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カテゴリー | 映像作品に描かれたダメダメ家庭 | |
配信日 | 05年11月4日 | |
タイトル | 麗しのサブリナ(54年作品) | |
監督 | ビリー・ワイルダー | |
主演 | オードリー・ヘップバーン | |
このメールマガジンでは適宜「作品の中に描かれたダメダメ家庭」というカテゴリーで、様々な作品に描かれているダメダメ家庭の具体的様相をピックアップしたりしています。 ということで、今回はあのオードリー・ヘップバーン主演の有名な映画「麗しのサブリナ」を取り上げます。例のサブリナパンツの由来となった映画です。ちなみに、54年制作の白黒映画です。リアルタイムで見た人は、まあ、いないでしょうが、有名な作品ですから、DVDは簡単に借りられますからね。 しかし、このメールマガジンはダメダメ家庭のメールマガジンであって、映画についてのメールマガジンではありません。 だから、「オイオイ!あの映画はどこから見てもラブコメだろうが!無理にダメダメ家庭の問題にこじつけるのはよくないぞ!」と思われる方もいらっしゃるでしょう? 勿論、あの「麗しのサブリナ」という映画自体は、純然たるラブコメで、作品自体を無理に家庭問題にこじつけるつもりはありません。ただ、この映画で主演しているオードリー・ヘップバーンがダメダメ家庭の出身であることはご存知の方も多いでしょう? 今回は、このラブコメ映画「麗しのサブリナ」で出てくる実に興味深いシーンから、女優オードリー・ヘップバーンの「心の傷」を見てみたいと思っているわけ。 映画「麗しのサブリナ」のあらすじは、ご存知の方も多いでしょうが念のために書いておきましょう。 アメリカ東部のセレブの家庭に住み込みの初老の運転手がいて、その娘サブリナと2人くらし。運転手の妻は死去している。サブリナはセレブの次男にお熱。身分違いのかなわぬ恋なので、パリへ2年間の留学に送られてしまう。パリから帰ってきたサブリナは見違えるようなレディーになって、かつて子供扱いした次男だけでなく、堅物の長男までも彼女のとりこに・・・ そんな楽しいラブコメなんですね。 さてさて、この映画の最初の頃に、サブリナが失恋の末、自殺未遂をしでかすシーンがあります。今回はそのシーンからヘップバーンの「心の傷」を見てみましょう。 シーンの流れは以下のとおり。 1.大好きな次男のダヴィッドがパーティーで楽しげ。 2.それを遠くから見つめるサブリナ。 3.パーティーから抜け出してきたダヴィッドがサブリナを見つけて「子供は早く寝なさい!」 4.子供扱いされて、頭に血が上ったサブリナは父親に遺書を書く。 5.その遺書を父親の部屋に投げ入れ、車庫の車のエンジンをかけて一酸化炭素中毒自殺を図る。 6.結局は、途中で見つかって失敗。 そんな流れです。 「子供は早く寝なさい!」なんて言われて頭に血が上るのは、実際に子供である証拠。大人になると「アンタは子供ねぇ・・」と言われても「そうかもねぇ・・」と笑っていられるものです。そうでしょ? 「子供扱い」されて頭に血が上る・・・当時のサブリナはそれくらい子供と言えるわけ。そんなガキンチョが一酸化炭素による自殺を失敗するのも当然ですよね? 失恋して自殺するシーンがヘップバーンの心の傷を示しているの? そう思われるかもしれませんが、こんなシーンはなんでもない。失恋して自殺しようとするなんて映画においてはよくあるシーンです。それに予想通りに失敗しちゃったわけですからね。 私が注目しているのは、父親に遺書を書くシーンです。 もし購読者の皆様が映画の脚本家なら、上記の「流れ」を見て、不思議に思うはずです。 重要なシーンがないんですね。 その重要なシーンというのは、遺書を書いた後のシーン。 私が脚本家だったら、こんなシーンを絶対に入れます。 遺書を書いて、机の上にある母親の写真を見ながら「ママ!もうすぐママのところへ行くわ!」 片親しかいない家庭を描く場合には、写真というものが、重要な要素となります。父親と子供の家庭だったら、母親の写真があれば母親とは死別。写真がなければ離婚。 映画においては、このサブリナの家庭は母親が死別ということになっています。本来なら母親の写真が「それなりに」あるはず。サブリナだって自分の机の上に飾ってあってもおかしくないでしょ?たとえ母親の思い出がなくてもね。 母親の写真がないということは、父親が「お母さんは、もう死んでしまった。」と言っていても、実際には離婚・・・そんな複雑な事情を抱えている家庭だと、「鋭敏な」観客が思ってしまう。そんな「深読み」をされないためには、母親の写真が絶対に必要ですよ。 母親の写真に語りかけるシーンがどうしてないのでしょうか? そもそも映画というものは、ヴィジュアルと音響で情報を伝えるものでしょ?遺書の文面の文字を丁寧に長々と映すよりも、映像と音を使って、サブリナの心境を伝えるのがマトモ。 脚本を書き、監督もしているビリー・ワイルダーはそんなこともわからないの? しかし、名匠ビリー・ワイルダーはプロ中のプロ。そんなことがわからないわけがない。 多分、最初の脚本では、そんなシーンがあったはずです。 ただ拒否されたのでしょう・・・オードリー・ヘップバーンにね。 オードリー・ヘップバーンは、イギリス人の父親とオランダ人の母親の元で産まれました。両親は早々に離婚。オードリーは母親の元で育てられたわけ。つまり彼女は、母と娘の母子家庭の出身です。 しかし、オードリー・ヘップバーン主演の映画には、母親という存在が滅多に出てこない。 私の記憶をたどって見ると、 母親が死去済みの父子家庭のケースが 1. 麗しのサブリナ 2. 昼下がりの情事 3. 尼僧物語 4. おしゃれ泥棒 あと、母親不明?の父子家庭のケースが「マイ・フェア・レイディ」。 そのうち、「麗しのサブリナ」と「昼下がりの情事」と「マイ・フェア・レイディ」は、最後にはかなり年上の男性と結ばれることになる。 まあ、彼女が重症のファザ・コンであることは疑う余地もないでしょう。ただのファザ・コンというだけでなく、母親への敵意もあるわけ。本人がどれだけ自覚していたのかはわかりませんが。 映画において母親という役柄が登場しないだけでなく、母親の写真すら登場しない。 オードリー・ヘップバーンの映画で、母親の写真を見るシーンってないでしょ?前にも書きましたが、母親の写真は父子家庭を描く際には、非常に重要なシーンといえるわけ。母親の写真は、母親が死去する前の状況を説明できる優れた小道具なんですからね。母親の写真を出せないと、その父子家庭の状況を説明するのが難しくなるわけ。 脚本家だったり、監督としては、そんなシーンを当然のこととして入れたいはずです。 そこを断固拒否する・・・そんなことでは俳優としては失格ですよ。 実際にオードリー・ヘップバーンは俳優としては二流です。演技の幅が狭いのは上記のとおり。それに発声が悪い。まあ、彼女の場合はその発声の悪さをヨーロッパ的な雰囲気にごまかしているわけですが・・・ しかし、彼女は印象に残っている女優ということでアンケートをとると、日本に限らずナンバーワンだったりする。 結局は、俳優としての演技力というより、「素」が強烈ということなんでしょうね。 では、オードリー・ヘップバーンのダメダメ家庭振りを具体的にリストアップしてみましょう。 1. 容姿が端麗・・・まあ、彼女の容姿が端麗だということについては、疑問の余地がないでしょう。子供の容姿が端麗であるということは、親の容姿が端麗ということ。そもそも、彼女の両親であるイギリス人の男性と、オランダ人の女性の間に結婚前にどんな会話があったの?確かにオランダ人は多国語を流暢にしゃべる人が多い。だから英語での会話だってできたでしょう。しかし、形の上での会話と、もっと中身のある会話は違いますよね?結局は、彼女の親は容姿優先での結婚と見た方が自然。実際にスグに離婚しちゃったわけですからね。まあ、彼女の瞳がダメダメ家庭出身者の瞳であることは、見る人が見ればスグにわかることでしょ? 2. 離婚の連鎖・・・オードリー・ヘップバーンの両親はスグに離婚。そしてオードリー・ヘップバーンも2回結婚して、いずれも離婚。離婚の「親子二代連鎖」と「一人連鎖」の2つともやっています。このあたりもダメダメ家庭ではよくあるケース。 3. 「て・き・と・う」な結婚・・・1回目の結婚はともかく、2回目のイタリア人医師との結婚は、どうも「て・き・と・う」っぽい。「ワタシなんかでいいの?じゃあしてあげるわ!」と結婚するのは、ダメダメ家庭出身者でよくあるケース。 4. 表現へのこだわり・・・子供時代に親から「自分」の存在を認めてもらえないダメダメ家庭の子供は、大人になって「自己表現」への道に進むことが多くあります。「自分は認められていない。」と思っているがゆえに「自分を認めさせたい!」「自分を表現したい!」と考えるわけ。だから芸能関係者や芸術家が輩出したりするんですね。 5. 恋に恋する・・・それこそ「麗しのサブリナ」でもそうですが、オードリー・ヘップバーンの役どころは「恋に恋する」女の子というものばかり。演技力のない彼女がそんな役にハマルのは、「素」がそうだから。 6. いじめられっ子・・・この「麗しのサブリナ」の撮影中はオードリー・ヘップバーンは共演のハンフリー・ボガードにいじめられたそう。あと、「マイ・フェア・レイディ」の撮影中は共演のレックス・ハリソンにいじめられたそう。あと、晩年の作品ではベン・ギャザラのセクハラにあったそう・・・彼女はどうもいじめられっ子キャラのようです。ダメダメ家庭の人間はいじめられっ子になるケースが多い。彼女もそんなオーラを出しているんでしょうね。 7. 自信がない・・・彼女は自分の容姿に全然自信がなかったそう。「何をあの容姿で?」と思われるかもしれませんが、ダメダメ家庭出身者は自分に自信がないもの。それだけ、親から「褒められていない」わけです。客観的に見てどんなに容姿端麗だったとしても、子供の頃に「アンタ・・・こっちから見るとヘンな顔ねぇ・・・」なんて親から言われてしまったら、そっちの言葉の方がいつまでも残っているものでしょ? 8. ボランティア関係者・・・彼女は晩年にはボランティア活動に熱心でした。まあ、彼女はお金が沢山あったわけですから、「人の役にたちたい」と思うこと自体は特に不自然ではありません。他にすることもなかったでしょうしね。しかし、ボランティア活動に異常に熱を入れている人たちって、ほぼ例外なく自分たちの家庭はうまく行っていないものでしょ? 9. 遥か故郷を離れて・・・オランダで育った彼女。しかし、住処は確かスイス。どうも自分の故郷を嫌っている雰囲気があります。まあ、故郷を嫌うのはダメダメ家庭出身者のお約束。 10. 現実逃避・・・彼女は割りとお金持ちの役をよくやりました。彼女自身の出身家庭はむしろ貧乏に近かったようです。観客に夢を与えたいからなんて言っていたようですが、自分自身の過去とダブルような役柄は全然やりませんでした。ですからオランダを舞台にした「アンネの日記」の主役のアンネ・フランクの役も拒否。だからあの映画ではオードリー・ヘップバーンのパチモンがやっているでしょ? 彼女は演技の幅も狭く、母親とは写真ですら共演?を拒否する女優。監督としては使いにくかったのでは? しかし、ビリー・ワイルダー監督は、この「麗しのサブリナ」の後で「昼下がりの情事」でも、彼女を使っています。その後で、あのスキンヘッドのユル・ブリンナーとのラブコメを撮るプランもあったとか。 よくまあ・・・ なんでもビリー・ワイルダー監督の奥さんの名前はオードリーというらしい。まあ、妻と同じ名前なので彼女に甘かったの? というより、映画関係者などの芸能人というものは、全員そんなものなんでしょう。マリリン・モンローのようにワイルダー監督の自宅にいやがらせ電話をかけてくるようなとんでもない女優もいます。そのとんでもないマリリン・モンローですら何回も起用しているワイルダー監督にしてみれば、オードリー・ヘップバーンなんてかわいいもの。 彼女の「心の傷」も十分に理解していたわけ。そんな人間が集まっているからこそ、面白い作品ができる・・・表現の世界ってそんなものなんですね。 ちなみに、この「麗しのサブリナ」の中で、お軽い次男のダヴィットを演じているウィリアム・ホールデンは、晩年のインビューでこんなことがあったそう。 「共演した女優の中で、あなたが忘れられないような人は?」 その問いかけに、遠い目をしたホールデンは、搾り出すように「オードリー・ヘップバーン・・・」と言って黙りこくってしまったそう。 しわの刻まれたオッサンが、遠い目をして女性の名前を搾り出すのは絵になりますよね? 映画俳優のホールデンは大人だから、ヘップバーンに実際にストーキングすることはなかったのでしょうが、精神的には「入れ込んで」いたんでしょうね。ホールデンも似たもの同士というわけです。それを断腸の思いで諦めたわけ。だからいつまでも心に残ってしまう。 愛を求めて、その愛が得られず暴走していく・・・ サム・ペキンパー監督の「ワイルド・バンチ」でホールデンはそんな役を演じています。 結局は、すばらしい演技力なんてものはなくて、「素」があるだけというわけ。その「素」を本人が自覚しているかは別として。 いや、「すばらしい」というレヴェルのものは努力で何とかなる。ただ「すごい」というレヴェルは努力ではなんともならないわけ。しかし「すごい」レヴェルを実現できるって本人には不幸なこと。 ロシアの文豪のトルストイの晩年の作品に「セルゲイ神父」という短編があります。この小説をもとにした90年のイタリア映画「太陽は夜も輝く」という作品もあります。 ご興味がある方は、美男、美女が出ているので、まずは映画から見られた方がラクでしょうネ。 この主人公の神父のセルゲイは、「周囲の人に対して奇跡を起こすことができて、救って上げられる・・・が、自分自身には何もできず、救うことができない。」というキャラクター。 「人は幸せにできても、自分は幸せにならない。」・・・そのキャラクター設定は、言うまでもなく原作者のトルストイその人のキャラクターであるわけです。と同時に芸術家というものはそんなもの。 だからイタリアの映画監督が取り上げたりするわけ。 そういう意味ではオードリー・ヘップバーンも、典型的な芸術家と言えるんでしょう。「麗しのサブリナ」のような楽しいラブコメで、映画を見ている観客を幸せにしたかもしれませんが、彼女自身は幸せになれたのかな?心の底から幸福だったら、もっと太ったオバサンになることができたでしょうね。 この手の人って、「すばらしかったわ!」とか「感動したわ!」なんて観客から言われちゃうと逆に落ち込むこともあるわけ。「人を幸せにしてあげられたのに、どうして自分自身は幸せにならないの?」なんて自分に問いかけることになる。まあ、厄介な種族と言えるわけ。 彼女にとってラッキーだったのは、お子さんが2人とも男の子だったこと。 もし女の子が産まれてしまったら、とんでもない修羅場になったはずです。 神様だって、それなりの慈悲はあるというわけなんでしょうね。 オードリー・ヘップバーンは「永遠の妖精」といわれました。一般の人?は、そのオードリー・ヘップバーン主演の映画を見て、楽しい気分になるのかも知れませんが、色々と見えてしまうと、とてもじゃないけど、楽しいとは行きませんよね? そのようなことはどんな芸術でも共通していることですが。 (終了) *************************************************** 発信後記 よく書いていますが、ダメダメ家庭の問題を考える際には、「言っていること」よりも、「言われていないこと」に注目する必要があるわけ。 映画においては、「描かれないシーン」に注目すると、色々と見えてくるわけです。 まあ、そんな芸当は簡単にはできないことは言うまでもありませんが・・・ あと、ダメダメ家庭出身者によくある「容姿端麗」ですが・・・ これも何回も書いていますが、容姿端麗な人すべてがダメダメ家庭出身者というわけではありませんし、ダメダメ家庭出身者のすべてが容姿端麗というわけでもありません。 ひとつの視点として考えてください。 昨日(11月3日)に北朝鮮に亡命した女性が日本に帰ってきました。 彼女の行動なんて、絵に描いたようなダメダメ家庭の人間の行動ですよね? 彼女の容姿も、31歳の女性としては、かなり端麗と言えるのでは?私個人は、「あれっ?マイケル・ジャクソンかな?」と思っちゃいました。 まあ、マイケル・ジャクソンの行動も「絵に描いたような」ダメダメ家庭出身者の行動。 「人間は顔じゃない!」なんて言われますし、実際にそうなんですが、顔だって重要な情報源であるわけ。電車に乗って、人の顔を見ているだけでも面白いですよ。結構、その人の人生が見えて来たりするんですね。 |
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R.10/11/2 |