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カテゴリー ダメダメ土曜講座(発想と視点編)
配信日 10年4月3日
タイトル 区切り (境界線)
以前に「フランダースの犬」を題材にした文章を配信しております。
童話というと、有名な作家にアンデルセンがいますよね?
彼の作品に「人魚姫」という作品があり、たぶん、皆様もお読みになられたことがあるでしょう。「フランダースの犬」と同じように、読んで号泣なさった方もいるかも?
アンデルセンの「人魚姫」は、人魚でありながら、陸に住む人間の皇子様に恋をして、結局はその恋が実らずに、泡となって溶けてしまう・・・そんな話でしたよね?

まあ、悲恋という面もありますが、泡になって溶けていってしまうという点が、実にロマンティック。
芸術を語る際に、ロマンティックな感性と古典的な感性とで、大きく分ける場合もありますが、「ああ!ロマンティックだなぁ・・・」と感じるものは、「溶けていく」感覚に近いものがある。

それに対し、古典的となると、ある種の形式感のような、きちっとした形に収斂することが多いもの。それこそ、古典的な感性に満ちているギリシャ神話だと、死んでしまった後には、星になったり、あるいは花になったりと、最後に形をもって収斂する。

あるいは、音楽の分野だって、ベートーヴェンの有名な「歓喜の歌」のメロディーは、きちっとした形になっているけど、それに似た旋律として有名なブラームスの第一交響曲の第4楽章の主題は、溶けていく感覚が出てくる。古典派とされるベートーヴェンと、ロマン派とされるブラームスの違いは、そんなところに明確に出てくるもの。

この溶けていくという事象を、物理学ではエントロピーといいます。日本語的には「乱雑さ」とも言われたりします。それこそ、お湯の中に氷の塊を入れたら、その氷は溶け出して、結局は、均一の温度になるでしょ?そのように境界線がなくなってしまい、均一化するのが自然の流れというもの。別の言い方をすると、「形あるものは壊れていく・・・」それが物理法則。
壊れているものが、自然と、形あるものになっていくものではない。
混ざり合っているものが、自然に分離していくわけでもない。
まさに、覆水盆に返らず。
形というか境界線を保つためには、それ相応のエネルギーが必要になる。
それこそ、温度の境界線を維持するのにも、冷蔵庫が必要になり、そのためにはエネルギーが必要になるでしょ?

人間というか生物も、物理法則にのっとって生きている。
何もしていないと、形というか、境界線が消失する・・・そんな境界線の消失は、別の言い方をすると、生物の「死」ということになる。何もしないと、死んでしまうので、エネルギーを使いながら、なんとかして「形」を保っている・・・それが、生物における命というもの。
そして、その「形」を次の世代まで維持しようとする。それが「生の本能」、つまり「エロス」。
それに対し、「もう溶けちゃおう!」なんて、自然のままの、境界線を消失した状態に回帰しようとするのが、「死の本能」、つまり「タナトス」。

境界線というか、区切りをどのように捉えるのか?
そんな点から見ると、境界線を維持しようとするよりも、消失させることを志向した場合もあるわけです。それは芸術の分野でも、深層心理学の分野でも、それこそ物理学や生物学でも、あったりする。

・・・と、ダメダメ家庭とは関係のない話が続いていますが、もうちょっと続けましょう。
ロマンティックという感情は、「溶けちゃいたい!」という感情に近いことは、最初に書きました。このロマンティックという言葉は、ローマ帝国のローマと関係があります。
ローマは、本来はギリシャに感性が近く、むしろ、きっちりした形を志向した文化と言えます。
そんな、「きっちりした均衡がある形」を尊重する美意識というか様式を、ロマネスクというでしょ?
このロマネスクという言葉は、まさにローマ風ということで、ローマの美意識に直結しているわけです。

それに対し、明確な形というか境界線を消失しようとする様式を、ゴシックというでしょ?このゴシックという言葉は、ゴート人・・・まあ、ゲルマン民族と言ってもいいでしょう・・・のような蛮族の様式となります。

ゴシックというと、明確な形というか、境界線がない。
それを意識的に取り入れ、追求したのが、スペインの建築家のアントニオ・ガウディです。
彼は、「ゴート風の様式に立ち返ろう!」と、まさにごちゃごちゃした建築を作りました。彼の建築には、明確な形がないでしょ?それだけではなく、明確な終点もない。いつまでも作り続けているんだから、色々な意味で、境界線を拒否している作品といえます。
そして、たぶん、大空に、天国に溶けて行きたい・・・そんな心情があるのでは?

さて、ここで、ダメダメ家庭の問題に入っていきましょう。
ダメダメ家庭の人間は、ある種の「形」を拒否する、別の言い方をすると、境界線を消失しようとする・・・そのようなことは、以前には「統合力」というタイトルでまとめております。
抑圧的なダメダメ家庭の人間は、様々な要素をまとめ上げ統合することができない。
それこそ「一つの案件を、一つの文章」にまとめることすらできない。
むしろ「ふつうになりたい!」と掲げ、まさに周囲の人間に「溶けていこう。」とするもの。

まあ、カテゴリー分類はよくありませんが、今まで書いてきた芸術様式の用語を使うと、ダメダメ家庭の人間は、ロマネスク様式ではなく、むしろゴシック様式なんですね。

芸術様式として明確に意識して、そんな作品を作っているのなら、その人なりの、美意識でしょう。しかし、ダメダメ人間は、なんとなくで、境界線を消失してしまう。
いわば、自己に対する抑圧であり、自己否定の一環として、境界線が消失してしまう。
だから、何かに手をつけても、形として完成させ「最後を締める」ということもせず、いつのまにか別のものに移ってしまう。
人とやり取りをしても、相手から都合が悪いことを言われたら、「後で連絡する。」と相手に言って、結局はトンズラ。
そんな人は、文章を書いても「テンテンテン(・・・)」が多発していて、主語も述語も明確ではなく、「物言いも曖昧」。
そんな人は、自分と他者の間の区別も不明確で、文章自体としても、個人的な「感想がダラダラと書いてある」ことが多い。
別の言い方をすると、『言いたいことはあっても、相手に分かってほしいことがない』。

そんな状態なのに、やり取りをしてしまうから、結局はトラブルになってしまう。
やり取りをする前に、まずは、自分の意図を明確にする必要があるわけですが、まずもって、自分の意図の形がないと言える。
あるいは、自分と他者の区別ができていないので、文章においては主語の省略が多発する。

芸術様式としてのゴシックというか、ロマンティックとなると、「溶けていく」という感覚を表現した、完結した作品となる。
それは、ちょっとした逆説でしょ?
逆に言うと、「溶けちゃいたい!」と、ただ思っているだけでは、それが自分とは別の人間に伝わるものではない。その思いを永遠に伝えるような形にしないとね。
だから、溶けちゃいたい思いを、まとめ上げるという、矛盾に満ちた行為に取り組む必要がある。
それは、心理的に見て矛盾であるがゆえに、心理的なエネルギー消費も大きい。
ロマンティックな芸術家が往々にして早死にするのは、その心理的矛盾を考えれば当然のことなんですね。

もちろん、一般の人は、そんな作品を作るわけではないでしょう。
しかし、一般の人も「溶けちゃいたい」という感情にシンパシーを持つ場合もある。
恋愛状態だって、「あの人に溶けちゃいたい!」くらいに思うこともあるでしょう。
そんな感情を、「溶けちゃいたい」という言葉で明確に自覚できればいいわけですが、そのような明確な形にしないことが、まさに「溶けちゃいたい」という思いなんだから、当人はあまり自覚していない。
しかし、まあ、「あの人に溶けてしまいたい。」という恋愛感情は、エロスとタナトスとの合一のようなものであって、極限の感情ともいえる。まあ、死によって愛が完成するという話に悶絶する人が多いのも、物理法則的に見ても納得できるわけです。

さて、今回の文章の最初の頃に、色々と境界線を提示しておりますが、個体としての人間にとって最大の境界線は、生と死の境界線なのは当然のこと。
境界線を消失する傾向は、まさにタナトスとなり、死に向かいやすい。
逆に言うと、境界線へのセンシビリティを見ると、その人のタナトスの強さも見えてくるわけです。
それこそ、「どの程度まで、他者を心理的に認識しているのか?」とか、
「自分が取り組んだことの、最後をちゃんと締められるのか?」
あるいは、「ちょっとした文章において、明確な区切りがあるか?」
そんな点において、顕著な傾向があったりするもの。

それこそ、文章の区切りと言うと、句読点がありますが、ダメダメな人は、その句読点が苦手なもの。それこそ、句読点がまったくないような文章を、メールで送ったり、掲示板に書き込んだりする。あるいは、主語も省略が多く、述語も不明確。そんな人は、表現スタイルだけではなく、その内容も、他者を心理的に認識していない雰囲気でしょ?

物理法則的に見ても、生きると言うことは、形を維持することであり、そのためには多大なエネルギーを必要とする。
「そんなエネルギーを使ってまでも生きなくてもいいじゃないの?」なんて考えることも、やっぱり物理法則的に見て、自然なことですよ。
ただ、そんな「溶けちゃいたい!」という感情をまとめ上げることができれば、客観的な作品になるわけですし、そんなことができなければ、ガウディの建築が服を着て歩いているような珍妙な姿で、「ワタシはふつうになりたい!」と言い出すことになる。
あるいは、まさにガウディの建築がそのまま文章になったような趣で、未完成で、ぐにゃぐにゃしたスタイルの文章を誰かに送りつけることになる。

境界線の消失という観点でみると、その手の人は、一貫しているわけですし、それが高じれば、それこそ、以前の名称でいうと、分裂病、今の名称でいうと、統合失調症の様相に近くなる。そんな様子は、中から見ると、統合力の欠如ともいえるし、外から見ると、境界線の消失と見える。

境界線の消失であるがゆえに、マトモな判断を持っている状態と、完全に病気の状態との境界線にも意味がない
そもそも抑圧的なダメダメ家庭においては、「ふつうになれ!」との親からの要求があるがゆえに、もともと自分の判断を抑圧し、周囲の人間に溶けてしまうことを要求されている。様々な観点から、境界線がなく、だから、分裂病になりやすい。
そんな環境においては、「どこからが分裂病か?」「どこまでが判断能力があるのか?」などと議論してもしょうがない。
そもそも境界線がない人たちなんですからね。

境界線から解き放たれることは、まさにタナトス的な快感になるわけですが、逆のパターンもあります。境界線を強く意識することで、客観的な作品を作り上げること目指したりする。
それこそ、このメールマガジンでは、ダメダメ家庭の人間は、芸能とか芸術の分野が向いていると頻繁に書いています。
自分の周囲のダメダメ人間の集団に「溶けたくない!」という気持ちを持ち、「アイツらとは違うんだ!」と境界線にこだわったりすることもあるわけです。
当人がマトモで、周囲がマトモなら、逆に言うと、境界線を無理に作る必要はない。
しかし、周囲がダメダメだと、境界線を意識することになる。
それが、まさに作品をまとめ上げることにつながることになる。
だから、ちょっとダメダメな環境だと、おもしろい芸術家が輩出したりするもの。

それこそ、イタリアなどでは、映画など芸術的な分野で巨匠が輩出したりする。
あるいは、このメールマガジンでも取り上げましたが、ロシアなどでも、すばらしい芸術家が輩出する。
日本だと、大阪が、多くの優秀な芸術家を生み出したりしているでしょ?
周囲の人間との違いを、その境界線を、自分で必死に作ろうとする行為が、まさに創作活動というわけです。

その人に潜在的な能力はあっても、周囲のダメダメな人たちに溶け込んでしまうと、芸術作品にはならない。
それこそ、韓国とか中国なんて、そのパターンでしょ?
みなが「一様に」ダメダメに浸りきっている環境だと、周囲に迎合する作品?しか出てこないでしょ?いわば芸能はあっても、「芸術が不在」の状態。

まさに、熱いお湯の中に、冷たい氷を入れて、ぬるま湯になったようなもの。
お湯でも、氷でも使い物になるわけですが、一様なぬるま湯となるとあまり使えない。
まさに、黙示録のヨハネがいう「冷たくも、熱くもない」状態。

しかし、溶けてしまうと、心理的にラクなのは確か。
溶けないように、境界線を維持し続けていると、心理的に疲れ果ててしまう。
そして、やっぱり溶けてしまいたい・・・と思ったりする。
そう思うのはいいとして、それを作品にまとめ上げ、境界線を作る・・・そんな人もいるわけです。
逆に言うと、膨大な作品を作り続けている人は、「アイツらと同じにはなりたくない!」という切羽詰った意識があったりするものなんですね。

(終了)
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発信後記

今回のお題の「区切り」に直結しているといえますが、まさにこのメールマガジンも、もうすぐ終了になるわけです。
今のところでは、あと3週間で終了の予定です。
基本的には文章のドラフトも第2次段階程度までは全部上がっていますので、私としては、その面では、ちょっとノンビリしているところ。

03年9月からの配信で、合計1000本を超えているんだから、いささか感無量ですね。達成感もあり、解放感もあり、充足感もあり、虚脱感もある。
それこそエロスとタナトスの合一の気分。
それなりの達成感はあっても、それが完成したかというと、そういうものではない。
だって、完成なんてありえないものですからね。
だからこそ、鍵を渡すペテロのような人がいてほしいと、ずっと思ってきたのですが、結局は、それはならず。
まあ、何十年後かには、そんな人も出てくるでしょう。
もちろん、今からでも立候補してくれる人がいましたら、こちらとしてはありがたいわけですが。
では、もうしばらくの間、よろしくお願いいたします。
 R.11/1/2