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カテゴリー | ダメダメ家庭が持っていない発想 |
配信日 | 09年3月16日 (10年10月31日 記述を追加) |
タイトル | ハンディキャップ |
交通信号の3つの色は何色? そんな質問があったら、どのように答えますか? まあ、「赤、青、黄色」そんな回答が一般的。 ただ、ご存知のように、この中で「青色」は、微妙。だって実際の信号機では、現実的には青色ではなく緑色と言った方が近いでしょ? 「信号が青になったら、進みなさい。」と言われても、「信号機で表示された色は青色じゃなく緑色じゃないか?だからワタシは止まったままだったんだ!」そんな主張もありえますよね? 信号機において、実際には緑色なのに、青色という言い方で通ってしまっているのには、青色が「前進」という意味であるということも現実の理由としてあるでしょう。青が「止まれ」という合図だったら、信号を無視して捕まった後で、「緑色だから、青色じゃないから、進んだんだ!」と反論する人も絶対にいたでしょうね。 このように青色が「進む」という合図だから、実際には緑色に近い色であっても、青色という表記を使うことも、まあ、混乱は少ない。 またそれ以外の大きな理由があります。 信号機の色は、3つしかない・・・それが共通認識になっているから、青色も緑色も一緒とみなせるわけ。信号機の色が12色あるという世界だったら、青色と緑色は、明確に区別する必要があるでしょ? 色が全部で3色だと、緑色も青色の一種となり、全部で12色だと、緑色と青色は別々の色とみなすことになる。 ・・・そんなものですよね? 何も、ここで信号機の色の問題を議論するつもりはありませんヨ。 その人の持っているパレットというか、区分・・・それによって、「違い」が認識されたりされなかったりするわけ。 信号機では、青色も緑色も区別する必要がない。 信号においては、青色と緑色の2つの色の間にある色のグラディエーションなんて、考えるだけ無意味。ただ、赤色と黄色のグラディエーションは重要になります。その違いは明確に区別する必要がある。 信号機では3つの色が識別できればいいだけですが、それが見分けられない、いわゆるハンディキャップのある人も存在します。視覚障害者の方とか、あるいは色を見分けられない方もいらっしゃいますよね? 何もハンディキャップのある方をダメダメだと申し上げるつもりはありませんよ。 ダメダメな人は、ハンディキャップという概念を理解できない・・・そのことに注目していただければ・・・そのように思っているんです。 ダメダメ家庭の人間は被害者意識が強い。何でもかんでも自分がこうむった被害と認識してしまう。 そんな被害者意識が強い人間にしてみれば、ハンディキャップというものは、「被害」の一種と認識されているわけ。 たとえば、身体的に不自由なケースの障害でも、それについて、身体にハンディがあると考えるのではなく、「その人は被害を受けた。」と認識しているわけです。 信号機において、青色と緑色の区別が必要ではないように、被害者意識が強いダメダメ人間は、「被害」と「ハンディ」の区別がないわけ。 そもそもハンディキャップというのは、ちょっとあいまいな概念です。 客観的なり普遍的なものではなく、当人の個別の「あり方」に依存する面が大きいわけ。 ハンディキャップというのは、自分の目的を達成するための障害になるもの・・・でしょ? 逆に言えば、当人がどんな目標を持っているのかによって、ハンディキャップの意味付けも違ってくるわけ。 たとえば、バスケットボールの世界的な選手になりたいと思っている女性がいたとしましょうか? その女性が「ワタシの身長は160cmしかない!ああ!これでは一流の選手にはなれない! やっぱり世界レヴェルで活躍するためには180cmの身長がほしい! 160cmの身長なんて、ハンディだ!」 ・・・そのような人も現実にいるかも? しかし、バスケットボールの選手になるわけではなく、専業主婦を目指しているのなら、180cmの身長なんて、逆にハンディでしょ? 目標とするものによって、何がハンディなのか?その点について違ってくるわけ。 あるいは、容姿端麗な男性がいたとしましょうか? 一目見て、スグに顔を覚えてもらえるくらいの目立つ容姿としましょう。 そんな人は芸能界で活躍するには、メリットでしょう。 しかし、銀行強盗するにはデメリットになり、まさにハンディでしょ? 銀行強盗の後で、「犯人は、身長180cmくらいで、スラリとした外見で、鼻筋がとおった芸能人風の顔立ち。」そんな目撃証言があったら、アッサリ逮捕ですよ。 あるいは、いわゆる身体の障害でも、脚の軽度の障害なら、デスクワークには実質上は問題にならない。椅子に座って電話をしたり、パソコンをやったりするには、どうでもいいことですからね。しかし、スポーツ選手になるには、脚の障害は、たとえ軽度でも、やっぱりハンディでしょう。 ハンディキャップというものは、「どんなことをしたいのか?」「何を目指すのか?」それが明確になって始めて存在するわけ。 だからこそ、「達成したいもの」それ自体が存在しない当事者意識がない人には、実感として理解できないわけ。 当事者意識がないダメダメ家庭の人間にしてみれば、実現したい目標の達成には、自分のこの面がハンディキャップになる・・・のではなく、「ふつう」と違う面は、それすなわち「被害」と認識されてしまう。 被害だからこそ、自分の問題ではなく、他者の問題になってしまう。 ヘタをすると、「ワタシをこんな状態に追い込んだのは誰だ?」と犯人探しをするようになってしまう。 ちょっと前に、いかにも典型的な事例が報道されておりました。 四国の愛媛県での事例です。 なんでも、お子さんが知的障害者だそうで、中学を卒業して高校に入学させようとしたが、知的障害者なので、入学試験には合格しない。だから障害者への配慮として、「知的障害者にフィットした試験問題にしてくれ!」との要望を、県の教育委員会に要求した親の事例です。 軽度の聴覚障害者くらいだったら、入学試験に対して、ハンディキャップに配慮した試験にするのも、まだ、理解できますよ。試験官の指示も聞き間違えるかもしれませんからね。しかし、「知的障害者に配慮して試験問題を特別なものにしてくれ!」なんて要求されても、どう対応していいのか?そんな要求をされた愛媛県の人も途方に暮れたでしょうね。 そもそも、無理にその高校に入学しても、その子供は授業中は何をしているの? 授業内容はチンプンカンプンでしょ?そんな状態に子供をおきたいの?それって、むしろ親による虐待ですよ。 それとも、授業内容についても知的障害者に配慮したものにするの?それだったら、他の生徒は、転校してしまいますよ。結果的に、特異なスタイルの「ふつう学校」が出来上がるだけ。 そんな要望を聞かされた側が思うのは、「この手の知的障害って、たしか遺伝性ではなかったはずなんだけどぉ・・・」となるのは必定。 しかし、そんなトンチンカンな要望が登場する背景は、親の知的な問題ではないわけ。 被害とハンディキャップの区別が付かないというダメダメの心理を理解していると、実にすんなり理解できるわけです。 その親としては、 「子供の知的障害は我々が受けた被害なんだから、被害者たる自分たちは何もする必要がない。」 「加害者の側の誰かが、かわいそうな我々に対して、色々と配慮してくれるのがスジだ!」 基本的な発想はこんなものなんですね。 子供の知的障害をハンディキャップとして認識しているわけではなく、被害と認識しているわけ。 自分たちを被害を受けた側だと認識しているから、その対処を他者に要求し、その要求行為を通じて、自分自身でも「自分たちはかわいそうな被害者なんだ!」と再確認することになる。 このような流れは、まさに韓国人がいつもやっていること。当事者意識がなく被害者意識が強いダメダメ人間にはおなじみの流れ。 まあ、その愛媛県での事例のように、突き抜けたダメダメだと、逆にわかりやすい。 ハンディキャップと被害の問題が、より頻発しているのが、まさにこのメールマガジンが対象としている、家庭という領域です。 たとえば、母子家庭では、現実的に色々とハンディキャップがある・・・それはまったくそのとおり。 しかし、前にも書きましたが、ハンディキャップというものは、目標が明確になっているからこそ、具体的に認識できるもの。 「ワタシは親として自分の子供に高等教育を受けさせたいと考えている・・・ただ、現時点では、それが経済的に難しい。これは母子家庭のハンディキャップだ!」 そんな理屈だったら、聞いていても、わかりやすい。だから、周囲の人間としてもサポートすることも可能。たとえば、「ここではこんな奨学金の制度があるよ!コレを使えば、学費はなんとかなるよ!」なんてアドヴァイスしてくれる人もいるでしょう。 そうすれば、実際にあるハンディキャップも影響を小さくすることもできるわけ。 しかし、「母子家庭はつらい!大きなハンディを背負わされている!ああ!政府は何をやっているんだ?!ああ!ワタシたちは、なんてかわいそうなの?!」そんなグチばかり聞かされてもどうしようもないでしょ? ハンディなら、その影響を小さくできるわけですが、被害なら、周囲としても具体的なサポートもできない。 しかし、ダメダメな当人にしてみれば、それを被害であると認識しているがゆえに、「この案件への対処は全部、他者が行う義務がある。」と認識しているわけ。 しっかし、そんなことを言われてもなぁ・・・周囲の人にしても対応できませんよ。 まさに「で、結局は、アンタはどうしたいの?」そう思うだけ。 結局は、あらゆることを被害としてしか認識できないもの同士が集まってグチ大会。 そうして、様々な対象に抗議するようになるわけ。 抗議された側が、「アナタたちは、具体的にどうしてほしいの?」と聞いてもそんな集団は何も答えられない。 ただ、「ワタシたちが、かわいそうな被害者だと認めてほしい!」と言うくらい。 このようなやり取りは、その手の人にとって、ハンディキャップと被害の違いがないことを意識すると、意外にも理解できるものでしょ? 結局は、周囲から相手にされず、ますますクレーマー稼業に精を出すようになってしまう。 声高にクレームを叫ぶそんな集団を見ていた周囲の人は、「まあ、だから母子家庭になっちゃうんだよなぁ・・・」と思うだけ。 ハンディを意識し、それを分かりやすく説明できればいいわけですが、ただ、被害を主張しているだけだったら、相手にしようがありませんし、そんな人の相手をするような人は、所詮は同じようなダメダメ人間。そんな「事情に理解のある」人と一緒になったら、更なる修羅場になるに決まっていますよ。 あるいは、まさにこのメールマガジンのメインテーマと言えるダメダメ家庭の出身ということは大変なハンディキャップですよ。 だって元になっている常識が違っているわけですしね。そればかりではなく、人付き合いの幅とか、会話の能力とか、歯並びなどの容姿や学歴のようなものまで、とんでもないハンディキャップですよ。 だからと言って、それを被害と捉えてしまうと、まさに「じゃあ、加害者は何なのか?」と犯人探しに精を出すようになってしまう。ここで自分の親の問題に目が行けばまだマシですが、現実は、関係のない人間なり、時代や政治などの抽象的な存在を犯人認定するだけ。 あるいは、周囲に対して、「こんな家庭の出身者でも幸福になれるように、社会を変えていくべきだ!」と主張する。 しかし、ダメダメ家庭の常識に、そんなに配慮していたら、社会全体がダメダメになってしまうでしょ? 結局は、「ああ!ミンナはどうしてワタシたちのことをわかってくれないの?!」と、ますますの被害者意識になり、その嘆きに浸りきってしまう。 だからこそ、現実として当人が持っているハンディが自覚されずに、何も対処されないことになってしまう。色々と不都合な点を語ることがあっても、それを被害として語っているわけ。 ダメダメ家庭出身ということをハンディキャップと捉えるのか?それとも被害と捉えるのか?多くのダメダメ家庭出身者は、まさに「親譲り」の被害者意識から、そのデメリットを、被害と捉えてしまう。そして、当人自身を「親による被害者」と言ったり、あるいは、別のものを加害者認定することになる。 ・・・まさに、その人の親がそうであったように・・・ たとえ当事者意識がある人でも、ハンディキャップばかりを見ていると、自身の目標なり、自分なりに達成した実績を見失ってしまうこともある。ハンディキャップが、いつのまにか「被害」に心理の中で変容してしまうこともあるわけ。そして、被害者意識に浸ってしまって、加害者認定したものを攻撃するようになってしまう。エーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」の中で書くように、もともとは「○○をする自由」の際の障害としてのハンディキャップだったのが、いつのまにか、目標ではなくハンディキャップの側が主となってしまい、「○○からの自由」と変容してしまうわけ。 そして、敵認定をして、その敵を攻撃すること自体が目的化となってしまって、結局は当初の目標を忘れてしまう。 ハンディキャップというものは、あくまで、自身の目標達成のための障害であって、まずは自身の目標が先にあるものなんですね。自身のハンディキャップというものについては、具体的な形で、ちゃんとわかっていることが必要ですが、見すぎてもいけないわけ。 ハンディキャップへの配慮や対処・・・なんて盛んに叫んでいる人が現実にいますが、そんな人の多くは、被害とハンディキャップとの間の区別が付いていないわけ。 被害と認識しているからこそ、まさに声高に叫ぶことになる。ハンディと認識していれば、相手に分かりやすいように、もっと冷静なスタイルで要請しますよ。 前にも書きましたが、ハンディキャップというものは、その人が持っている目標によってその認識も変わってくるもの。だから、その人自身が的確に説明していく必要があるわけ。 言葉では、その折々で通りのいい言葉を使ったりするので、ハンディキャップという言葉も使ったりするわけですが、ダメダメ人間の意識の上では、被害の一種なんですね。 前に例示した愛媛県での事例でも、その親御さんが語るハンディキャップや障害という言葉を「被害」という言葉に置き換えた方が、その人の心理の実態を表現しているわけ。 このような問題は、ハンディキャップを持っている当人の問題だけではありません。周囲の人の反応においても、この問題は発生するもの。ハンディキャップに対する配慮という言葉を使っても、その心理としては「被害者救済」というニュアンスの場合があるわけ。 だから過剰に同情したり、「自分とは別の被害者が登場した!」と被害者競争を始めるケースもあったりするもの。そのハンディキャップの人の目標達成のために協力するというシンプルな対応が取れないわけ。 どうしても、そんなぎこちなさが出てしまう。 そのぎこちなさから、ハンディキャップを持っている人の周囲の人間が持っている被害者意識や当事者意識が見えてくるもの。 一般には区別して使われる「信頼と好意」の区別がダメダメ家庭の人間にはできないように、ダメダメ人間は、「ハンディキャップ」と「被害」の区別ができないわけ。 言葉だけは、ハンディキャップという言葉でも、言わんとする中身は被害・・・そんな人とのやり取りでは、やり取りがトンチンカンなものになってしまう。 挙句の果てには「どうして、わかってくれないの?!」なんて逆切れされて、犯人認定されてしまうだけ。 信号だったら、青色と緑色の区別は付けなくてもいいし、そのことを全員がわかっている。 しかし、ダメダメ家庭の周囲に行ったら、「この人は、ハンディと被害の区別を付けていない人の可能性が高い。」そんな認識は必要になってくるわけです。 (終了) *************************************************** 発信後記 ハンディキャップというものは、その個人個人のライフスタイルに依存することは、本文中でも書いています。 容姿端麗だからといって、それがハンディになることもある。 あるいは、耳がいいからと言って、それがハンディになったりもする。 20世紀に活躍したハンガリー出身の作曲家ベラ・バルトーク(ハンガリーでは名前より苗字が先なので、ハンガリー風に言うとバルトーク・ベラ)は、異常に耳がよかった人だったようです。何でも彼が友達の別荘に行った、別荘の主人の飼い猫が居なくなってしまった。 慌てている主人を前にバルトークさんは、「大丈夫、わかるよ!」と言って夜中なのに歩き出したそう。 1kmくらい歩いて、懐中電灯で木の上の方を照らすと、猫が枝の上にいたそう。 そして、バルトークさんは、呆れた声で「アンタたち・・・耳が悪いねぇ・・・こんなものもわからないの?」 まあ、バルトークさんは、家の中から1km離れた場所の猫の鳴き声が聞こえたんでしょうね。 1km先の音がクリアーに聞こえるということは、現実的にはもっと離れた場所の音も聞こえると言うこと。あるいは、聞きたい音が聞こえるということは、聞きたくない音も聞こえてしまうと言うこと。 聞きたくない音も聞こえる状態だったら、生きていく上では大変なハンディですよ。 あるいは、そこまで耳がいいと、作曲するにもハンディになるのでは? バルトークさんは、ナチのゲッペルスが「退廃芸術家」のリストを公表した際に、「どうしてオレの名前がそのリストに入っていないんだ?ケシカラン!」とゲッペルスに抗議したそう。ブラックリストに入っていないことを抗議するなんて、タダモノじゃあない。おまけに相手がナチなんだから、命の危険がある。 もちろんのこと、そんな行動は、芸術家としての信念や良心からの行動という面が大きいでしょうが、彼が「聞こえる」世界から規定された行動という面もあるでしょう。 現実に聞こえてしまうがゆえに、それを無視することはできないわけ。 単なる信念や良心の問題ではなく、実際に聞こえてしまうんだから、どうしようもない。 このようなことは、有名なジャンヌ・ダルクでもそう。 実際に天使が見え、神の声が聞こえたから、しょうがない。 皆様の前にあるパソコンのマウスやキーボードについて「それを否定しろ!」と権威者から要求されても、「だからと言ってもなぁ・・・ちゃんと見えるし・・・」と思っちゃうでしょ?これは信仰心とか良心とか信念の問題ではないでしょ? ジャンヌ・ダルクが現世において生きていく上では、神からの声がハンディキャップになったわけです。 まあ、人それぞれのハンディキャップがあるわけですよ。 |
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R.10/10/31 |