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カテゴリー ダメダメ家庭の人からのメール
配信日 05年4月27日 (10年7月31日 記述を追加)
タイトル 連続発信のメール (五月雨メール)
ダメダメ家庭は会話の不全の家庭です。
もう、この書き出しはお約束ですね。「昔むかし、あるところに・・・」そんなレヴェルなまでにお約束状態。

じゃあ、不全となっているという会話って、何?どんなものなの?
その点について、もう少し細かく考えて見ましょう。
「相手の話を聞いて、自分の考えを言う。」・・・そのような対面での会話のシチュエーションを細かく見てみると、以下のようなプロセスがあります。

1.相手の話を音声的に聞き取る。

2.相手の言わんとするところの全体の意図を、理解する。

3.相手の言わんとするところに対しての、自分の見解を考える。

4.相手の言っている内容の中で、個々のエピソード的な箇所についての見解を考える。

5.自分自身の総合的な見解をまとめ上げる。

6.その見解を相手にわかりやすい形で、配列を直し、適切な表現スタイルにする。

7.それを音声的に発信する。

まあ、こんな感じですよね?
そのような「やり取り」の積み重ねが会話と言うものでしょ?

しかし、ダメダメ家庭ではそんなやり取りにならないわけ。
たとえば、以前にも配信いたしましたが、ダメダメ家庭では「人の話を聞かない」わけ。これは音声的に聴かないというより、相手の「言わんとするところ」を理解しようとする意欲がないわけ。
それこそ、勝手に「早合点」をして、全然違う意味に受けとって、その挙句に勝手に怒り出したりするんですね。相手の話の全体を聞き取ろうなんて、これっぽちも思っていないわけ。

だから、ダメダメ家庭での「会話」は、上記のプロセスでいうと、

1.相手の話を音声的に聞き取る。

2.相手の言っているところで、エピソード的なことについてその都度感想を持つ。

3.その感想をその都度に音声的に発信する。

そんなプロセスになってしまう。
相手の話の個々の部分に反応しますが、全体的な意図については、考えたりはしないわけです。それに、その自分自身が受けた感想を相手に伝えるに当たって、「できるだけ相手にわかりやすい形で伝えよう!」そんな風には考えたりはしない。

相手が言おうとする言葉を遮って、その都度「それはねぇ・・・」と意見というか感想を言うわけ。面と向かってのやり取りにおいてはそんな感じ。しかし、その意見の中身だって大したものであるわけもなく・・・だって、相手の話を聞いていないわけですからね。示唆的だったり、啓示的な見解なんて出てくるわけもないでしょ?

そんな断片的な感想を聞かされても、途方に暮れてしまいますよね?
まあ、マトモな人はそんな人は相手にはしませんよ。

しかし、面と向かっての対面での「やり取り」では、しょうがないところもあります。
目の前の相手からのプレッシャーを受けたりもしますからね。
特にダメダメ家庭出身者は自分自身に自信がない。

子供のころに自分の話を親に聞いてもらえなかった体験がある。家族での会話だって弾んだものではなかったわけ。そんな体験を引きずっているので、どうしても会話の場では緊張してしまうわけです。
まあ、その緊張感を自覚しながらやっていくしかないわけです。

しかし、今はパソコンや携帯電話を使ったメールでのやり取りという方法もあります。
メールでのやり取りだと、相手からの直接的なプレッシャーは感じなくて済むでしょ?
ダメダメ家庭出身者にとっては、ありがたいコミュニケーションの手段ですよね?

目の前の相手からの直接的なプレッシャーを感じる人も、メールの文章からはプレッシャーを感じたりはしないでしょ?文章そのものからオーラを発しているような文章なんて、滅多にあるものではありませんよ。そんな文章が書けたらプロ中のプロですよ。
それに、メールでのやり取りだと、読むのがイヤなら止めてしまうこともできる。受け手にとって自由度が高いわけです。

だから、メールでのやり取り「すら」できない人は、対面でのやり取りなんて絶対にできないわけですね。
勿論のこと、パソコンが使えないという人は、話は別ですが・・・

ダメダメ家庭出身の人は、対面でのやり取りが苦手なので、パソコンを使ったメールでのやり取りが発達することになる。このこと自体は悪いことではありません。メールでのやり取りで訓練して自信をつければ、体面でのやり取りも、従来よりも余裕を持って行うこともできるわけです。

しかし、やっぱりメールでのやり取り「すら」メチャメチャな人も、実際に、いるんですね。
そんな人とのメールのやり取りは、まさに、

1. 相手の文章を読みながら、

2. 文章の途中で感想を持って、

3. その感想を書いて、その都度配信する。

こんなスタイル。

相手の言わんとするところの全体的な意図をくみ取ろうとは思ってはいないわけ。それに自分自身の感想を「相手にわかりやすく」まとめ上げようとも思ってはいない。
文章の途中で引っかかったら、その都度「私はこう思う・・・」「オマエはこんなことを書いているけど、違っているぞ!」と勝手に早合点してしまうわけです。
そうして、その都度、五月雨式にメールで返事を書くわけ。

今は日本ではインターネットはADSLなどの常時接続が当たり前になってきましたが、一昔前はアナログモデムで一般の電話回線を使っての接続でした。
プロバイダの料金とか、電話回線の料金を心配しながら、必要な時だけインターネットに接続したモンです。接続するときは、自分のIDとかパスワードをいちいち入力して・・・
と、大変に面倒なものでした。
近頃のワカイモンは知らないだろうなぁ・・・
と言っても、ほんの5年前はそれが一般的でしたがネ。

そうやって苦労してメールを受信していると、なぜか同じ発信者から何通もメールがあったりすることもありました。
内容的というか、スタイルは、まさに上記に書いた、早合点を五月雨式にメールしたもの。

そんな五月雨式のメールを受け取る方が思うことは決まっていますよね?
「ちゃんと私の文章の全体を読んだ上で、返事を出してよ!」
「あなた自身の考えを、相手にわかりやすい形でまとめた上でメールにしてよ!」
「で、アンタは一体全体、何が言いたいわけ?」

結局は、連続発信のメールを出す人はやり取りしている相手の文章の全体を読み、自分自身で考える意欲すらないわけ。そして、相手にわかりやすく伝えようとも思ってはいないわけですね。

メールのやり取り「すら」この調子なら、対面でのやり取りはどうなっているんだろう?

あるいは、メールのやり取りだけでなく、よくインターネットの掲示板でも、妙に連続して書き込みをされる方っていますよね?まあ、あの手の掲示板は、長い文章は向かないので、ちゃんとしたメッセージを発したい場合には、連続した書き込みになることもあるでしょう。それが掲示板の世界の限界。

しかし、そのような掲示板のやり取りだって、一応は「相手の文章の言わんとするころを理解し」「自分の考えを相手にわかりやすい形でまとめる。」・・・そんなスタイルが必要でしょ?往々にして連続した書き込みは、そのような基本的スタイルができていないんですね。結局は、自分自身の妄想で書き込んでいるわけ。
五月雨式のメールをする人と、掲示板で連投する人はメンタリティは同じなんですね。たぶん、メンツもかぶっているのでは?

この手の五月雨式のメールを平気でやってしまう人が、往々にして言うことがあります。
「子供には、親であるワタシが必要だ!」
しかし、メールのやり取り「すら」メチャクチャな人が、子供とどんな風に会話しているの?子供の話の全体をちゃんと聞いて、その全体を判断し、その上で親としての考えを子供にわかりやすい形で伝えているの?
もし、そんな芸当ができているのなら、メールでのやり取りも、もうちょっとマトモなものになるでしょ?だって、相手の話を真摯に聞いて、相手にわかりやすく伝えるということは、会話の基本なんですからね。

そう!その手の五月雨式メールをする人は、子供との会話すらメチャクチャなんですね。だから「子供にはワタシが必要だ!」ではなく、実際には「ワタシの相手をしてくれるのは、自分の子供だけだ。」というわけです。

それを自分で認めれば改善に向かうことは可能ですが、それを自覚できる人はまずはいません。だって、「相手をしてくれる人は自分の子供だけ」状態ということは、周囲の人からアドヴァイスも受けることができない状態なのは論理的に当然のこと。
実際には、自分の子供を「親である自分だけを相手にする」ように育てて、「子供にはワタシが必要だ!」と宣言するわけ。

ダメダメ家庭出身者でも、一般的にはメールのやり取りくらいはちゃんとできるものです。
メールのやり取り「すら」メチャクチャな人は、かなり重症ですね。
しかし、以前にも書きましたが、居酒屋さんで「オレは酔っていないぞぉ!」と酔っ払いが大騒ぎするようなことが、現実として起こったりするわけです。つまり重症のダメダメになると、自分自身がダメダメであるという自覚に到達することがなくなってくるわけ。

この手の人は、相手の話の意図を聞き取ろうとする意欲の時点で欠如しているし、自分の考えを相手にわかりやすく伝えようとも思っていない。そして自分自身でじっくり考えることもしないわけです。自分自身から逃げてしまっているわけ。前回書いたクイックレスポンスのスタイルのスタイルです。

相手の意図を考えて、即座に返事を書いているわけではなくて、相手の文章の意図を考えたくないから、あるいは、自分の考えをまとめたくないから、細部だけに反応して、即座に返事を出す。
それが積み重なって、連続した五月雨式のメールになってしまうわけ。

別の言い方をすると、自分の「言いたいこと」はあっても、相手に対して「分かってほしいこと」については、何も自覚していないわけ。
相手にわかってほしいことが明確になっているのなら、それが相手に対してわかりやすいスタイルの文章にするものでしょ?
部分部分の感想を、その都度五月雨式に送るのはいいとして、そんなメールを受け取った側は、何を理解すればいいの?というか、何を理解してほしかったの?

まあ、経験から言わせていただくと、この手の連続発信のメールを出される方は、結局は逆上することになります。
そもそも「言いたいこと」はあっても「分かってほしいこと」がない、そして、その乖離が大きい人と言えるわけだから、「結局は、アンタは、この文章で何を言いたいの?何をわかってほしいの?」という質問は、一番クリティカルな質問になってしまうわけ。
だから、そんな質問から逃避するために、逆上に逃げ込んでしまう。

「で、結局は、何をわかってほしいのか?」という点については、その手の発信者にしてみれば、心理的にクリティカルかもしれませんが、メールの文章を読む側としては、基本中の基本でしょ?メールを受ければ「で、結局は、このメールから何をわかればいいのか?」について、まずは最初に考えるものでしょ?

別のところでまとめておりますが、「自分はどうしたいのか?」という点から逃避しているダメダメ人間は、「一つの案件を、一つの文章にまとめる」ことができない。
これは文章作成上の技術の問題ではなく「で、結局は、アンタは何が言いたいの?」というダメダメ人間の一番弱いところと関係しているわけ。
「で、結局は、アンタは何が言いたいの?」という点が明確でない状態だったら、それを一つの文章にまとめ上げることは不可能でしょ?

メールのやり取りにおいて、連続したメールを発信するようなことだけでなく、面と向かっての会話のケースでも、やたら相手の話を遮る人って実際にいるでしょ?それは、相手の話を聞く意欲がないだけでなく、「相手の話が自分にとって都合の悪いことになりそうだから、『とりあえず』反論して、そのことから逃げてしまおう。」と無意識的に対処しているわけ。心の弱い人間なんですね。

ダメダメ家庭出身者でも、このレヴェルになってしまうと、「オレは酔っていないぞぉ〜」と同じレヴェル。
外からの強制力を持った解決でないと、改善は不可能なんですね。

(終了)
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発信後記

JRの大事故の被害者の方々にはお悔やみ申し上げます。
大事故なのはともかく、だからといって、報道の方が何をやってもいい・・・というわけではないでしょうね。
被害者の方にもうちょっと配慮できないものかな。
まあ、そんな配慮なんてできない人たちなんでしょうが。

ちなみに、先日配信した文章の中で、「ミスをした人間を叱る際に、あまりキツク叱ってはいけない。キツク叱ったりすると、次にミスをした時に、隠すようになってしまうから。そして、隠していたミスが発覚した段階では、もう取り返しがつかなくなっているもの。」という言葉を引用いたしました。今回の大事故だって、そのような背景があるわけです。JR西日本もダメダメ家庭の一種と言えるわけ。

また、お亡くなりになられた方に、花を捧げることが多くあります。
ちなみに、ネアンデルタール人のお墓からも人骨とともに花が出土するそうです。
花は、散った後で、土に還り、また次の年に花を咲かせる・・・ということで、「復活」のメタファーなんですね。

ネアンデルタール人も亡き人の復活を願って、花を手向けたわけでしょう。人間の考えることって、そんなに変わることはないわけ。
何か凶悪事件があったりすると、インターネットが悪いとか、昔はロックが悪いとか・・・何か目新しいものが、その要因とされてしまうものですが、その手の事件は、それ以前にも結構あったりするんですね。

観察眼のない人が、事件があるとワイワイ騒いで、目新しいものを、その槍玉にあげる。
古代エジプトの記録にも「まったく・・・近頃のワカイもんは・・・」というグチがあることは有名ですよね?人間がやるミスだって、昔から似たようなものもあったりするもの。多少方法が違うだけ。

4000年前のエジプト人も、10万年前のネアンデルタール人も、今の我々も・・・それほど違いなんてありませんよ。まあ、目新しいことを槍玉にあげることも、昔からなんでしょうが・・・
R.10/7/31