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カテゴリー | ダメダメ家庭をめぐる環境 | |
配信日 | 09年10月23日 | |
タイトル | 作品の推薦 (大人目線の管理) | |
先日、例の「クレヨンしんちゃん」の原作者さんがお亡くなりになりました。 その番組は、「子供に見せたくない番組」というリストでは、常に上位を占めていたとか。 あるいは、逆のパターンで「子供に見せたい番組」なるリストもあったりしますよね? その「子供に見せたい番組」とか、逆のパターンである「子供に見せたくない番組」というネーミングは面白い。一般レヴェルの言語感覚の人なら、怪訝に思わないのかもしれませんが、私のように言葉なれしている人間にしてみれば、「あれれ?」と思ってしまうネーミングなんですよ。 「子供に見せたい番組」はいいとして、じゃあ、「自分の子供に見せたい」の? 「自分の」という言葉を付けると、ずいぶんと印象が違うでしょ?どうして「自分の」という言葉を付けないの? わざわざ「自分の」という言葉を「付けない」と言うことは、自分の子供には見せたくないけど、他人の子供には見せたいとでも言うの?それって、どういう意味? 人を騙すためには、そんなちょっとした表現の違いから意味をずらして、受け入れられやすい表現を積み重ねながら、意味の違いを積み重ねて行って、自分が求めている論理に持っていく・・・それが典型的な方法論です。もちろん、これは他者を騙すための方法論だけでなく、自分を騙すための方法論でもあります。 「自分の子供に見せたい。」という言葉だと、意味がわかりやすい。まあ、それを周囲に対して宣言する必要はないでしょう。その手の言葉は第3者に対してあえて宣言することに、いかがわしさがあるもの。ただ、言葉の意味は理解しやすい。 しかし、それを一般化して「子供に見せたい」という言葉だと、よく考えれば意味不明なんですね。「子供に見せたい」という言葉は、「自分の子供に見せたい」という明確な意味を持つ言葉を、宣言しやすい形に修正することによって、人を騙す言葉となっているわけ。 作品を推薦するのはいいとして、 どんな子供に対して、 その作品のどんなところを分かってほしいのか? 「子供に見せたい」とか、書籍の場合だと「子供に読ませたい」なる文言になりますが、「自分の」という言葉を抜いた一般化した表現だと、上記の問いに答えられないでしょ? 回答があるとしたら、「生きることのすばらしさ」とか「家族のすばらしさ」とかの、抽象的な文言が登場するだけ。しかし、そんな抽象的な言葉で、いったい何がわかるのやら? そんな文言でOKなら、わざわざ本を読んだり、番組を見る価値なんてないのでは?もっと具体的で多面的に認識できるからこそ、その作品を勧めるのではないの?家族のすばらしさだったら、子供の前にいるアンタ自身が、目の前の子供に示せばいいだけ。生きていることのすばらしさも同じでしょ?そんなことを言う人は、もうすでに死んでいるの?死んでいるから「生きていることについて」子供に伝えられないの?そんなわけないでしょ? そもそも会ったこともない、どんな興味があるのかもわからない、どんな過去があるのかもわからない子供に対して、「読ませたい」も何も僭越そのものですよ。いったいその人自身は自身を何様だと思っているのやら?まだ自分の子供だったら、普段の興味もわかっているわけですから、現在の興味の延長線上にあるものなどに接すると、その子供だって、より興味もわくでしょう。 しかし、単に「子供」だけではわからないでしょ? それに、そんな「子供に見せたい」とか「子供に読ませたい」なる称号を得る作品は、もう傾向が決まっていますよね? アニメのような作品だと、絵に描いたような「ヒューマンドラマ」になり、書籍の場合だと、権威主義的で倫理的な作品ばかり。 まさに「大人が喜ぶ」作品でしょ? 書籍のようなものだと、「図書館推薦」とかの称号もありますよね? そんな推薦作品も、まあ、権威主義的なもの。 皆さんは、書籍における推薦作品で、今もその中身を覚えているものってありますか?子供の頃に見たアニメの推薦作品の中だったら、今でも記憶に残っているものはあるかもしれませんが、だからと言って、覚えている箇所は、はたして推薦者が望んだ箇所なの? アニメくらいだったら、長時間の作品でもあり、様々な要素が絡み合っていると言えますから、今でも記憶に残っている箇所もあるもの。しかし、書籍のようなものだったら、もうすっかり中身を忘れている・・・そんなことはありませんか? 少なくとも、この私は覚えていませんよ。 自慢じゃないけど、この私は芸術作品を理解する能力は、そんな図書館推薦の選定をしたり、「見せたい番組」を選定している人たちとは、次元が違う理解力ですよ。 そんなことは、バックナンバーに収録されている、芸術作品を考えた文章をお読みになれば、スグにわかること。 この私が、推薦作品からは、何も印象に残っていないわけ。もちろん、「こりゃ!ヒドイ!」という推薦図書は記憶にありますが・・・ 「子供に読ませたい」はいいとして、じゃあ、それを読んだ子供が、大人になってその作品をどのように語っているの?それが重要でしょ?たとえ子供向けであっても、大人になってもいつまでも残っているような作品こそが力のある作品というもの。大人になったら忘れてしまっているんだったら、それこそ巷にあふれる粗製濫造されたマンガとどう違うの?それだったら、むしろ楽しく笑えるマンガを見た方がマシ。 その手のご推薦の本は、いわば大人が喜ぶ子供向けの本でしょ?だから、読まされる子供としては、疑問を持たずに「学ぶ」と言ったスタイルとなる。しかし、子供だったら、子供の好きな作品に接すればいいだけじゃないの? 多少は下品なりエッチなところもあっても、それを含めて子供の興味ですよ。 どうして、頭ごなしに、子供の自然な興味を否定するの? しかし、独裁体制というものは、子供っぽさを否定するもの。 前にも書いたかもしれませんが、独裁者にしてみれば、「あの王を打倒せよ!」という反抗の声は実は怖くない。「あの王様は、実際はハダカじゃないか?」という子供の指摘の方が怖いもの。「あの王を打倒せよ!」という声に対しては『○○による陰謀だ!』『△△からの回し者が何を言っているんだ!』などと反論することができても、「あの王様は、実際はハダカじゃないか?」という指摘には対処できないでしょ?その指摘に対してダンマリを決め込んで、そんな声を上げた子供を抹殺するしかない。 子供に対しては、諸般の事情は通じない。子供は、まさに自分の思ったことを発言し、行動する。しかし、それは、諸般の事情によって、がんじがらめになっている大人にはできないこと。だからこそ、諸般の事情の積み重ねによって支配している独裁者にしてみれば都合が悪い。 だからこそ、子供が、いち早く諸般の事情の中に埋没するようにし向けてしまう。 明確に言語で規定するには、自分のやっていることや、求めていることはいかがわしい。支配される側が、自主的に空気を読むような形で支配しようとする。だからこそ、支配されている側が、周囲の空気が読めるような大人でないとマズイわけです。 何も政治的な独裁者ということだけでなく、まさにダメダメ家庭を支配している強圧的な親も、そんなパターンでしょ?ダメダメな親は「早く大人になれ!」と子供に要求し、子供っぽいものを取り上げるもの。 「子供に見せたい。」「子供に読ませたい。」も、結局は、「諸般の事情に配慮するような大人に早くなれよ!」という意味でしょ? カルトな宗教も、「いかにも」な作品を推奨していたりするものでしょ? カルトが推奨する作品は、「型どおり」で、子供っぽさがないもの。そして理念的で過度に倫理的な作品。それこそ韓国の歴史教科書なんて、その典型。 以前に、このメールマガジンにおいて、カルト集団からは芸能は出ても、芸術は出てこない・・・そんなことについて書いています。芸術というものは、自分の内面を厳しく見つめた結果であると供に、ある種の子供っぽさの反映のようなもの。諸般の事情を満足させることを重要視していたら、一般人に受ける芸能にはなっても、芸術にはなりませんよ。 子供っぽさが許されない環境だと、芸能は生まれても、芸術は生まれないわけです。 そんな状況になると、支配者が大喜びする倫理的な作品が、「これぞ、偉大なる精神を表現した立派な芸術作品だ!」などと称揚されることになる。しかし、そんな作品は、時代の波を越えられず、その治世で終わってしまう。諸般の事情を満足させるものであるがゆえに、その諸般の事情がなくなれば、その「作品」の役割も終わってしまうわけです。 そんなことは、いつの時代でも起こっていること。 倫理を志向した作品は、結局は、大人の顔色をうかがった作品であり、逆に言うと、神の意向に従ったものではない。 そもそも、「子供に読ませたい」はいいとして、子供はそんなに倫理的な存在なの?というか、そんな説教くさい作品を推薦する大人は、子供時代に、そんな作品を好きだったの?子供は正直な存在でしょうが、倫理的な存在ではありませんよ。 「子供がなぜにこの作品を喜ぶのか?」それこそが真理につながるのでは? 心を虚しくして幼子のようにならない限り、天国の門は開かれないのでは? 権威筋認定のご立派な作品を推薦したがるのはいいとして、それゆえに、そんな推薦者は、神からは遠い存在なんですよ。 前にも書きましたが「自分の子供に読ませたい。」というのならありでしょう。しかし、見も知らない子供に読ませたいというのは、カルトなり独裁体制のお約束の行為なんですね。 逆に言うと、そんな「子供に見せたい」「子供に見せたくない」なる文言が飛び交っている状態だったら、子供の目線が無視されているということであり、大人からの一方的な命令がまかりとおっているということ。 それこそPTAなんて、まさにParentsと、Teacherという大人の集団ですが、じゃあ、子供の意向はどのように反映されるの?そのような子供の目線の無視し、大人の事情を一方的に押しつける姿勢は、以前に取り上げた長崎県の小学校6年生の事件の加害者の親の手記に典型的に現れていました。 「子供のため!」「子供を守ろう!」というご立派な正論はいいとして、じゃあ、皆さんは、困りごと抱えた子供がPTAに掛けこんで相談するという事例を聞いたことがありますか? あるいは、困りごとを抱えた子供が、駆け込みやすい雰囲気を作ろうとする、PTAの関係者の意見を聞いたことがありますか? あるいは、PTAの皆さんのおかげで、心の豊かな人間になれた・・・と大人になってから述懐する大人に会ったことがありますか? PTAは常駐しているわけではないから、そんな「駆け込み寺」的な活動をするにも、現実的に無理がある。しかし、じゃあ、学校なり地域で、そんな困りごとを抱えた子供へのサポートはどうするの? その方法論くらいは考えてもいいのでは? そんな考察こそが、マンガやアニメにクレームを付けるよりも、よっぽど建設的ですし、子供にしてみれば、必要なことですよ。 それに、子供から相談を受ける部屋を設定するとしたら、そんな部屋には、それこそ「クレヨンしんちゃん」のマンガ本でもあれば、小道具としては、実に効果的でしょ? 相談しに来た子供にしてみれば、リラックスに繋がりやすいのでは? 相談部屋に、権威筋認定のご立派な本しか置いていなかったら、子供にしてみれば、それだけでプレッシャーですよ。そんなことは、ちょっと目線を子供の側に移したらスグにわかること。あるいは、何かと「子供に見せたくない」などと言い出す人に対しては、相談を持ちかけられないでしょ?だって、そんな人に対し、子供が何か本音を言ったら、「ケシカラン!だからそんなものは見るんじゃない!とあれほど言っていたのに!!」と怒られる・・・そんなシーンは子供だって予想できますよ。 結局は、子供の側から問題を持ち込まれたくないわけです。ただ一方的に大人の都合を連呼するだけ。まさにトルストイが描く「アンナ・カレーニナ」のように、「ワタシは現実を見たくない!」と子供からの訴えから逃げ回っているだけ。 抑圧的な状況だと、おのおのが、諸般の事情に配慮して、空気を読みあうことになる。 だから子供っぽさが許されない環境とも言える。 それこそナチスの例を見るまでもなく、そんな集団の中では、「見せたくない」「読ませたい」なる文言が踊ることになる。 見たこともない、そのキャラクターについて何も知らない子供相手に、つまらない倫理的な本を推薦するよりも、自分自身でそんな歴史書を読んでみたら?歴史を紐解けば、その手のペルソナ・ノン・グラータ(歓迎せざる人物)ならぬリベル・ノン・グラータの事例がいっぱいでてきますよ。それこそ有名なE・ブロンテの「嵐が丘」も、「良家の子女に読ませられない!」との選定を受けたこともあります。あるいはシェークスピアだって、そんなレッテルを貼られた時期もあるわけ。力のある芸術作品なんて、出た当初は「不道徳だ!」とかのクレームが出るのがお約束なんですね。逆に言うと、画一化されてしまった人間の存在を揺り動かす力を持つ作品は、PTAのような管理組織からは嫌われることになる。 前にも書きましたが、人を抑圧する組織は、「あの王様は、実際はハダカじゃないか?!」という指摘が出ないようにしたい。まあ、王様の服装はともかく、「この親も、いつもキレイごとを連呼しているけど、実は自分自身では何もわかってはいないぞ!」なんて指摘は、実際にあったりするでしょ?逆に言うと、「管理する側」は、そんな指摘が出ないようにしたい。たとえばPTAのような集団も、「PTAは不要だ!」などという指摘に対しては、「なんだと?!オレたちをバカにするのか?!」と過激に反論したりするけど、「PTAのお偉方って、結局は、子供の話を聞いていないんだよね・・・」という声に対しては、ダンマリでしょ? 自分自身を抑圧している人間は、規格品的な感情を超えた作品に対しては、恐怖心が伴う拒否反応が起こるもの。そんな力のある作品は、規格品として安住している大人の安寧を打ち壊す。規格品的な感情を打ち壊すパワーを受け入れられるのは、子供だけ。 PTAごときが、芸術を理解できないのは当然のこと。べつに理解する必要はないわけですが、威張りくさって、「子供には見せられない。」なんてレッテルを貼るのは、神への冒涜ですよ。 前にも書いていますが、作品を推薦するのなら、「個人→個人」という流れが基本となります。自分自身が、よく知っている相手に対して、よく分かっている作品を推薦するのはアリでしょう。いずれにせよ、不特定多数に対しては、推薦ではなく、紹介というスタイルが基本なのでは? 何と言っても、相手のキャラクターがわからないわけですからね。 分からない相手に対して「推薦」と言っている時点で、いかがわしいわけ。それは、作品を「紹介」することができない・・・別の言い方をすると、「その作品はどんな問題意識を背景にしていて、どんなテーマなのか?」それを解説することができないという意味になるわけです。 それができないがゆえに「見せたくない」「見せたい」なる漠然とした推薦の言葉になってしまう。 つまり、気安く推薦なんて言葉を使う人は、自分の思考も自分の言葉も持っていない人なんですね。だからこそ、子供も同じような抑圧状況に置こうとする。キャラクターが分からない相手に対して行う作品の推薦は、「空気を読ませる」スタイルの管理や支配の手法になっているわけです。 抑圧状況となると、カルトがその典型といえます。前にも書いていますが、カルトは芸術作品を生み出さない。 しかし、面白いことに、カルトの周辺では面白い芸術が生まれたりするもの。何もカルトとまではいかなくても、ダメダメの周囲では、力のある芸術が生まれたりするもの。 カルトそのものと言える韓国や中国では芸術が出てこない。 しかし、ダメダメとマトモが交差し、混在するような地域・・・たとえばロシアとかイタリアとか大阪とか・・・では、意外にも力のある芸術が生まれたりするもの。逆に言うと、マトモ一色の世界でも、芸術は生まれにくい。 それこそ、日本の20世紀の美術なんて、第2次大戦中の作品が一番力がある。 それだけ、創作する人が、目の前の現実を必死で見て、必死で生きて、必死で考えたんでしょうね。日本の美術も、平時においては、形重視のつまらないものが多く、自称芸術家の独りよがりの作品が多いわけですが、命の危険があると、「これだけは残したい!」「これだけは伝えたい!」と真剣さが出て来るんじゃないの? そんな必死さは、大所高所から、「推薦!」なんてレッテルを貼って喜んでいる人間には理解できない境地ですよ。せっかく、すばらしい新鮮な視点を提示している作品でも、PTAのようなカルトっぽい人たちが倫理的なり政治的な観点から解説したりするので、その作品の本当の力や作者の問題意識が紹介されなくなってしまう。抑圧的な人は、新しい視点などは受け入れることができない。ただ、自分が前から思っていたことを、作品を通じて再確認したいだけ。そして再確認できた作品を誰かに推薦して、「これでオマエも、再確認しろよ!」と言い出すことになる。 以前に取り上げたノーベル賞作家のエルフリーデ・イェリネクさんの「ピアニスト」という小説の中で「コンサートの聴衆は、前から自分で分かっていることをコンサートで再確認しているだけだ。新しい発見なんて求めていない。」なる記述がありました。あるいは、これも以前に取り上げたチェーホフの手記の中に「読者は前々から分かっていることを、作品を通じて再確認したがる。」というような記述があります。 まあ、一般の受け手というのはそんなもの。新しい視点を提示している作品は喜ばれない。それこそ「不道徳的だ!」なるクレームとなってしまう。 新しい視点が与える恐怖と向き合う心理的な強さがないわけです。 心理的な強さや、感性の鋭敏さがないのはしょうがないわけですが、そんな人たちが大手を振ってしまうと、大衆の一時的な気を紛らわす作品が求められることになってしまう。 あるいは、自分で考えることから解放してくれる「倫理的」で「道徳的」な作品が求められる。自分で考えることから解放する効果を持つ作品なんだから、支配者にしてみれば、役に立つ作品といえる。 現在の中国とか韓国とかは、政治的な主張なり、倫理的な説教くさい作品はあっても、人間の真理をついた作品はないでしょ?逆に言うと、そのような説教くさい作品ばかり出て来るということは、その集団がカルトということ。 倫理は人の道。逆に言うと、倫理は神の道ではない。 芸術とは子供のものであり、幼子のように心を虚しくする・・・それが神への道。 そして、子供の視点を持つ作品は、既存の画一化した存在を揺り動かす力がある。 それが、本当の意味で力のある作品ですし、だからこそ、この世に生きるものにとっては、「毒にも薬にもなるもの」。そのような、心の安定を揺り動かす力のある作品は、おいそれとは推薦できるものではありません。 キャラクターの分かっていない相手に、推薦している段階で、芸術というものが分かっていないわけですし、それは単に、感性の問題というよりも、子供の心がなくなって、頑なになっているということ。 だからこそ、子供たちを、自分と同じような頑なな心にしたがるわけです。 以前にも書きましたが、「知の伝統の系譜」と、「伝統的な知の系譜」は違ったもの。 カルトとか管理団体とかは、「伝統的な知の系譜」の作品を推薦することになる。しかし、それこそシェークスピアもベートーヴェンも、ゲーテも、「知の伝統の系譜」であって、「伝統的な知の系譜」ではありません。 「知の伝統の系譜」は、それこそ、フランス絵画のアンデバンタン展のように、「推薦されなかった」側から出て来るもの。 PTAの皆さんも、教養がないのはともかく、せめてそのことくらいは分かっていないとね。 (終了) *************************************************** 発信後記 作品の推薦というのは、推薦する対象の人間のキャラクターについてわかっているのが基本でしょ?それこそ、「このような問題意識を持っている人には、この書籍が有効だ!」 そんな流れが基本。 しかし、抑圧的な人は、まさに推薦という行為がスパム化されてしまうわけ。対象について考えることに心理的な恐怖を持っている。 ある程度、推薦の相手先のキャラクターについてわかっていれば、作品を推薦する行為も、価値があると私は考えております。 そういえば、このメールマガジンも、どこかから推薦されたこともあったらしい・・・ まあ、なんて無謀なことを!! もちろん、今ほど毒々しくはなかった頃のことでしょうが・・・ このメールマガジンの文章は、確たる問題意識を持った方には有効な文章だと考えております。その前提条件を分かった上での推薦なら意味があるでしょう。 ちなみに、このメールマガジンを読めるくらいの問題意識のある方に、この私が推薦図書を提示すると、新約聖書となります。多くの購読者さんが、既に読んでいるでしょうが、もしお読みになっておられないのでしたら、一読をお勧めいたします。 なんと言っても、このメールマガジンでは、呆れるほど、新約聖書からの言葉を引用しています。私はクリスチャンではないのですが、新訳聖書の記述はすばらしい。 それこそ「子供の読ませたくない!」などと管理したがるPTAなんて、新約聖書に出て来るパリサイ人の姿とそっくり。 本文中に書いた「知の伝統の系譜」と「伝統的な知の系譜」の対立の構図は、この二千年前から何も変わらないわけ。 |
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R.10/12/28 |