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カテゴリー | ダメダメ人間の自己逃避 | |
配信日 | 07年4月10日 (10年1月29日に大規模な改訂を行いました。) | |
タイトル | 人は人、自分は自分 | |
ダメダメ家庭の人間は当事者意識がない。 「自分が何をしたいのか?」自分でもわかっていない。 というか、そもそも、自分の希望について考えることを抑圧している。 そのような、ダメダメな人と縁がない発想が「人は人、自分は自分」。 だって、そもそも「自分は自分」と言っても、自己逃避のダメダメ人間には、そのように言い切ることが出来ないわけですからね。「自分はどんな人間なのか?」「自分はどうしたいのか?」自分でもわからないんだから、「自分は自分」なんて言えませんよ。 「自分がやりたいことは○○だから、自分としてはこれができればそれでOK!」とか、逆のパターンで「自分はこれが嫌いだから、この点を避けることができれば、それでいい!」 そんなパターンにならない。 自分のアイデンティティを他者に依存している状態となっている。 だから、どうしても、人のやることに、干渉しようとするもの。 たとえば、イスラム教徒やユダヤ教徒は豚肉を食べませんが、本人たちが食べないのは勝手ですが、もし、自分たち以外のキリスト教徒に対してまで、そんな要求を出したら嫌がられるでしょ?まあ、マトモなイスラム教徒もユダヤ教徒もそんなことはしませんよね?しかし、宗教の分野だと、ダメダメな宗派ほど、部外者に対し干渉しようとするもの。 あるいは、日本でよく問題になっている「君が代」の問題ですが・・・ イヤならそんな場に行かなければいい話ですよ。集団で歌わされるような場合は、黙っていれば済む話でしょ? 他人が歌いたければ、他人の問題だから放っておけばいいだけでしょ? 「君が代」が嫌いなら嫌いで、もっと、現実的な対処の方法もあるんじゃないの?私個人は学校を卒業以来まったく歌っていませんよ。「君が代」に対して無理に反対する気もありませんが、特に歌いたいわけでもありませんしね。 その問題について、よく裁判などになっていますが、それこそ、どうして大嫌いなものに、そんなに自分の時間を掛けるの?自分自身についてもっと重要なことが、あるはずでしょ? 逆に言うと、自分自身にとって、もっと重要なことについて考えることから目を逸らすために、やたら「べき論」を持ち出して、一般論にしてしまう。一般論だから「自分は自分」の問題でもなく、「人は人」の問題とも言えない。 前にも書きましたが、当事者意識があるから、つまり自分という存在を自分自身で説明できるから、「自分は自分」と言えるのであって、自己逃避であれば、「自分は自分」とは言えませんよ。そして、当事者意識がないので、逆に言うと、自分とは関係ない存在、つまり部外者も存在しなくなる。確たる自分があるからこそ、部外者という存在もできてくるわけでしょ?別の言い方をすると、当事者意識があるからこそ、自分と他者の境界線も見えてくる。自己逃避となると、その「自分と他者」の境界線が存在しなくなる。だから自分とは無関係な部外者という存在が、実感としてない状態になり、当然のこととして、「人は人」とも言えなってしまう。 当事者意識がなく、達成したい目標もない人は、「自分は自分」と言えず、自分ひとりでやることもわからない。だから他者にチョッカイを出さざるを得ない。それこそ、「アンタのために言っているんだ!」などと、恩着せがましく、やたら干渉することになってしまう。自分の価値を、「人に役に立っている」という形で達成しようとする。 相手から依存されるという関係性に依存する、一種の共依存状態となるわけです。 そんな人間って、それこそインターネットの掲示板では、実にポピュラーな事例でしょ? あるいは、韓国人が、「日本人はこうすべきだ!」と、やたら絡んできますが、それこそ「人は人、自分は自分」ですよ。韓国人は自分たちの国をどうしたいの?そっちの方が重要でしょ? 「自分はこうしたい。」と言えないがゆえに、善意をお題目にして、他者に干渉する・・・ そんなダメダメ人間に対し「人は人、自分は自分じゃないの?」「アンタ自身は、結局どうしたいの?」などと言ったりすると、まさにお約束のように逆上するだけ。 その手の人って、みんなそんな感じでしょ? 顔を真っ赤にして「アナタのために言ってあげているのにぃ!」「どうして、わかってくれないのっ?!キーっ!」 当事者意識がないゆえに、「人は人、自分は自分」という『発想』を持っていないダメダメ人間ですが、言葉としては使ったりするから、なおのこと厄介となる。 当事者意識がないダメダメ人間が唯一できることは、子供を作ることくらい。そもそも子育てに対する当事者意識がないからこそ、何も覚悟もないまま親になってしまう。だから、とりあえず子供はいたりする。いくらダメダメ家庭の子供でも、たまには親に頼みごとくらいはしますよ。 「ねぇ・・・お母さん!あの○○を買ってよ!皆も持っているよ!」 『何を言っているんだ!人は人、自分は自分だろうが・・・』 そんなやり取りはダメダメ家庭ではポピュラーですよね? じゃあ、その子供が、自分で考えて、「ワタシは、こうなりたいから、このようなことをやりたい!」と親に対して言ったらどうなるの? 『何を言っているんだ!皆に合わせて、ふつうにしろ!』 当事者意識がなく、自分なりの考えがないがゆえに、その言葉も、折々のとおりのいい言葉を出しているだけ。逆説的になりますが、自分の考えがないがゆえに、「人は人、自分は自分」という言葉となっているケースも現実として多い。 「人は人、自分は自分」という言葉において、当事者意識があれば、まずは後半部分の「自分は自分」の部分から達成される。だって自分自身が自分自身をどうしようと、それこそ勝手ですし、自分が対処できるのは、自分自身についてでしょ? しかし、自己逃避のダメダメ人間は、その「自分は自分」の部分を無視して、前半部分の「人は人」だけに着目する。逆に言うと、それだけ他者の言葉が気になってしまっている。 「あの人はどんなことをしているんだろうか?」 「あの人たちは、何を考えているんだろうか?」 「ああ!気になって、気になってしょうがない!」 そのような、周囲への強い関心が自分で清算できないがゆえに、「人は人」と言う言葉を持ち出し、自分を納得させようとするわけです。人と違ってしまっている自分を納得させるために、それだけ必死になっているわけです。 そんな場合の「人は人、自分は自分」という言葉は、自己逃避や自意識過剰の反映なんですね。 何回も書きますが、本来は「自分は自分」という後半部分が重要であって、それに付随する形で、「人は人」と前半に付けただけ。「自分はこのような人間で、このような考えを持ち、このようなことをやりたいと思っているから」、だから、「人と違っているのも構わないよ。」それが、その「人は人、自分は自分」という言葉の本来の意味でしょ? しかし、自己逃避のダメダメ人間は、「人は人、自分は自分」と言葉としては使っても、その発想がないまま。そんな言葉は、ただ自分を騙し、納得させるためのもの。 そんな人間が使う「人は人、自分は自分」という言葉の意味は、「本来は人と違っていることは許されるべきではないが、我々には事情があるんだから、たまには違っていることも許される・・・ハズだ。」くらいになっている。 つまり、自分の希望を肯定したものではなく、自分の希望を否定することを、さらに否定した二重否定に近い用法になっているわけです。 自分を騙しながら生きている親とやり取りをしても、虚しいだけ。だからどうしても、そんな家庭の子供は、自分の希望や感情を抑圧してしまう。 そして、そんな子供が「自分は自分」と割り切った境地の時にどんなことをするのか? ちょっと考えれば分かることですよね? (終了) *************************************************** 発信後記 そういえば、日本の英会話学校でイギリス人女性が殺害されちゃいましたが・・・ 喫茶店で個人レッスンなんてシステムがあるんですねぇ・・・ 正直言って、そっちの方にビックリ。 そんなシステムって、「あの学校」だけなのかな? 英会話も会話の一種ですから、会話の基本が必要でしょ?それは自分が伝えたいことを自分自身で理解し、それを相手にわかりやすく伝える努力をして、そうして相手の話を真摯に聞く。 その言語が英語なのか?日本語なのか?その違いはあるでしょうが、この会話の基本は同じ。 逆に言うと、日本語での会話が出来ない人は、英語の会話なんて出来るわけがないでしょ? 英語でのおしゃべりはできるかもしれませんが、会話にはなりませんよ。 あの事件の犯人も、英会話以前に、日本語会話ができない人でしょう。それを自覚できれば、あんな事件は起こさないで済んだでしょうが・・・ まあ、話をして面白くない人とは、出来る限り関わらない・・って、自分の身を守るために、必要な考えなんですね。そんな人とやり取りしなくてはならない場合には、上手に距離を取る・・・そうでないと面倒なことに・・・ 実際に体験なさった方もいらっしゃるのでは? |
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この文章に関連した文章だと 09年2月27日配信 「部外者意識」という文章があります。 | ||
R.11/1/8 |