

しかし、権威主義の人間は、言葉による会話による相互理解などは眼中にない。
たまに、おサルさんの序列確認のシステムが紹介されますよね?相手のおサルの上に乗って「自分が相手より序列が上である。」ことを確認させる・・・そんな儀式によって、序列を相互に確認するんだそう。
権威主義の人間が行う「やり取り」も、このようなおサルさんの序列確認の儀式に近いものです。
序列が上の人間の言うことには、とにもかくにも従う。自分が上であればとにもかくにも従わせる。「やり取り」の結果に確認されるのはお互いの序列関係。

権威主義者にとって、「やり取り」において重要なのは、序列なんですね。
だから「子供は親のいうことを黙って聞いていればいいんだ!」との言葉がダメダメ家庭で頻発することになる。まあ、確かに家庭内の序列で言うと親の方が子供より上でしょう。だからと言って、子供の意見を聞かない理由にはなりませんよね?

目上の人を尊重すると言ったマナーに類することもあるでしょう。だからと言って目上の人の言葉がすべて正しいなんてものではありませんよね?だからこそ、お互いによる会話が重要なんでしょ?しかし、強圧的で問答無用のやりとりは、本音の議論にならない分だけ、社会的な序列確認には大変に有効なんですね。

このように言葉よりも序列が重要という権威主義の人は、おもしろいことに、態度が豹変することがあります。相手が「実は自分より目下だ。」と途中になってわかった場合に、急に居丈高になったり、逆のケースですと、相手が目下だと思っていたのに実は目上だとわかってオロオロして、結局は何かなんだかわからなくなってしまって逆上したり・・・
よくいますよね?そのような人。

そのような権威主義の人間は「やりとり」はコミュニケーションの手段ではなく、おサルさんのように序列確認の手段なので、想定の序列から外れると混乱しちゃうんですね。

そういえば、北朝鮮にいるアメリカ人の方々の振る舞いが、異常に「威張っている」のに驚かれた方もいらっしゃるでしょう。何でも朝鮮半島では威張っていないと安く見られてしまうとのこと。このような発想は権威主義の典型的な序列意識ですね。「オレはオマエたちよりもエライんだぞ!」というわけです。序列が重要であって、言葉が重要ではないわけ。韓国人なんて、まさにそのパターンでしょ?

このような序列のみを重要視する権威主義の人間はどの分野に多いでしょうか?
まあ、オヤジの巣窟といえる政界?体育会系のスポーツ分野?勿論そうですが、政界やスポーツ界はそうでもない部分も多少残っているんです。だって政治家は落選すればオシマイですし、スポーツでもビリになってしまえば、いくらその人に権威があってもダメなんですね。権威がなくても、結果として一番になればとやかく言われない。どんなに権威があっても、「結果」には従わざるを得ないわけ。

ですからこのような権威主義の巣窟と化しているのは意外と「知的」と評される分野です。
公務員とか、学界とか芸術の分野とかです。あるいは、マスコミもそうかな?
これらの分野は「評価」を身内同士で行うことになる。だからこそグループの権威者には逆らえないんですね。現在(04年)プロ野球の中日ドラゴンズの監督の落合さんのように、「自分流にやっていても、結果を出せば文句ないだろ!」とは言えない。だって、学界とか芸術界は結果というものを出しにくい分野ですし、結果を評価するのは身内だけでしょ?

だからどうしてもこの手の分野では権威主義がはびこることとなる。そして優秀な人間はそれを嫌って外に出てしまうので、レベルの低い人間だけがそのグループに残ることになり、ますます権威だけが重要という世界になってしまうわけ。

現在海外を中心に活動している日本人のオーケストラの指揮者の小澤征爾さんのように、日本の音楽界から追放されてしまった事件のような例が数多く起こったりするんですね。
実際問題として、クラシック音楽の世界では権威が重視されるようです。

私が知人に誘われてとあるクラシック音楽の愛好家のサークルに行ったときのこと。
「この曲のあの演奏家による録音は、あの有名な評論家の○○先生が絶賛している!」
「こちらの演奏家による録音は、△△先生が勧めている。」
「この曲のすばらしさは、◇◇先生が語っている。」
と、こんな調子でした。

やり取りを聞いていた私は、目が点になってしまいました。音楽を好きな人間が集まって、好きな音楽を語るのはいいとして、何故にそんな得体の知れない評論家の言葉を引用するのかな?コイツらは実際に自分の耳で音楽を聞いたのかな?聞いて本人はどう思ったのかしら?面白かったの?つまらなかったの?アンタら何が楽しいの?こんなことしていて・・・

私が「この曲のこの部分って、なかなかいいよねぇ・・・」とか言うと「それについて、どの本に書いてあるの?」「誰が言っているの?」と周囲から質問を受けてしまいました。
いやぁ・・・シュールな世界だなぁ・・・と呆気に取られたわけです。

しかし、周囲からのそんな反応も「どんな言葉であるかが重要ではなく、誰が語ったのかが重要。」という信条を持っていれば理解できない話ではありません。
まあ、音楽の楽しみ方は人それぞれでしょうから、それでもいいんでしょうが・・・

このように「何を語っているのか?」よりも「誰が語っているのか?」を重視していると、発言する資格に対してこだわったりすることになります。
それこそ「オマエはその分野を専門的に勉強していなんだから、その件については何も言う資格がない!」そんな物言いになってしまう。

だからこそ、子供の問題については、子供の意向や感情を子供から聞くのではなく、児童心理学を勉強した人の話を聞くことになるわけ。児童心理学を参考にするのはいいとして、権威主義の人は、子供の話は無視するわけです。
とにもかくにも、権威ありきのスタイルになっているわけ。

子供の問題ではありませんが、おもしろい事例が以前にありました。フランスの文学者のスタンダールの作品の翻訳の問題です。
東京の大学の教授が行った翻訳が気に入らないと、関西の私立大学の教授がケチをつけたことがあったそう。
「我々はスタンダール研究の権威者だ!オマエなどに翻訳する資格はない!」
そんな感じ。

しかし、翻訳なんてものは、所詮は原文を超えられるものではないでしょ?
原文のよさからどの点を削っていくのか?むしろそんな判断が必要になってくるもの。そして、どの点を削っていくのかという点においては、翻訳者のそれぞれの判断ですよ。
この翻訳者による翻訳では、この原文のこの面がよく出ていて、別の翻訳者による翻訳では、原文の別のよさが残っている・・・そうなっていればいいだけ。

「オマエは翻訳する資格がない!」・・・なんて・・・
そんな物言いは、まずもって原作者のスタンダールが呆れてしまいますよ。
ゼロから作品を作る人間は、翻訳の資格などについては何も言いませんよ。
実際に、そんなことを言っている創作者はいますか?
創作者の発想を何も理解できない程度の洞察力からこそ、文学研究者になって、スタンダール研究の権威者と自称する・・・まあ、その手の例は、芸術周辺のあだ花として、歴史的にはいつも登場しているもの。

資格はいわば入り口論。
出口といえる結果とは直接には関係がないわけ。
それこそ大学だったら、高校を卒業すれば受験資格はあるわけでしょ?
ただ、受験しても合格するかどうかはまったくの別物というだけ。

同じように、誰だって、何についても語る資格は基本的にはあるもの。
しかし、その言葉によって、相手に合意してもらえるかどうかは別物。
そして、合意を取るためには、単なる資格の問題ではないでしょ?
語る資格がスグに遡上に登るということは、納得した上での合意ではなく、「その人に従う」という支配関係を重視する発想になじんでいることが見えてくるわけです。

逆に言うと、従うとか従わせるだけで、相互理解や合意を志向していないので、その語りなり説明は、粗雑なものでも許容されてしまう
合意を取ることを目的としていれば、その説明に当たって、事例を多く出したり、あるいは、論理展開も工夫しますよ。しかし、従わせるだけなので、「黙ってオレの言うことを聞け!」で済んでしまう。

それは「言う側」だけでなく、「聞く側」も同じ。「誰が語っているのか?」を重視することで、「どんなことが語れているのか?」考えることから逃避しているわけ。
逆に言うと、権威主義に徹することにより、「やり取りをしている相手の意向」について考えなくてもよくなる。
権威者なら従う、権威がなければ無視する・・・ただ、それだけでいいわけですからね。

ダメダメ家庭出身の方で「ワタシごときがこんなことを言ってもいいんでしょうかぁ・・・」なんてエクスキューズをつけて何かを言われるケースがありますが、そんなエクスキューズが自然に出てくるということは、それだけ、「語る資格」にこだわる環境だったことが推測されるわけです。

語る資格にこだわりすぎると、逆に、説明を磨き上げることから逃避しまい、どんどんと合意から遠くなってしまう。結局は、「支配・被支配の構図」になってしまい、だからこそ序列が必要になる。
そして、その序列を決めるのが、まさに権威というわけ。

「ワタシごときが・・・」などと思っているのなら、その人なりの最大限の努力をもって当人の見解をわかりやすい形でまとめればいいだけ。
ただ、その見解に対して合意が得られるかは別ですよ。
それについては「ワタシごとき」ではない、つまり権威者であっても同じでしょ?
その見解の説明が粗雑なものであったら、「従う」ことはあっても、「合意」することにはならないでしょ?

そして、そのような権威を愛好する人が家庭を持ってしまったらどうなるでしょうか?
だって、そもそも子供という存在は、そのような権威からは最も遠い存在でしょ?子供に対して「権威ある◎◎先生がこうおっしゃっているから、オマエもこうしなくちゃダメだ!」と言っても納得してくれるの?子供はそんな権威とは関係ありませんものね。

しかし、権威主義者はそんな「客観的?」権威で家庭を統治しようとするんですね。
実際問題として私がビックリしたことがあります。私のメールマガジンについて、「もし、このメールマガジンの作者が、小学生だったら文章も考慮するに足らないし、権威ある人の文章だったら説得力がある。」そうおっしゃった方がいらっしゃいました。

しかし、このメールマガジンの基本的内容は「家庭内で子供を育てるに当たっての注意点」なんですから、むしろ作者が小学生だった方がいいことでしょ?「子供のナマの声」を聞かずにどうするの?「子供の幸せ」について考えるのに、子供本人の意見は価値がないの?
私はさすがに小学生ではありませんが、家庭内で子育ての問題について考える文章だったら、むしろ作者が小学生のような子供であることの方が価値が高いでしょ?

しかし、権威主義者は子供の言葉など聞く耳も持たない。だって子供には権威がないわけですからね。
自分のスグ横にいる自分の子供の問題を、その子供と直接に話をすることなく、社会の権威者の見解を強引に当てはめようとする。
「子供とはこのようなものだ!テレビにも出ている有名な○○先生が、そのようにおっしゃっているぞ!」
そのような「子供とはそういうものだ!」と言われても、実際の子供は「そうなる」ものでもありませんよね?

しかし、権威を愛するダメダメ家庭では自分の子供の問題を、自分の家庭とは無関係の権威者の意見を参考にする。子供の話を聞かずに・・・
子供が何を言っても、「子供は親のいうことを黙って聞いていればいいんだ!」で問答無用なんですね。

おまけに社会システムでも同じですよね?
子供の問題が起こったりすると、どこかの権威者さんがもっともらしいことを言ったりするもの。しかし、子供の問題なんだから、まず持って子供に聞くのがスジでしょ?よりにもよって権威主義の巣窟の公務員が主催し、よりにもよって学界のお偉方が説教をぶつ会議で得られた「正論」が、問題の解決に役に立つわけがありませんよね?

子供の問題が起こったら、まずは「子供自身が今どんなことを考え、困っているのか?」その点について聞いてみることが必要でしょ?しかし、権威主義の人はそんなことはしない。子供に対して、権威を持って「命の大切さ」を上の立場から教えれば事足りると思っているんですね。このような「正論」がまかり通る状態では、問題は深刻化するに決まっていますよ。

権威主義は、「従う」「従わせる」ことが優先されている背景を示しているわけ。
「従う」ということは「縛られる」ということでしょ?
つまり、権威主義は、心理的に見て「マゾヒズム」や「サディズム」に非常に近いものなんですね。
別のところで集中的に取り上げております、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」においても、権威主義と「マゾヒズム」「サディズム」との間の強い関係が記述されております。

権威ある人の命令により、「自分を縛る」。
権威主義はまさにそんな発想なんですが、それは自分で考えることを否定した自己否定の精神であるわけ。
ヘンな話になりますが、「権威ある○○先生が、『いのちは大切だ』と言っているから、そのように学びなさい!」と学校で指導するケースがありますが、それは子供に対して自己否定を強いているわけ。

自己否定を強いているんだから、それを強いられた側は、「生きる」ことを軽んじることになるのは、誰でもわかること。
別のところで書いていますが、「いのちの大切さを学ぶ。」ということを掲げる学校では、まさに子供の事件が多発しているでしょ?
それは、その言葉が利用される背景となっている権威主義まで目を向ければ、実に自然な流れなんですね。マゾ行為が肥大化して、死に至る・・・大人でもそんな事件があったりするようですが、権威主義的な学校における「教育」も、そんな面があるわけです。

(終了)
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発信後記

本文中に言及した19世紀フランスの詩人のアルテュール・ランボーですが・・・
映画「太陽と月に背いて」で、レオナルド・デカプリオが演じましたので、皆さん覚えていらっしゃるでしょう。

らんぼうというと、私のメールマガジンの文章や内容がらんぼうというクレームがたまに寄せられますが・・・まあ、ランボーの視点は因習的なものではなく、ある意味、子供の視点のような新鮮な視点で、世の中の教条的な発想を挑発した面があるのは事実。

それが読者にはらんぼうに写るのは当然です。ですから私の文章がらんぼうという批判は・・・むしろ誇りをもって享受したいと思っています。
この権威主義については、社会心理学者のエーリッヒ・フロムが、この権威主義について考えた文章もあります。
08年8月29日配信 エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」(権威主義について)
R.10/10/16