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カテゴリー 文芸作品に描かれたダメダメ家庭
配信日 08年6月23日 (11年2月14日 記述を追加)
タイトル 金閣寺(1956年作品)
作者 三島由紀夫
前回配信のメールマガジンにおいて「約束の地・スパイラル」について考えてみました。
抑圧状況にある人間は、「あの○○に行ったら、すべて解決。」と、現実離れした理想郷を夢見るようになることが多い。そうやって、現状認識から逃避してしまう。
何回も書いていますが「約束の地」というものは、具現化された自己逃避といえるもの。
自分の夢を現実化したというのではなく、夢と現実が逆転した状態なんですね。

しかし、そんな「約束の地」しか救済の方法が浮かばないがゆえに、それに反するような視点なり考え方を拒否し、抑圧するようになってしまう。つまり、現実逃避的になってしまう。
だからこそ、そんな閉塞状況からの脱却の可能性がより低くなり、ますます抑圧が深刻になる。
「約束の地」という考えによって、抑圧状況がスパイラル的に進行してしまうわけです。

結局は、その抑圧状況が極限まで進行してしまい、ニッチもサッチも行かない状態になってしまい、「あの○○を破壊するのか?」それとも「オレ自身を破壊するのか?」そんな事態になってしまう。現実的には、「約束の地」と自分自身の両方を破壊する・・・そんな事件になってしまう。

さて、その典型と言える、先日(08年)起こった「秋葉原の通り魔事件」ですが、その事件については、以前より触れたりしております。そんな事件に関した文章を書いていたり、考えていたりすると、私のアタマの中でバックグラウンドで勝手に検索を掛けたりしています。記憶の中を、無意識的に検索してくれるんですね。我ながら、なかなか便利なアタマだ!

そうやって、いつのまにか検索を掛けていると、ピンっ!ヒットしたりします。
「おお!これと同じじゃん!!」

と言うことで、今回は三島由紀夫氏の作品である「金閣寺」を取り上げましょう。1956年の小説です。
この小説は、まさに「約束の地・スパイラル」を描いているわけですので、秋葉原の事件を理解するのにも、非常に役に立ちます。

と言うことで、この「金閣寺」という小説から、秋葉原の事件なり、「約束の地・スパイラル」に直結するような表現を取り出してみましょう。
ちなみに、この「金閣寺」という小説のあらすじについては、ご存知の方も多いでしょうが念のため。

実際にあった1950年の金閣寺炎上事件を題材にして、火をつけた僧の心理を綴った作品です。ちなみにその僧は吃音(いわゆる「どもり」)の方です。事件当時はそのお寺の修行僧で大学の学生でした。金閣寺炎上という事件そのものは事実ですが、この作品で描かれた心理は、作者である三島由紀夫の思考が反映している・・・そう見ていいでしょう。まあ、こんなに的確に「思考」し「表現」できないがゆえに、「火をつける」という表現方法を取らざるを得なかったわけですから、こんなに見事に文章化された思考・・・それ自体が、犯人の思考とは異質となってしまうのは、しょうがない。

さて、金閣寺炎上事件を扱ったこの作品では、当然のこととして「金閣」という言葉が頻発しています。
しかし、今回のメールマガジンで考えるのは、金閣炎上事件ではなく、「約束の地・スパイラル」の精神ですので、小説中で現れる「金閣」という文字を「○○」という伏字にしてみましょう。

では、以下で、小説中に現れるダメダメ家庭に関連したセンテンスをちょっと抜き出してみましょう。

1. 約束の地に関連して
1-1. 私には、○○そのものも、時代の海を渡ってきた美しい船のように思われた
1-2. 外界というものとあまりに無縁に暮らしてきたために、ひとたび外界に飛び込めば、すべて容易になり、可能になるような幻想があった。
1-3. ○○そのものが、丹念に構築され造型された虚無に他ならなかった。
1-4. ○○の不滅の美しさから、かえって滅びの可能性が漂ってきた。
1-5. ○○が焼けたら、こいつらの世界は変貌し、生活の金科玉条はくつがえされる
1-6. いつかきっとオマエを支配してやる!二度と私の邪魔をしに来ないように、いつかオマエを我が物にしてやるぞ!

・・・と、まあ!まさにお約束の「約束の地」状態。
「○○を得れば、問題は、すべて解決!」なんて、妄想に浸っている状態となっている。そんな妄想の中にいるから、現状認識も拒否してしまう。だからますます事態が悪くなるばかり。

では、その金閣寺に放火した犯人の僧は、自分自身をどう認識しているの?
次には、それを抜き出してみましょう。

2. 自己認識に関連して
2-1.人に理解されないということが唯一のほこりとなっていた。
2-2.何かをやり遂げようとする気持ちがまるでなかった。
2-3.自分の少年時代、まるきり人間的関心とも言うべきものが欠けていた。
2-4.私の体験には積み重ねというものがなかった
2-5.私の感情にも吃音があった。
2-6.行動が必要なときは、いつも私は言葉に気を取られている。
2-7.私の少年期は薄明の色に混濁していた。真暗な影の世界はおそろしかったが、白昼のようなくっきりした生も、私のものではなかった。
2-8.自分のまわりのものすべてから逃げ出したい。自分のまわりのものがぷんぷん匂わしている無力の匂いから。

さて、そんな人間は、当然のこととして周囲に対して疎外感を味わう。疎外感を味わうと、報復を考えることになる。
次には、そんな「疎外と報復」に関わるセンテンスを抜き出してみましょう。

3. 疎外と報復に関連して
3-1.日頃私を蔑む教師や学友を、片っ端から処刑するという空想を楽しんだ。
3-2.孤独はどんどんと太った、まるで豚のように。
3-3.私は自分の顔を、世界から拒まれた顔だと思っている。
3-4.私を焼き滅ぼす火は、○○をも焼き滅ぼすだろうという私の考えは、私をほとんど酔わせたのである。
3-5.私という存在は、美から疎外されたものだ。
3-6.他人が滅びなければならぬ。私が本当に太陽に顔を向けられるためには、世界が滅びなければならぬ。

なんとも、まあ!例の秋葉原の事件の報道で登場してきたようなセリフがてんこ盛りでしょ?上記の○○という伏字を「秋葉原」とすると、今回の事件の犯人の発想が、その犯人の言葉以上に的確に表現されることになりますよね?

作者の三島由紀夫は、ダメダメ家庭的な「約束の地」と言うよりも、美と抑圧の問題の一環として金閣寺を捉えているようです。極限の美が、美の理想形であるがゆえに、新たな創作への試行錯誤を阻害し、創造への抑圧に転化する・・・その抑圧機構を破壊しなければ、次に進めない・・・いわば、芸術家としての問題意識が反映されているんですね。
理想が極限のものであるがゆえに、制約の多い現実世界との関わりに支障をきたすようになってしまうことになる。

ちなみに、上記では小説中に書かれているセンテンスを抜き出してみましたが、作品中で直接には書かれていないこととなると、敬意がないことがあります。当事者意識がなく、自分で何かやるという発想がないので、他者の業績に対する敬意がなくなってしまう。「自分だとこれくらいにしか出来ないけど、この人はこんなことまでできてしまうのか?!スゴイなぁ・・・」なんて素朴な敬意もない。敬意がないから、他者をくさすことしかできない。その極端な例が金閣寺への放火となってしまう。

金閣を炎上させるよりも、自分でやりたいことを見つけて、それの実現のために炎のように燃え上がった方がましですよ。ただ、この「金閣寺」という作品では、そのようなチャレンジを阻む精神的抑圧の象徴として「金閣寺」が描かれているわけです。本来なら、その抑圧がニッチもサッチも行かなくなる前に自分自身を見つめ対処すればいいわけですが、逆に言うと「約束の地」という発想によって、現状を認識し、試行錯誤することから逃避する大義名分となってしまってしまう。だから抑圧も悪化する一方。
だから、『芸術創作的には』、金閣寺への放火も、それなりに意味がある。

金閣寺への放火なり、秋葉原での狼藉のような極端な例はともかく、究極の理想を掲げるがゆえに、それが現実世界においては抑圧に転じるという事態は、結構ポピュラーでしょ?
それこそ、フィクションだと、以前に取り上げたオペラ「蝶々夫人」もその典型です。「夫は帰ってくるわ!」「帰って来たら、今の状態も一気に解決するんだ!」と「約束の地」を掲げ、現状認識から逃避して、結局は、自害に至る。

例の秋葉原の事件で、インターネットの影響云々なんてことを愚鈍な人が言ったりしているようですが、インターネットのない時代でも、同じような心理があるわけです。
洞察力のある人には、その心理が見えるわけです。

血が流れる前こそが、真の悲劇なんですね。
まさに、この作品中に書かれている「鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。が、血が流れたときは、悲劇は終わってしまったあとなのである。」そのもの。
秋葉原の犯人だって、金閣寺の放火犯だって、事を起こすまでが、まさにドラマになるわけです。

この点は、芸術家もまったく同じ。芸術家というものは、ある意味において「生そのものが悲劇」のケースがあったりするもの。血が流れたときは、まさに、悲劇は終わってしまっている。メールマガジンの文章を書く際にも、書き出す前の状態が一番タイヘンなんですよ。少なくとも、この私は・・・
三島さんはどうだったのかな?

とは言え、一仕事が終わったら、まさにこの小説の最後にあるように、「私は煙草を喫んだ。一仕事終えて一服している人がよくそう思うように、生きよう私は思った。」と思えればいいのでしょうが、三島さんはことが終わった後で、煙草は吸えなかったでしょうし、まあ、生きようとは思えなかったでしょうね。
特殊な能力や使命を持った芸術家はさておき、一般人は、そのように極限まで行き詰る前に、現状を的確に認識して、アクションを起こさないとね。

ちなみに、この「金閣寺」の作者である三島由紀夫は、昭和のクーデターとして名高い「二・二六事件」に関わる作品も残しております。
その「二・二六事件」も、「こうなれば、すべて解決だ!」「醜い現実は見たくない!」「悪いのは全部アイツのせいだ!」「だから、アイツをやっつけてやるんだ!」という心理がアタマ入っていると、実に見通しが良くなるでしょ?
今回の文章で抜き出したセンテンスの多くが、「二・二六事件」での記述にも使えるでしょ?

クーデターを起こした青年将校が求めたのは、具体的な国家統治のイメージではなく、むしろ、自分たちを現実の桎梏から解放してくれる王道楽土というか、「約束の地」だったわけです。
「約束の地」は本質的には自己逃避や現実逃避に根ざしているがゆえに、「託す」対象は、「現実感がなく」「完璧で」「汚れがない」存在である必要がある。
そのような意味において、「天皇」という「機関」は、その要求に対して、実にフィットした存在と言えるでしょう。
事件の青年将校が持つ天皇への思いは、ティーンエイジャーがアイドルタレントに対して持つ理想化と近い様相と言えるでしょ?

「約束の地」は自己逃避とつながっていて、自己否定に近い。
その否定的な精神は、自分だけでなく、自分以外の人間にも向けられる。
だから、「約束の地」を追及すると、必ず血が流れることになる。
乳と蜜が流れるというよりも、血が流れてしまうのが、まさにお約束の血というもの。

そうなんでしょ?三島さん?

(終了)
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発信後記

「約束の地」の発想は、「○○になったら、すべて解決!」という発想であって、その○○が、秋葉原などの地理的なものになるケースもありますが、女性の場合は、その○○が、「母親」となるケースが多くあります。「子供を持って、自分が母親になったら、すべて解決!」なんて思ってしまうわけ。このことは、以前より頻繁に触れております。

なんでも、アメリカの高校の女子学生が集団で妊娠したそうですが・・・
その発想は典型的に、この「約束の地」ですね。
そのニュースは、ヤフーのトップページに長い間載っていましたから、ご覧になった方も多いでしょうが、その記事をお読みになった購読者さんは、このメールマガジンの記述を思い出したでしょ?
「まったく・・・あの文章で書いてあるとおりだ!」
なんて思ったかも?

事件が起こってから、大騒ぎするのではなく、その事件に至る前の心理を考察する・・・
そんな姿勢があると、多くの事件に共通する心理を認識することができるわけですし、それに対する対策も取ることができるでしょ?
起こってから大騒ぎするような人間は、まさにその大騒ぎゆえに、自らの愚鈍さを証明しているようなもの。

なんでも、某新聞が、死刑の執行を遂行した大臣を「死に神」と表現したとか・・・

本来は、死刑の執行以上に、そのような判決に至る事件そのものが問題であるわけだし、当然のこととして、そのような事件に至る心理が重要でしょ?

死刑云々よりも、そのような事件をどうやって防止するのか?
そんな問題意識がなければ、愚鈍そのものですよ。まさに、「血が流れたときは、悲劇は終わってしまっている。」もの。

現在、まさにカタストロフに向けて進行している悲劇を認識すること。
しかし、その悲劇は、現在進行中で、そして我々の眼前で起こっているがゆえに、多くの人には見えない。しかし、現在進行中であれば、本来は何らかの対処を取ることが可能でしょ?

犯罪が起きなければ、死刑も必要ない。そして、犯罪に至るまで「行き詰っている」人は、現在もアチコチにいるわけ。その人たちをどのようにサポートするのか?あるいは、その人たちによる犯罪に巻き込まれないためには、どんな点に注意すればいいのか?

このメールマガジンは、厳しいことを書いていますが、そんな問題意識を元に書いています。逆に言うと、購読者に対して、その問題意識を要求することになります。だから愚鈍な人は読んでもわからないでしょうし、だからこそ、読まなくても結構です。
読むに当たって、学歴や特別な教養は要求していませんが、問題意識は要求しているんですよ。
R.11/2/14