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カテゴリー | ダメダメ家庭が子供に与えない発想,精神 | |
配信日 | 06年8月29日 (11年2月18日 記述を追加) | |
タイトル | 喪失の痛み | |
かなり以前に、「命の大切さを教える」というお題で、文章を配信したことがあります。まあ、「命の大切さ」を「教える」なんて言う時点で重症のダメダメですよね? 世の中には「教えられる」ことと、「教えられない」こともあるもの。 「命の大切さ」って、数学の公式と同じように「教える」ことができるものなの?そんな発想自体に、命を軽んじている発想があるわけでしょ? 命の問題は、目いっぱいシリアスな問題でしょ? だからこそ、そのシリアスさに、耐える必要があるのでは?お気楽に「流さない」ことこそが「命の大切さ」じゃないの? 実は、以前にテレビを見ていて唖然としたことがあります。 よく問題になっている、野生動物による被害の問題の報道でした。日本で野生の動物が人間の住む村などに入り込み、人間の経済活動に支障になっている・・・よくそんな話が出てきますよね?クマとかサルとかタヌキとかが、畑を荒らしてしまう・・・そんな報道でした。 「人に対して、『損害を与える』クマなどの野生動物をどうするのか?」 色々な考えがあるでしょう。 しかし、唖然としたのは、その物言いです。 「クマの駆除」などと言っている。 『駆除かぁ・・・』 皆さんは『駆除』なんて聞いてどう思いますか? 一般的には『駆除』という言葉は「害になるものを除去する」意味でしょ?まあ、ハエやゴキブリに対しては、誰だって抵抗なく使う言葉ですよね? しかし、クマやサルに対しては、どうなのでしょうか? 皆さんはちょっと抵抗がありませんか? 往々にして、哺乳類に対しては抵抗がある言葉ですよね?まあ、哺乳類は親子で一緒にいることも多い。その「心情」がそれなりに想像できるものでしょ?だからこそ「殺す」には忍びない面もある。だから「駆除」という言葉に置き換える。駆除だから心理的抵抗がない。だから気楽に「除去」ことができる。 しかし、その気楽さが何につながっていくのかな? 議論の結果として、そのような動物を「殺す」こともあるでしょう。しかし、そのような場合でも、「殺す」痛みを背負わなくてはダメでしょ?お気楽に殺してしまっては、それこそ「命の大切さ」は、どうなっちゃうの? そんな「駆除」なんて言葉で、「殺す」痛みから逃げている状況だったら、そのような状況を改善しようと思う訳がないでしょ? よく、動物と人間の共生なんて、格好のいい言葉を言う人がいますが、そのような理想を実現させるためにも、「そうする必要性」が、実感として語られないとダメでしょ? 駆除ということで、すべて片がつくのなら、「そんなに困っているのなら、人間の害になる動物なんて全部駆除すればいいじゃないの?」って、誰だって思うでしょ? そんな社会だったら、ペットを捨てたりしますよ。 だって、いざとなったら駆除されるだけでしょ? 『生き物の命を大切にしよう!』『ペットは責任を持って飼おう!』なんて言うだけは簡単なこと。しかし、「いらなくなったペットは、殺されるのではない。駆除されるだけだ!」「どうして『殺す』などと、無用で刺激的な言葉を使うんだ!ケシカラン!」なんて反論されたらどうするの? 命の大切さは、その喪失の痛みと、不即不離なものなんですね。 ドイツの詩人であるライオネル・マリア・リルケの「マルテの手記」という作品においては、このような喪失の痛みの尊厳が語られています。 人並みはずれた死の痛みが、まさにその人の生の尊厳ということ。 レディーメイド(既製品)なスタイルでの死は、まさにレディーメイドの生そのもの。 死の苦痛に怒号を上げることこそ、その人の生の尊厳。 勿論のこと、喪失の痛みの中にいる人間は、周囲のサポートが必要になります。 愛おしんでいたペットをなくして悲しんでいる子供には、親が慰める必要があるでしょ? だから、ダメダメな親はそんな面倒を回避しようとする だから自分の子供から、「喪失の痛み」がないような状況にしてしまう。しかし、そんな状態だったら、生の尊厳だって実感として分かりませんよね?そんなお気楽さは、レディーメイドなスタイルで、いわば商品としての「いのち」を提供するだけ。 そりゃ、お気楽に人を殺したり、ペットを捨てたりするようになっちゃうでしょ? 「クマの駆除が行われました・・・」などというニュースの後に、学校で「命の大切さ」を教えましたなどと、次のニュースで出てきたりする。 「命の大切さ」について考えるのなら、まずは「クマの駆除」なんて言い回しを考え直すことが先でしょ? ダメダメな環境では、そのような痛みに対峙する覚悟がない。常に問題は先送り。だからこそ問題が大きくなってしまう。 それこそ、似たことは、「女性を乱暴した。」などと言った言い回しでも顕著でしょ? 「らんぼう」って・・・このメールマガジンの文章だって「らんぼう」ですが、そういうことなの?「女性を乱暴した」人は、女性に対してお行儀の悪い言葉を使ったの?そんな言葉で女性が傷ついたの?そんな乱暴な言葉って、あったりしますよね? しかし、それだったら受け手の感性の問題とも言えるでしょ? しかし、「女性を乱暴」した・・・の「乱暴」って、文章の「らんぼう」とは、全然違っているものでしょ? テレビなどの報道では、ある種の抑制が必要でしょうし、「当たり障り」のない文言を使う必要がある面はあるでしょう。しかし、方向性が誤解されるような表現だったら、そんな言い方はダメでしょ? 被害者の実名などよりも、その面での的確性の方が、報道として重要じゃないの? 軽い言葉からは、軽い「生」しか得られない・・・ 「生」の喪失の痛みに向き合うからこそ、「生」の尊厳と向き合うことができる。 そんなものでしょ? その「喪失の痛み」が存在しない家庭や社会は、実はダメダメなんですね。 ダメダメ家庭というものは、「失うもの」がない家庭といえます。逆に言うと、それは、価値のあるものなり、愛おしいものを、以前から何も持っていないということなんですよ。 ダメダメ家庭にあるのは、心の痛みにつながる喪失ではなく、経済的な損失だけ。 たとえ、家族が死んだとしても、その経済的なデメリットに視点が向かう。 ダメダメ家庭においては、対象を愛している(=love)ではなく、依存(=need)に近い状況になっている。 依存しているがゆえに、つまり、離れられないという関係であったゆえに、なくなってしまったら、大騒ぎすることもありますが、それは依存であって、愛ではないので、損失は意識しても、喪失感にはつながらない。そして、大騒ぎをする行為によって、「自分はそのものを愛していたんだ!」と、自分を騙す儀式としてしまう。 なくなった後での空虚感によって、あった頃の関係性も見えてくるわけでしょ? ダメダメ家庭では、依存であったゆえに、なくなってしまったら、スグに次のもので代用してしまう。そうして、空虚感を忘れてしまう。 愛だったら、代わりがききませんが、依存だったら、代わりがききますよ。 スグに代替品を見つけ出すこと自体が、それが愛ではなかったということなんですね。 さて、今回の文章は、かなり以前に出来上がっていました。 今まで配信しなかったのは、すでに出来上がった別の文章もたくさんありますから、無理にこの文章を配信する必要もありませんでしたし・・・ と当時に、この文章は、チョット文芸的な内容であり、だから理解しにくいと思います。 どうせなら、この「お題」に直接的に関係した「事件」が起こった時に配信すれば、購読者さんの理解もしやすいだろう・・・と思っていて、そのような「事件」を待っていました。 そして、最近、まさに、そのような「事件」が起こったわけです。 それだよ!それ!それを待っていたんだよ! その「事件」とは、とある女流の直木賞作家の物書きさんが、「自分は子猫を殺している。」という内容の文章を日経新聞に掲載して、大騒ぎになっている・・・らしい・・・という事件です。まあ、感情的に反応する人間が、多数、出てくることは誰だって予想できますよ。 私のような「一を聞いて、十をわかる。」人間だったら、物書きの人が子猫を殺しているという告白を掲載した・・・との「見出し」だけで、その人の意図は全部理解できますが、そんな人間はレアケースでしょう。 今回のメールマガジンの文章を読んでいただくと、一般の方も、その女流作家の心情も理解できるようになると思います。 確かに、まあ、「楽しい」話とは言い難い。 しかし、その女流作家が、「私は子猫を『駆除』している。」と言ったらどうなりますか? 読み手としては、そのような考察もあっていいのでは? 「殺す」のではない、「駆除」なのだ! そう言われちゃったらどうしますか? サルやクマは『駆除』なのに、どうして子猫は『駆除』してはいけないのか? そのように、逆に聞かれたら、どう答えますか? 答えは簡単じゃないでしょ? だから人間は、せめて、その「難しい」問いを、真摯に考えないといけないでしょ?安直に答えを出してはいけないわけです。 その女流作家さんは、そのような問題提起をしているんですね。 子猫を殺さないためには、「我々人間社会が、暗黙のうちに、子猫を殺している。」という現実と向き合う必要がある。直接的に見えるところに留まることなく、直接は目に見えない面まで視点を広げないと、薄っぺらな議論で終わってしまう。その「厳しい」「痛みを伴う」地点から、思考を出発させないと、真の改善なんてありえません。だからそのことを表に出し、顕在化する必要がある。 じゃあ、このメールマガジンの文章を書いているアンタは、子猫を「殺す」ことに諸手を挙げて大賛成なのか? そう思われる購読者さんもいらっしゃるでしょう。 私が解説しているのは、その物書きさんの「個人的な心情」であって、別に私個人の価値判断ではありません。自分自身で考えるためには、まずは客観的に理解する必要があるでしょ?事態を十分に認識したら、その後で、一人ひとりが考えればいいだけでしょ? 最初から価値判断を入れてしまうと、物事が正確に認識できないものなんですね。 その女流作家さんも、今回の感情的な非難は、「折り込み済み」でしょう。それくらい予想できなかったら、物書き以前に、単なるバカですよ。一般大衆がどんな反応をするのかについても、ちゃんと予想した上で掲載しているわけ。 その女流作家さんも、当然のこととしてわかっているのは、「子猫を殺す」ことは、出発点であって、終着点ではないということ。 「子猫を殺した」からといって、「生」の尊厳なり、「重みのある生」が獲得できるわけではない・・・これは真実でしょ? 自分自身の存在そのものを改めて確認するための、「痛みを伴う」行動なのであって、もっと重要なことは、「そこからどうするのか?」ということでしょ? 似たことは、自分の頭上に剣をぶら下げたシチリアの王様についても言えます。いわゆるダモクレスの剣。 自分の頭上に剣をぶら下げて、「自分の現在の境遇が、いかに危うく、緊張に満ちたものなのか?」それを常々確認することは有効でしょう。しかし、自分の頭上に剣をぶら下げたからと言って、自動的に「いい王様」になれると言うものではないでしょ? 重要なことは、「そこからどうするのか?」ということなんですね。 しかし、まずは自分自身を確認する・・・そのために、自分の存在の危うさを常に自覚できるようにしなければならない。 そのために、安直で既製品の言葉や行動や思考に頼ることを拒否する必要があるわけです。 ネコを殺していることの表明とか、頭上に剣をぶら下げるとか・・・それぞれの方法は別として、自分自身の状況の確認のために、人間は誰しもやらなければならないことでもあるわけです。 さて、その女流作家さんの行動には、ものを書ける人間には、スグにわかる発想が他にもあります。 ものを書く人間がやらなければいけないことの一つとして、「読者を切る。」ということがあります。 なにも、それこそ剣で、読者を切りつけるなんて物騒なことではありませんヨ。文章を読んでいる読者さんを折々に捨てていかないといけないわけです。 「付いて来られる読者さんだけが、付いてきてほしい。」 そのような心情が、書き手にはあるんですね。 どんな文章でも、あるいは、映画でも美術でも・・・作品の受け手は往々にして、甘ったれてしまうもの。 甘ったれた受け手は、作品に接して、「泣きました!感動しました!感動をありがとう!!」と大喜びしたりするもの。 しかし、「感動をありがとう!」は、いいとして・・・その受け手は、作品に触れた後で、どうなったの?泣いて、感動して、それでオシマイなの? それって、すごく貧しいことでしょ? というか、その作品のテーマや内容を本当に理解していたの? 自分自身がそれまで知らなかったような視点なり、考え方を、作品から読み取ったら、「感動をありがとう!」なんて言えるの? むしろ、とまどい、怒ったりするものでしょ? その困惑から、自分自身の思考を出発させればいいじゃないの?それが受け手にとって成長ということじゃないの? 「感動をありがとう!」と言うことは、事前の予想通りの「お涙頂戴」に、安心して「泣いて」、結局は、作品の受け手は何も変わっていないということでしょ?つまり何も向上していないと言うことですよね? しかし、作品の受け手は、「感動」を求め、「ワタシを泣かせてよ!」「ワタシを感動させてよ!!」と作品の作り手に要求するもの。 作品の作り手は、そのような甘ったれな受け手を、「切ら」ないといけないものなんですね。 感動を求めて、口を開けて待っているだけの受け手に、応えるような作品ばかりを制作していると、そんな作家さんは、その生命が終わってしまう。読み手の甘えに付き合うと、書き手も甘えてしまう。 作品を通じて、発し手と受け手が、ある種の緊張関係にないと、お互いが成長しませんよ。 それこそ文章を読んで、賛同する必要はありません。むしろ「自分はこのように考える。」とか、「自分だったらもっと上手に書ける。」なんて感想を持ってもいいわけです。あるいは、「何かヘンなことを言っているなぁ・・・しかし、なんとなく説得力があるから、チョット頭の片隅にでも入れておこう!」・・・これでもOK。 しかし、むやみに感動しても、それでオシマイでしょ?そんな読者を相手に書いてもツマラナイですよ。そんな読者は切っちゃえ!! その「ネコ殺し」の作家さんも、読者を「切り」にかかっているわけです。どうせ、その作家さんのネコ殺しの文章に感情的に反応した読者さんなんて、もともと「内容を分かっていない」人なんですね。まあ、本を買ってくれるのはありがたいけど、文章は読んでくれなくてもいい読者さんと言えるでしょう。 商品としての書籍の消費者とは言えても、文章作品の受け手とは言えない存在とも言えるでしょう。 本の購入には感謝しても、購読には感謝する必要がない・・・そんな読者にも配慮して文章を書いていると、いずれは、それに「引っ張られて」しまう。 だから、適宜、そんな読者を「切る」必要があるんですね。 まあ、このメールマガジンだって、「読者を切る」文章が、度々出てきたりするでしょ? 特にこのような家庭問題についての文章だと、「自分の理解者を探し求める」読者さんの「感動のネタ」になる可能性も高い。あるいは、「一緒にグチりたい。」と思って、ダメダメに安住している人のネタになってしまう。「自分の理解者を求めて」口を開けて待っているだけの読者さんは、切らないとマズイんですね。 強い印象を受けるのはいいとして、重要なことは、「そこからどうするのか?」ということ。 「ワタシは子猫を殺している。」という文章に逆上した人は、では、「クマやサルを駆除しました。」という報道にどう反応したのか? やっていることは変わらないでしょ? 「殺す」という言葉には反応しても、「駆除」と言う言葉には反応しない・・・そんな人は、一番タチが悪いといえます。だって、「駆除」という言葉は、動物の生命だけでなく、言葉の生命だって殺しているわけでしょ? そんな人は、存在の痛みから遠く、尊厳から一番遠いところにいるものなんですよ。 (終了) *************************************************** 発信後記 ちなみに、その女流作家さんは現在はタヒチに住んでいるそうですが・・・ 日本では生命が軽く扱われている・・・とか、なんとか・・・ まあ、だからといってタヒチに行ってもしょうがないでしょ? それに物書きだったら、やっぱり母国語が主体になるもの。画家のゴーギャンじゃあないんだから、ちょっと無理じゃないの?むしろ、厳しい状況下の方が、思考も進むんじゃないの? その作家さんは、「ワタシは小市民とは違う。」と思っているんでしょうが、さっさと困難な状況から逃げ出すあたりが典型的な小市民の発想。 そもそもネコなんか殺さずに、自分の亭主でも殺せばいいのに・・・ それだったらウィリアム・バロウズも一目置くというもの。 まあ、「ネコを殺すなんて、アンタは外道だよ!」という一般大衆からの非難は、予想できているでしょうから、その人も余裕綽々でしょうが、この私のように、 「ネコ殺し止まりっていうことは、アンタが直木賞止まりの物書きということ。いっかにも、一般庶民だねぇ・・・ホッ、ホッ、ホッ!」 なんて言われてしまったら、顔面蒼白になるでしょうね。 もちろん、この地点から、新たな思考を出発させれば、それはそれでOK。 それをするためには、日本でもアメリカでもフランスでも、都会に住む必要があると思いますが、彼女にできるかな? 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R.11/2/18 |