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カテゴリー ダメダメ家庭と「いい人」
配信日 09年9月25日 (10年5月28日 記述を大幅に追加)
タイトル 角を矯めようとして、牛を殺す
このメールマガジンでは、たびたび「ダメダメからの脱却」なる文言を使ったりしております。言葉というものは誤解がないように厳密に使わないといけない。しかし、厳密すぎても、そこまで意識していない人にしてみれば、鬱陶しいし、意味がわからない。
それこそ、色の違いにおいて、青色と緑色の違いにこだわるくらいならともかく、紺色とディープブルーの違いにこだわられても、部外者には意味不明ですよ。

文章には流れのようなものもありますし、詳細を説明するのは別の機会でもいい・・・そんなものでしょ?
最初は大まかな理解を得ていただくことが重要であって、最初から詳細に説明すると、全体像がわからずに、読んでいてチンプンカンプンになってしまう。
もちろん、読んでいる方の前提となっている知識なり問題意識には差がありますから、最初の大まかな説明が必要でない人もいますし、逆にその程度だと不十分な人もいる。

さて、最初に取り上げた「ダメダメからの脱却」なる文言ですが、この文言はかなりアバウトな、大まかな意味で使っています。ということで、今回の文章では、その面について、より詳細に記述してみたいと思っています。たまに「どうしたら、ダメダメから脱却できるでしょうか?」なる質問があったりしますので、ここで、より詳細に書いておいた方がいいでしょう。

このメールマガジンでたびたび使っております、その「ダメダメからの脱却」ですが、じゃあ、どんな意味なの?
あまりに簡単に言ってしまうと、ダメダメ家庭で培ったダメダメな発想なり行動を取り除き、マトモな人間になること・・・という意味で使っている・・・と思われている方も多いでしょう。

しかし、この文章を書いている私としては、そのような意識はないんですよ。
そもそも人間の発想なんて、時代が経っても、年齢を経ても変わらない・・・個人レヴェルでも、あるいは人類という集団においても・・・そんなことは、実に頻繁に書いています。
何世紀も前に書かれた文芸作品で描かれた人物なんて、21世紀の我々が現在見ている人物と、やっていることはほとんど同じ。それだけ「変わらない」わけ。だから、脱却なんて、簡単にできるわけがないだろう?
それが、私の基本的なスタンスなんですよ。
私としては、自分自身との距離感の問題を提起しているだけです。

「ダメダメな要素を持っている自分とどのように付き合っていくか?」
それが重要でしょ?
そのためには、まずは自分自身を知ることが最初でしょ?

しかし、ダメダメ家庭の人間は、抑圧的で自己逃避。
だから自分自身を見ようとしない。
抑圧的だから達成したいものがない。だから発想が減点法
減点がない、「いい子」でいようとするわけ。

もし、その減点なり欠点が見つかったら、それを除去しようと必死になってしまう。
だからこそ、自分自身にダメダメの要素があれば、そのことばかりを考えてしまう。

まあ、努力の結果として、欠点がなくなれば結構なことですよ。
しかし、減点法的に欠点がないからといって、じゃあ、加点法的には何をしたの?
そんな話になるでしょ?

ダメダメ家庭の人間は、減点法であり、減点部分に対して反応する。
だから、その発想も行動も、単純な肯定形ではなく、「二重否定」のスタイルになってしまう。それこそ「欠点をなくす」そんな発想に向かうわけ。

ああ!ワタシは人を恨んでばかり!こんな人生やイヤだ!なんとかしないと!
恨みの精神から脱却しないと!

そのような発想そのものは結構なこととは言えますが、人を恨まない「いい子」であることがそんなに必要なことなの?その「人を恨まない」いい子が、じゃあ、何をしているの?何を達成したの?人を恨まないように、何もせずに、ボケーとしているだけなの?

減点が何もなくて、加点も何もない・・・って、絵に描いたようなボンヤリ状態。まさに「悪くはない」という二重否定人間。

抑圧的な人は、達成したいものがないので、尊敬している人もいないわけ。
だからこそ、「反面教師」なる用語を掲げ、「ワタシが軽蔑しているあの○○と、同じ行動をしないようにしよう!」と二重否定的なモットーを掲げることはあっても、「ワタシは△△さんを尊敬しています!いつも参考にしています。」という肯定形とは行かないわけ。

尊敬している人がいれば、その尊敬している人の行動をまねればいいだけ。
ラクチンですよ。
その尊敬している人について、自分で調べてみれば、その尊敬の対象の人も、結構ダメダメだったりするもの。

それこそ、ルネッサンス期の芸術家のミケランジェロなんて、絵描きもビックリなほどに絵に描いたようなダメダメ人間。対抗心が強く、周囲とケンカばかりしているし、会話の能力も欠如している。このメールマガジンで記述しているダメダメ家庭の要素を豊富に持っている。そして、そのダメダメから脱却したどころか、死ぬまでダメダメまっしぐら。
彼自身が死ぬまでダメダメだったんだから、ミケランジェロの作品はダメダメなんだ・・・とはならないでしょ?同じようなことは、音楽だったらベートーヴェンも同じ。彼も壮大なスケールのダメダメ人間。ダメダメな要素がシンフォニックに鳴り響いている。

美術の分野だったら、それこそ画家のゴッホなんて、過剰なボランティアや、人への入れ込みなど、重症のダメダメ。にもかかわらず、彼が達成したものは、価値があるでしょ?
もちろん、それが当人にとって幸福だったかというと、また別問題でしょう。しかし、彼らが自分自身のダメダメの修正ばかりをやっていたら、作品は残らなかったでしょうし、どのみち、幸福でもなかったでしょう。経済的には少しは余裕もできて長生きもできたかもしれませんが、自分自身の減点部分ばかりを意識しているような人は、人からその点を突っ込まれると、スグに逆上するもの。そんな逆上予備軍が心の底から幸福とはいきませんよ。むしろ、何か一つの作品を仕上げた充実感の方が、その手の人にしてみれば、より現実的な喜びなんですね。

重要なことは、自分のダメダメとの付き合い方なり距離の取り方というわけ。
それこそ、血液検査をして、エイズ陽性だったら、そのように付き合っていくしかない。継続的に治療も必要でしょうし、行動も制限されるでしょう。
無理に「ふつう」になろうとしても無理だし、重要なことは「何を達成したのか?」でしょ?
何もエイズを治療するために、その人の一生があるわけではないでしょ?「残された一生の間に何をどれだけやったのか?」そういう話でしょ?

ダメダメ人間は、まさに「反面教師」という二重否定は語れても、「尊敬している人」という肯定形では語れない。せめてその尊敬の対象者が、自分のダメダメとどのように付き合っていったのか?そんなことを参考にすればいいだけなのに、そんなこともせず、「ああ!自分のダメダメからどうやって脱却していけばいいのか?」と嘆くだけ。

そんな嘆きは、結局のところ、自分自身の抑圧がまだ自覚できていないことの証明のようなもの。
だって、「で、結局は、どうしたいのか?」という問いに対して、何も答えられないままなんですからね。
そんな人は減点法の精神は強固に残ったままなので、結局は、自分はそのダメダメを見ないという対処を取るようになる。ダメダメからの脱却どころか、ダメダメを見ることからの逃避行動を、ダメダメからの脱却と言い換えてしまうわけ。

まさに「オレは酔っていないぞ!」と居酒屋さんで叫ぶ酔っぱらいのようなもの。
そして、その点を突っ込まれると「なんだとぉ〜、オレが酔っているとでも言うのか?!」と逆ギレするだけ。その境地に到達するために、何かあったらスグにお酒や仕事に逃げてしまう。スグに逆上することで、それ以上、相手の話を聞くことから逃避し、自分で認識し考えることから逃避するわけ。あるいは、「どうしてそんなことを言うの?ワタシがこうなったのは反面教師としている、あの○○のせいなのに・・・」と言い訳を始める。

以前に様々な心理的ベースについての文章を集中的に配信いたしました。
物事の認識や発想や行動の基本的な枠組みは、新生児の頃の養育者の反応によって決定付けられる・・・そんな内容の文章でした。
その折りにふれましたが、心理学者のボウルビィが言うように、その基本的な枠組みは、可塑性が低いわけ。

無理にその枠組み全体を修正しようとしても心理学的に無理だし、結局は、自分自身を騙すという対処を取って、自分を納得させるようになるだけ。「ワタシはマトモになった!」と自分を騙して突っ走ってしまう。以前に書いた「臨界点突破」状態。

減点法のダメダメ人間は、その減点をなくそうとして、角を矯めて牛を殺すことになってしまう。ゴッホにせよ、ミケランジェロにせよ、モーツァルトにせよ・・・何かを達成するために、あるいは、自分の使命を果たそうとして、周囲の人とやり取りしたわけで、自分の減点をなくそうとしたわけではないでしょ?逆に言うと、目標を達成するためのアクションが、当事者意識につながり、当人が持っているダメダメと付き合う手段を提供しているのでは?

憎しみやねたみなどのダメダメな精神から脱却しようと努力している段階で、ダメダメのドグマに陥っているわけ。負の感情に向き合うよりも、そんな感情を自覚した上で、達成したい目標を掲げたり、尊敬する人を見つけたり、その人について考えたりする・・・そんな単純な肯定のスタイルにしていく・・・それしかないのでは?

たまに、私の元に「どうやったらダメダメから脱却できるでしょうか?」などと質問が来たりしますが、私としては、「そんなことばかり考えていると、何も達成できないでしょ?」
と言うしかありませんよ。

ヘンな話になりますが、人を憎んだり、嫌ったりしてもいいわけ。
むしろ、抑圧的なダメダメ人間というものは、そんな嫌悪や憎悪の感情すらいい加減なんですよ。
全身全霊をかけて、人を嫌うということはない。ただ「あの○○のせいで・・・」という犯人認定のネタにしているだけ。そして「だからワタシはかわいそうな被害者なんだ・・・」と言い訳のネタにしているだけ。
インターネットの掲示板に書き込んだり、逆上メールを出したり、いたずら電話をかけたり・・・そんな程度で終わってしまう。

怒っていること、怒りをぶつけていることが問題というよりも、逆上メールで満足するくらいの怒りなのが問題。もっと全身全霊をかけて怒ればいいだけ。そんな程度の怒りは、むしろ、自分を騙すための怒りでしょ?
「自分はこの文章で書かれているのと違うんだ!」そのように自分に対して言い聞かせたいだけ。だから逆上メールどまりで終わってしまう。そんな逆上メールは心理的には自分に対して発信しているんだから、文章もいい加減。相手に対して納得してほしいことがあるのなら、別の言い方をすると、自分の見解に合意してほしいのなら、もっとちゃんとした文章にまとめないとね。あるいは、本当に憎いのなら、嫌いだったら、その「気持ち」を、客観的なレヴェルまで表現してみたら?あるいは、それが永遠に残るようなレヴェルにまでまとめてみたら?そんな表現ができるようになったら、それこそダメダメとの付き合い方も一歩前進と言えるのでは?

自分のダメダメを改善しようと必死になるのもいいのですが、そんな必死さは、逆に言うと、ダメダメとの距離の近さということ。ダメダメの自覚は、ダメダメから距離をとるために必要になるわけ。改善しようと必死になるのも、自分のダメダメを見ることから逃避して、結果的にダメダメのままなのも、ダメダメとの距離が近いままといえるでしょ?

達成したいものを掲げ、そのために参考となる人物について自分で調べ、周囲の人に協力を仰ぐ・・・そのようなことをした方が建設的だし、そのような行為をすることが、まさにダメダメからの脱却・・・に繋がるのでは?
ダメダメがない「いい子」を目指している内は、ダメダメが深まるばかりなんですよ。

ダメダメ家庭出身者は、「角を矯めて牛を殺す。」ように、「薔薇を見ていても、棘ばかりを気にして、花びらを見ない。」パターンも多いもの。
減点面ばかりに注視して、加点法的に見ないわけ。
本当は、ダメダメ家庭の人も、それなりに美質もあったりするわけですが、減点法なのでマイナス面ばかりを注視してしまう。だから、とりえが何もなく、そして、除去しきれなかったマイナスによって、結局は、いても、ただ、ジャマな人間になるだけ。

そもそも、ダメダメ家庭の人間は薔薇のようなもの。
生活には、何も役に立たないし、棘もある。
お米や麦のように、日々において必要というわけでもないし、命を維持するに当たって重要というわけではない。
それに、薔薇の枝を、米や麦と一緒に混ぜてしまうと、扱いがもっと厄介。
お米を取ろうとして、混ざっていた薔薇の枝の棘で、傷をしてしまうだけ。

薔薇として産まれたものは、自らの棘を除去しようと悪戦苦闘するよりも、その花弁をきれいにする方がいい。
そして、離れた場所から、見てもらったり、あるいは、その都度、慎重に扱ってもらって楽しんでもらえばいい。

「いのち」のためには、何も役に立たない・・・それが薔薇。
むしろ、その棘のために、「いのち」を失うケースがあるくらい。

しかし、「死」が確定してしまうような状況になったら、米や麦などよりも、薔薇の方がいいでしょ?
薔薇の花弁の美しさ、そして棘の痛み・・・死を迎える前には、そんな実感こそが、意味があるものですよ。

あるいは、ダメダメ家庭の人間は、「いのち」のためには役に立たなくても、とげとげしい話題には強いもの。
それこそ、ドメスティック・ヴァイオレンスとか、ストーカーとか、クレーマーとかの話題は、棘を理解できる薔薇系の人間でないと対処できないもの。

米と薔薇は、それぞれに住処があり、その場所は違っているわけです。
薔薇の分際で、米や麦と一緒になろうとして、必死で棘を抜いたのはいいとして、その花の美しさまでなくなってしまう。あるいは、抜き忘れとか、どうしても抜けない棘がやっぱり周囲に悪さとなってしまう。そうやって、結局はその薔薇は捨てられてしまうことに。
米と薔薇を一緒にして、どんな料理になるの?何に使うの?

それよりも、棘を持ちながらも、花瓶に挿さった形で使われた方が食卓には意味があるでしょ?
棘を含めてこその薔薇なのであって、それは何も純粋な矛盾というものではありませんよ。

(終了)
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発信後記

今回のお題は、明日の文章に関係した内容になっております。
「どうやったらダメダメから脱却できるでしょうか?」という実際の質問の文章を取り上げ、その質問の文章から色々と考えた文章です。
順番が逆になっていますが、その質問への回答が、本日の文章というわけ。
R.10/8/25