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カテゴリー | ダメダメ家庭はいつも否定形 | |
配信日 | 08年4月2日 (10年5月22日に記述追加) | |
タイトル | 背伸び | |
ダメダメ家庭の人間を考えるにあたって、「似て非なる」点に注意する・・・それが有効であると、このメールマガジンにおいて、よく書いています。たとえば「会話」と「おしゃべり」は違う・・・そんな視点から見てみると、ダメダメ家庭の人間の会話の不全も理解しやすくなる。 やり取りが形の上では成立しているように見えて、言葉が飛び交っているからと言って、そこに相互理解につながる「会話」があるとは言えない。その点に注意しないと、会話の不全も見えてこない。 そして、ダメダメ家庭の人間は、その発想が常に否定形となっている。 自分の目の前にあるものを否定して、「こんなんじゃない!」 そんなことばかり言っている。 「こんなんじゃない。」のはいいとして、「じゃあ、どんなのがいいの?」 なんて聞かれても答えられない。 まあ、こんな流れはいつもの文章ですが・・・ 「こんなんじゃない。」ので、そんな人がやるのが、「背伸び」。 今現在の等身大の自分を否定して、自分の実態以上のものを持とうとすることになる。 それこそ、似合わないブランドものを身に付けたり、 進学のために受験する学校も、あまりに現実離れしていたり、 いかにも「背伸び」した状態。 ここで注意するのは、その手のダメダメ人間がやるのは、「背伸び」であって、「高い達成目標」を掲げることではないことです。見た目には似ていますが、その本質は違っているもの。 それこそ、受験する学校でも、本気でその学校に合格したいと思っているのなら、やっぱり地道な勉強は必要でしょ?そもそも、どうしてその学校に入学したいと思っているの? その分野の勉強をしたいということなら、別の学校でもいいわけでしょ?要は合格して学校に入学してから、勉強しやすいかどうか?ということでしょ? もちろん、ある種の学歴云々の問題はあるでしょう。 評価の高い学校に入学したい、あるいは、させたい・・・と思うこと自体がダメダメであるわけもありませんよ。 しかし、重要なことは、自分の目標を明確にして、自分自身を向上させ、現状を改善していくことでしょ? ダメダメ人間は、自分から逃避している。だから的確な現状認識なんて、できていない。 だから目標そのものについても、周囲に対して、一応は語ったりしても、その目標の当人なりの意味を、人に対して説明できないわけ。 ただ、なんとなくの願望どまり。 そんなことだから、何も達成できず、コンプレックスが高まってしまう。そんな何も達成できない「情けない、ちっぽけな自分」からますます逃避するようになり、ますます「こんなんじゃない!」と言い出す。 「こんなんじゃない!」のはいいとして、やっぱり何も達成できないわけだから、自分には何も実績や中身がない。だから、なおのこと「評価の高い」ものを持ちたがる。自分自身の中身を向上させるよりも、他からの評価が高いものを身に付けることにより、自分の評価を上げようとする。 しかし、中身が伴っていないんだから、周囲の人から「あ〜あ、なんか無理しているなぁ・・・必死に背伸びしているのが・・・ちょっとぉ・・・痛々しいよ・・・」なんてことになってしまう。 それこそブランド物を身に付けていても、そのブランド物だけが「浮いている」人っているでしょ?全体的なコーディネイトが全然出来ていなくてダサダサな状態を、ブランド物で補おうとしているのかもしれませんが、目立つブランド物によって、全体の野暮ったさがますます際立つだけ。 その手の人は、単に審美眼が欠けているというわけではないんですね。むしろ、現状否定の精神の一端と見た方が理解しやすくなる。ちっぽけな自分を否定して、必死で背伸びしているわけです。 しかし、その必死の背伸びで、周囲からの評価が上がるかというと、全然別でしょ? その手の人は、不相応なものを手に入れようとして、アッチコッチに手を出し、ますますミジメになってしまう。 達成目標を掲げ、それを獲得するために努力するのがマトモな人間というもの。 その「達成目標」について、とりあえず現時点では、まだ可能性が薄くても、「自分は、こうありたい!」という発想が基本だから、肯定形の一種といえるでしょう。 それに対し、「自分は、こうじゃない!」と、現状否定から出発し、現実離れしたものを獲得しようと「もがく」だけの人間がダメダメ人間といえます。「こうじゃない」という発想が基本だから、否定形の一種なんですね。 当然のこととして、結婚する際にもブランド志向となってしまう。 「この人と長くやっていけるか?」「困ったときにはフランクに話し合えるか?」そんな発想はまるでなく、立派なブランドの家柄とか、ブランドのある会社に勤めているからとか、ブランドのある学歴だから・・・と言う理由で相手を選定する。そうして、「じゃあ、この人でいいや!これでワタシもブランドをゲットよ!」と、アッサリ結婚。そしてその後は、子供にブランドを付けさせようとする。 しかし、そんな発想なんだからうまくいくわけもなく、「あ〜あ、うまくいかないわ!」と周囲にグチることになる。 そのような人は他者のブランドを気にしたりはしても、あるいは、既存のブランドを身につけようとしても、自分で努力することはしない。だって、この手の発想は自己逃避から来ているわけですからね。 一見似ている「背伸び」と「高い達成目標」との間の違いに、ダメダメを考えるヒントがあったりするものなんですよ。 背伸びというものは、「それをどうやって自分の現実にしていくのか?」そんな思考が全然ない。手っ取り早く、評価の高いものをゲットして安直に立派になろうとするだけ。 しかし、そんな発想だから、ますますダメダメになるわけでしょ? そして、そんな背伸びしている姿を、周囲から指摘されたら? それこそ「もっと現実的な目標を考えなさいよ!」などとアドヴァイスが入ったら? そんなアドヴァイスを受けると、「背伸び」してばかりの人は、逆上したりするものなんですよ。 何回も書いていますが、「背伸び」というのは、その発想の基本として自己逃避であり現実逃避。 自分の身近な問題を認識し対処することからの逃避なんですね。 身近な問題を否定する方法論として、現実離れした高い目標を掲げているだけ。 だから「もっと現実を見据えなさいよ!」という指摘に対しては、「そんな考えは敗北主義だ!」などと逆上することになる。 それこそ、「ボクは京都大学の医学部に進学したいんだ!」という目標を掲げる生徒に対して、「もっと現実に即した受験先にしたら?」などと指摘が入ったら「ボクの目標を否定するのか?!そんなものは敗北主義じゃないか!」「人間は誰だってやればできるはずだ!」「どうして、ボクの可能性を否定するんだ?!」と逆上することになってしまう。 たしかに、その反論の言葉としてはスジが通っている。だから、その反論に対しては、一言も言えない。だから、現実離れした高い目標を言っておけば、その言葉自体は通ってしまうことになる。逆に言うと、その目標が立派であればあるほど、人に対して説明する必要はない。説明する必要がないがゆえに、当人にしてみれば、実感なり切実さがますますなくなってしまう。 つまり、現実逃避ができてしまう。 それこそ歴史的に見ても、そのような現実離れした高い目標を掲げることで、現実から逃避する事例は多いでしょ? 大東亜共栄圏とかの高い目標を掲げ、「アメリカをやっつけるんだ!日本のような国でもアメリカに勝つぞ!」との掛け声はいいとして、常識的に見て、日本とアメリカが戦争すれば結果は見えているもの。しかし、そのような現実的な指摘は「それは敗北主義だ!」と言下に否定してしまう。 あるいは、スポーツの分野でも、「サッカーのワールドカップでベストフォーを目標にするんだ!」という高い目標を掲げれば、その言葉自体は、反論を受けずに通ってしまう。 反論されたら、「それは敗北主義だ!」「負け犬根性だ!」と言い放てばいいだけ。 しかし、現実離れした目標であるがゆえに、現実的には何も改善されない。ただ「こうなればいいなぁ・・・」と夢見ているだけ。 あるいは、直接的にダメダメ家庭に関係する事案となると、「ドメスティック・ヴァイオレンスを根絶しよう!」などと高い目標を掲げる人もいますよね? そんな立派な目標に対し「とにもかくにも、身近なドメスティック・ヴァイオレンスの事案をしっかり検討し、対処することが先なのでは?」などと指摘が入ると、やっぱり逆上。 「ワタシたちの高邁な目標を否定するのか?!ケシカラン!」 あるいは、もっとシリアスな状況もあるでしょう。 それこそ事故によって片脚を失った人がいたとしましょうか。その人が、「ボクは健常者向けのマラソン大会で世界一になりたい!」と言い出すパターンが、まさに背伸びした目標のパターンといえます。そんな目標は、「自分が片脚を失ってしまっている。」という現実から逃避するためのものなんですね。それに対し、「パラリンピックの大会に出場して優勝するぞ!」だったら、高い達成目標と言えるでしょ? 達成目標とは現実に根ざしているからのもの。 自分のマイナス面なりハンディキャップについて考えることから逃避するために、はるかかなたの立派な目標を掲げてしまう・・・ そんなパターンは、アチコチで見られるものでしょ? 現実逃避や自己逃避の人間は、その人自身にとって身近な現実に直面する必要になった場合には、まさにパニック状態になってしまう。 それこそ、トルストイ描く「アンナ・カレーニナ」のように、「そんなものをワタシにみせないで!」と逆上してしまう。 単なる現実逃避だと、周囲から指摘が入ったりして、その指摘に対処するのが面倒となる。 ということで、現実離れした高い目標を掲げることで、現実を直視することから逃避するわけです。 それは、自分の目標を達成するための方法論ではなく、自分の直前の現実から逃避するための方法論なんですね。 背伸びした立派な目標が、現実からの防波堤になってしまう。そして安心して現実逃避してしまう。 ちなみに・・・ 前にも書いていますが、この手の背伸びは、いわば自己逃避の産物といえます。 自分自身を直視することから逃避しているので、自分自身にフィットした目標を掲げることから逃避している。自分にとって、切実な目標ではないんだから、ブランドの価値だけが重要になってしまいますよ。 自己逃避は、自己の価値を自分で見いだしていない状態といえますから、自己否定に近い。そして、自己否定が、より深刻になると自己破壊となる。 その自己破壊の結果が、まさに自殺となるのは誰でもわかること。 しかし、自己破壊の衝動を持っていても、自己逃避でもあるんだから、その破壊対象の「自分自身」を素通りすることもある。ということで、他者を破壊することになる。 そう考えると、岡山駅の突き落とし事件も、実に理解しやすいでしょ? 自己逃避が、他者への破壊衝動に結びつく例だと、それこそ田中真紀子さんも、その典型ですよね? まあ、無理な背伸びをしている姿を外から見て、笑っているうちはともかく、ヘタをすれば、そんな人による破壊衝動の対象されてしまう可能性も出てきてしまう。無理な背伸びも、破壊衝動も、自己逃避という共通の土壌の元から、スクスクと伸びているだけなんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 このメールマガジンの配信用の文章のストックは200本以上あります。 ホントは早く終わらせたいんですけど、皆さんが色々とやらかしてくれるので、ネタが増える一方。 配信する際に考えるのは、どの順番で、どの時点で配信するのか?という点です。 それこそ事件があると、その事件に関係したお題を配信すると、実例が直近で起こったわけですから、読んでいて実感につながりやすい。 あるいは、書いている私のその時の一番の問題意識が反映されて、その時に配信となる・・・そんなパターンもあります。 あるいは、「この時点で、この文章を配信したいから、その前段階として、事前に関連するお題を配信しておく。」・・・そんな遡及的な発想をする時もあります。 また、購読者さんから質問なり相談があったりすると、「そのパターンのダメダメは、もう文章にまとめてあるから、そのうちに配信します。だからそっちを参考にしてね!」とやるパターンもあります。既に配信しているタイプのダメダメだと、バックナンバーを示せば済む話ですが、まだ配信していないタイプのものだと、「せっかくだから次回に配信するかぁ・・・そうすれば、こっちも2度手間がなくラクチンだし・・・」と、ズボラを決め込むわけ。 このパターンのバリエーションとしては、補足説明を、メールマガジンの文章で代用するなんてケースもあります。 個別の心理は、個人宛のメールに書いて、より一般化した説明をメールマガジンの文章で代用するわけ・・・我ながら、ナマケモノ。 今回の「背伸び」の文章は、例の岡山駅の事件に対応しているのはスグにわかるでしょうが、購読者さんからの質問に対する補足説明も兼ねています。いやぁ・・・ホントにナマケモノ。 逆に言うと、身近なトラブルメーカーさんの心理も、岡山駅のセンセーショナルな事件の犯人の心理も、単なる程度問題であるわけ。背伸びは自己逃避の現象化であって、その手の人は、自分自身について考えないので、うまくいかないことは全部人のせいにしてしまうもの。だから危険人物なんですよ。笑って見ているどころではないわけ。 ダメダメというものは、その基本を押さえておくと、だいたいのことが理解できるものなんですよ。このメールマガジンだって、あのような事件を起こさない、そして関わらないようにするための視点を提示するのが目的なんです。 |
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この「背伸び」と似た内容となると「09年12月25日配信の 超肯定による否定」という文章があります。 | ||
R.11/1/16 |