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カテゴリー 「入れ込み」「入れ込まれ」問題
配信日 09年6月29日
タイトル 作品に入れ込む
ダメダメ家庭の人間は、「人に入れ込む」ことが多い・・・このことは以前に配信しております。
「あの○○さんのことを、分かってあげられるのは、このワタシだけ!」
その人にとっての唯一の理解者といった感じで、自分を認識することになる。

ここで、上記の文章をより正確に記述すると、
「あの○○の『苦しみ』を、分かってあげられるのは、ワタシだけ。」
となります。

入れ込みとは、入れ込む対象の『美点』を認識していると言うよりも、入れ込み対象となっている人間が陥っている疎外感・・・そのような『マイナス面』への反応になっているわけです。
周囲との疎外に陥っている人物に対して、「一般の皆は、アナタの苦しみを分かってあげられないでしょうけど、このワタシなら分かってあげられるわ!」
そんな感情を抱いている。

逆に言うと、その入れ込む対象の人間が、苦悩していなかったり、社会から疎外されていなかったら、入れ込みようがない。
入れ込みとは、自分自身の苦悩や疎外感を、入れ込み先に投影している状態なんですね。
本来なら、自分自身の苦悩や疎外感をしっかり見つめ、それを自分で解決するなり、あるいは、客観的な作品として残せばいいだけ。

しかし、抑圧的で自己逃避のダメダメ人間は、自分自身の問題を他者に投影して、いわばその投影した自分の映像に対して入れ込むことになる。
入れ込みとは、いびつな自己愛にすぎないわけ。
自己愛だからこそ、他者とは共有できないのは当然のこと。

「わたしだけがアナタのことをわかってあげられる。」の「だけ」という部分において、ある種のアイデンティティにつながっているわけです。
この「わたしだけがアナタのことをわかってあげられる。」という言葉は、以前に集中的に取り上げましたバルザックの小説「谷間のゆり」にも登場いたします。もうこの言葉が出るようになったら、「入れ込み」「入れ込まれ」も、重症といえます。どっちかが死なない限り収まりはつきませんよ。
あるいは、ダメダメな親が、子供に向かって発する「親であるワタシだけが、オマエのことを分かっているんだ!」なんて言葉も、いわば入れ込み状況におけるお約束のようなもの。こうなると、親子間で刃傷沙汰になったり、子供の側がなんとかして親の呪縛から逃れようと、外の世界とやり取りして、その場で入れ込んだり、トラブルになったりするもの。こうなると、やっぱり、血くらいは見ることになるでしょうね。

「わたしだけがアナタのことをわかってあげられる。」と豪語するダメダメ人間が、誰か他者を「わかってあげられる」のは、いいとして、じゃあ、その人自身は、いったいどんな人なの?

自分は、こんな経験をしてきて、こんなことを考えていて、こんな目標があって、こんな洞察力があって・・・そして「アナタのことを分かっている。」のなら、まあ、その言葉も分かりますよ。
しかし、現実はそんなものではないでしょ?

「分かってあげられる」と豪語する人は、自分自身については、分かっていないもの。
まあ、自分に対する認識としては、ダメダメのお約束と言える、「ワタシはかわいそうな被害者なのよ!」そんなもの。
まあ、そして「アナタも、ワタシと同じようにかわいそうな被害者なのね!」
そんな認識となっている。まさに自分自身を相手に投影している状態。

被害者なのはいいとして、目標くらいは持てるでしょ?しかし、自分自身を見つめることが怖いので、他者だけに目が向いてしまい、「自分が役に立ちそうな人間」を探すことになる。
典型的な共依存状態になっている。

相手から依存させている関係性に、依存しているので、相手が自立するのが怖い。
だから、共依存の集団といえるボランティアの連中などは、「アナタは悪くないのよ!」などと甘言を弄し、対象とする人の自立する意欲を阻害するように行動するわけですし、ダメダメな親も、子供にすがりついてしまう。

そして、ダメダメ家庭の人間は、自分で考えることをしない。
「分かってあげられる」という人は、相手のことも分かっていないし、自分自身も分かっていない状態。そんな人が、「ワタシだけが分かってあげられる。」なんて言うのは、まさにシュールなギャグですよ。しかし、そんな異世界に生きてしまっているので、その認識を自覚したり修正することは出来なくなってしまう。

そんな状況において、自分のアタマの中の世界と、目の前の現実のとのギャップを感じたら、どんな行動をするの?そうなると「ワタシだけが」の「だけ」があるので、より厄介な事態になる。
自分以外の人間は、その人の事を「分かっていない」と認定しているので、「この人には自分じゃなきゃダメだ。」と認定してしまっている。別の人間が、その人をサポートするのが許せない。だから、別の人間からのサポートを排除しようとする。

まあ、こうなると、よくニュースでやっていたりする事件になってしまうわけ。ストーカーなんて、まさにその典型といえます。何回も書いていますが、ストーカーは、「相手にはワタシが必要なんだ!」「ワタシが何とかしてあげないと!!」という『確信的な善意』を持って行動している。善意だから、妥協もなしに突き進む。

この「ワタシだけが、アナタのことをわかってあげられる」なんて言葉が出た時点で、早めに逃げないととんでもないことになったりするもの。
大人同士だったら、逃げることも可能ですが、親が子供に言ったりする場合はどうしようもない。まあ、そんな家庭環境だったら、子供はマトモには育ちませんよ。

そんな環境で育った子供が、長じて、「この人と自分はよく似ているなぁ・・・」「なんか、分かり合えるなぁ・・・」なんて感じてしまう人と出会ったら、どんなことを言い出すのか?
それについては、言うまでもないことでしょ?

さて、このように、ダメダメ家庭の人間は、入れ込みのような症状を起こしやすい。
一般には、入れ込みの対象は、人物になるわけですが、それが芸術作品になったりするケースもあります。特定の作品に異常に入れ込んでしまうわけ。あるいは、その中間となると、芸能人なり芸術家となります。
「この作品を理解できるのは、オレだけだ!」「この芸能人をわかってあげられるのは、ワタシだけ!」なんて状態になる。それこそ、日本の作家である太宰治の作品なんて、ダメダメ人間から、その栄誉を受けたりしているんじゃなかったのかな?

特定の作品を大変に気に入るのは、受け手の自由でしょう。
だったら、その「よさ」を、できるかぎり客観的に説明できるようになるのが、次の段階なのでは?
「オレが気に入っているこの作品のよさは、これこれで・・・」と、丁寧に説明されたら、その説明に合意するしないは別として、『まあ、この作品は、いいものなんだろうなぁ・・・』、『ふーん・・・その作品は、そんな特徴があるんだねぇ・・・』と思うでしょ?

しかし、入れ込みに近い心理状態だったら、客観的で丁寧な説明にはならない。
入れ込み状態に近い人は、反対意見に対する過剰な反応という形で、そのよさを主張することになる。反対意見に対して、極端な反論をするわけ。

「この作品のよさをわからないのか!ケシカラン!」
そんなパターンでの説明?となり、そんなスタイルは、ダメダメにお約束といえる二重否定そのものでしょ?

まあ、その手の入れ込み対象に選ばれるのは、やっぱりダメダメの雰囲気を持っているもの。そして、ちょっとマイナーな作品であり、レヴェル的には、どことなく手が届くようなレヴェルの作品。

以前に、マンガというかアニメにもなっている「じゃりんこチエ」という作品に入れ込んでいる方より、お便りを頂戴したことがありますが、まあ、まさに「じゃりんこチエ」は、ダメダメに入れ込まれやすい作品と言えるでしょうね。逆に言うと、アニメ作品「となりのトトロ」や「サザエさん」に入れ込んでいる人なんて聞いたことがない。「トトロ」も「サザエさん」も、好きな人は多いでしょうが、逆に言うと、それゆえに、入れ込まれの対象としては不適となる。

その作品を気に入るのは、その人の勝手でしょう。
ただ、そのよさを誰かに説明するのなら、ある種の客観的なスタイルの説明が必要になるというだけです。それに、説明するにあたっては、二重否定ではなく、シンプルな肯定形が基本ですよ。
「自分と同じ苦悩を、この作品に見出した!」というなら、それはそれでいいわけですが、じゃあ、その作品に描かれた当人自身の苦悩はどんなものなのか?それを説明できないとね。
優れた作品というものは、自分自身を見つめるために有効な示唆を提供しているもの。
入れ込んでしまうと、作品の中で描かれている自分自身の問題が見えなくなってしまうものなんですよ。

自分が見えなくなっている状態のまま、特定の作品に熱を上げるから、周囲の人間にしてみれば、「腫れ物」状態になってしまう。その作品について、ちょっとでも否定的な見解を言おうとするものなら、逆上されてしまう。
本来なら、自分が気に入っている作品が他者に受け入れられなくても「アイツは鈍感だから・・・このよさがわからないのさ!」で、鼻の先で笑って済む話でしょ?
しかし、作品に自分自身を投影しているわけだから、作品が受け入れられないと、自分自身が受け入れられないように感じてしまう。

自分自身から逃避しているダメダメ人間は、普段から周囲に対して「どうして、ミンナはワタシのことをわかってくれないの?」などとグチったりするもの。
しかし、そんな嘆きを聞かされても、「分かっても、何も・・・アンタの何を分かればいいのさ?」と思ってしまうだけ。分かってほしいのなら、「何を分かってほしいのか?」まずは明確にする必要があるでしょ?それを自覚できたら、後は、相手のキャラクターを踏まえ、相手に分かりやすいように説明すればいいだけ。

しかし、抑圧的な人間は、「何を分かってほしいのか?」という問題から逃避して、「ワタシをわかって!わかって!」と周囲に対し感情的に要求するばかり。

そもそも、ダメダメ人間は、自分をかわいそうな被害者としてしか説明できない。
だから、やり取りをしている人が、その「かわいそさ」に反応してくれないと困ってしまう。逆に、作品に接する際にも、「自分のかわいそさ」に反応し、フィットする表現を求め、その面に入れ込むことになる。だから作品の受け止め方が、甘くなってしまう。

それこそバルザックの「谷間のゆり」においても、深く考えもせずに、「すばらしい恋愛小説だ!」などと言い出し、主人公の報われない恋に共感するだけの人も多いもの。このような読者の状況はトルストイの「アンナ・カレーニナ」でもまったく同じ
そうして、作品に接しながら「ああ!ワタシたちって、何てかわいそうなんだ?!」と「心もうれしく苦しむ」ことになる。
しかし、そんな接し方は、作者が望んでいたことなの?
バルザックの「谷間のゆり」においても、トルストイの「アンナ・カレーニナ」においても、本来は読者に厳しい作品ですよ。
しかし、ダメダメ人間は、甘い読み方しかしないもの。
・・・まあ、そんなことは、このメールマガジンの書き手の私は、よ〜く分かっていますよ。

入れ込みは、依存関係の一種であり、別の言い方をすると、LIKEではなく、NEEDに近い。だから離れることができない。それがわかっているから、自分にも対象にも甘くなる。
LIKEであれば、逆に言うと、その作品は、なくなってもいいわけ。だって、言っていることが分かってしまえば、もう、その段階で不必要になるもの。アタマの中に入ってしまえばいいだけ。
「この作者は、このような状況から、このようなものを見て、そんな問題意識を持って、こんな視点からこの作品を作ったのだな・・・」それが分かればそれでオシマイでしょ?しかし、入れ込んだ場合には、離れた距離から参考にすることができなくなってしまう。

作品への入れ込みは、作品の理解にはならない。
作品を作る人は、そんな感じでは入れ込みはしないもの。自分自身の価値を他者に依存していたら、客観性を持った作品は作れませんよ。作品を作る人の思考なり、創造的な発想は、入れ込む人の思考からは遠いわけです。他者の作品に深く共感することはあっても、どこか醒めた視点も共存している。深く共感している自分自身を眺める、ちょっと醒めた別の自分自身がいると言った感じでしょうか?まあ、作品を作る人は、まさに一人でサクサク突っ走ってしまうもの。
まさに映画「マイ・フェア・レイディ」でのセリフのように、「アンタは突っ走るモーターバスよ。周りの人なんかお構いなし!」なんて言われてしまうことになる。
きっと原作者のバーナード・ショーもそのように、人から怒られたんでしょうね。ああ、目に浮かぶなぁ・・・
ただ、周りの人なんかお構いなしなんだから、逆に言うと、ストーカーとかクレーマーになることはない。迷惑ではあっても、危険にはならない。

特定の作品を気に入るのは、結構なことですが、自分自身を見つめられない人は、本当の理解からは遠いわけですし、作者が読者に期待していることは、自分自身を見つめるきっかけになればそれでいい・・・くらいのことが多いもの。
逆に言うと、それが実に難しいことがわかっている人が、作品を作っている・・・そうとも言えるんですが。

(終了)
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発信後記

本文中にも書きましたが、芸術的な作品は、「様々な状況において、登場人物がどのように認識し、どのように考え、どのように行動したのか?」そんな点に注意して、作品にしているもの。だから、最後の結果などは、どうでもよかったりするもの。
ポーランド映画の「愛に関する短いフィルム」という作品は、テレビ版と映画版ではラストが違っていますが、ラストは違っていても、それゆえに、「結果ではなく、それまでの認識なり思考の積み重ねが重要なんだ!」といいたいわけ。

極端な話になりますが、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」において、最後にハッピーエンドになってもいいわけ。重要なのはそれまでの判断なり行動。
その最終結果として、結果的に上手く行くのも、バッドエンドになるのも、偶然の要因もありますよ。

しかし、作品に入れ込んでしまうと、そんな読みはできないもの。
それこそ、「最後の結末が、オレの希望と違っていてケシカラン!!」となったりするもの。
そんな人は、その作品を、何もわかっていないものなんですね。

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メールマガジン発行元の「マグマグ」が7月1日〜3日の間、システムリフォームのため停止いたします。それに伴って、今週は月曜日だけの配信といたします。
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R.10/12/25