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カテゴリー | ダメダメ土曜講座(トピック編) |
配信日 | 09年11月28日 |
タイトル | 夫婦別姓問題 |
なんでも、今回の内閣で大臣になった社民党の福島さんは、夫婦別姓に熱心とか・・・ 是非とも、民法の改正をしたいとおっしゃっているようです。 報道などで紹介されておりますよね? 「経済危機のこの時に、その議論をする必要があるのか?」 そんな問題は当然のこととしてあるでしょう。 しかし、じゃあ、今じゃなかったら、どうなの? そんな考えもあるでしょう。その時になって、初めて議論を始めるよりも、事前に色々と考えておいてもいいのでは? それに、その問題は、まさに家庭問題なんだから、少なくとも経済問題よりも、このメールマガジンのマターになってくる。ということで、今回はその問題を考えて見ましょう。 今回の文章は、夫婦別姓問題そのものというよりも、夫婦別姓を主張する心理から見えてくるもの・・・そんな観点での文章です。 夫婦別姓でもOKを主張しておられる方は、「今まで、なじんできた苗字なんだから・・・」そんな理由なんでしょうね。 そして、夫婦別姓に反対されておられる方は、「子供はどうなる?」そんな点が中心でしょ? しかし、その苗字になじんでいるも何も、たかが30年くらいでしょ? 何故にそこまでこだわるの?その人のご友人で苗字を変えて苦労した人がいるの?そのご友人はどんなことをやっていて、どんな点に困ったの? もうちょっと具体的に考えないと議論は進まない。 しかし、ダメダメ家庭の人間は、往々にして「変わりたくない」と思っているもの。 「自分がどうしたいのか?」その点について考えるのがイヤなので、「とりあえず、そのまま」の状態にしておきたい。 苗字を変えることが不便というプラグマティックな問題なのではなく、苗字について考え、判断することに対して心理的な恐怖を持っているわけです。 そもそも、苗字も統一できないような夫婦だったら、無理に法律上の夫婦になる必要もないのでは?事実婚でいいのでは?財産云々というのなら、逆に言うと、夫婦がお互いにかなりの収入があるからこその夫婦別姓なんでしょ?だったら事実婚で十分じゃないの? ただ、夫婦の苗字を統一することを法律の段階で規定する必要もないでしょう。選択の幅は広い方がいいのでは?私個人としては、積極的に賛成もしませんが、特に反対もしませんよ。そもそも、周囲の人間にしてみれば、いい指標になるわけですからね。 私としては、制度そのものよりも、そこまで夫婦別姓にこだわる心理に対して関心を持っているだけです。 現行の法律でも、夫婦の苗字だって、話し合いで、妻の側の苗字に夫が合わせてもいい。 しかし、現実を見ていると面白いもので、そのパターンはコケている事例が多い。 そこまで苗字にこだわる夫婦って、それだけ実家が封建的で「権威主義的」なことが多いわけ。 妻の実家が、封建的であるがゆえに、妻の苗字に合わせることになる・・・よく言う婿養子パターン。 そんな人たちが作った家庭を考える際には、苗字がどうこうではなく、その実家の封建的なキャラクターや、権威主義的なキャラクターが問題だったりするもの。 以前に、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」から「権威主義」についての記述を抜き出しました。 宗教改革のマルティン・ルターの権威主義的な性格を論じた記述です。 今回の文章でも、ちょっと抜き出してみましょう。 「ルターは権威をたたえ、それに服従しようとする。しかし同時に彼はみずから権威であろうと願い、他のものを服従させたいと願っている。」「権威主義的性格には、権威に挑戦し、『上から』のどのような影響にも反感を持つ傾向がある。」「権威主義的性格にとっては、・・・・行動は、決して未来の、まだ生まれていないもの、力のないもの、人生そのものの名における行動とはならない。」「権威主義的性格は過去を崇拝する。」 自分の実家につながる苗字を必死に守ろうとする態度は、過去を崇拝する権威主義の性格を理解していると、実に理解しやすい。 そして、日本で、夫婦別姓を主張している人は、まさに上記の権威主義的な性格そのものでしょ?未来の存在である子供を向くのではなく、過去の存在である実家こそが重要になっている。 エーリッヒ・フロムは、権威主義的性格とプロテスタントとの心理的相似性を指摘したわけですが、そのプロテストは、マルティン・ルターのような宗教的プロテストだけでなく、社民党のような政治的プロテストでも同じなんですね。 そもそも権威が嫌いなら、非難して反抗するよりも、さっさと避難すればいいだけ。 逆に言うと、それだけ権威に対して執着があるわけです。 と同時に、自己否定の心理も持っている。 過去に盲従することで、現在の自分や将来の自分を否定するという、いわば「マゾヒズム」の心理につながるわけです。 自分の判断を信用できない、判断をしたくない・・・それゆえに、判断の場や自分自身のそれまでの行動や判断から逃避しようとする。 それこそ夫婦別姓でも、自分のこれまでの業績に本当に価値があると思っているのなら、逆に言うと、これからの自分の業績も、確信が持てるでしょ? 自分の判断に自信がなく、これからの業績にも自信がないがゆえに、今までのものにこだわらなくてはならない。 もっと極端に言うと、自分自身の判断を否定的に見ているがゆえに、苗字について自分がする選択も、否定的に見てしまう。だから何も判断しなくて済むようにしておきたい。 自分の判断を否定する心情は、それこそ「こんにゃくゼリー」を買わないという判断ができない心理とも共通している。実際にメンツもかぶっているでしょ? 自己否定であるがゆえに、自分が存在する以前に成立していたレッテルをありがたがる。 まさにマルティン・ルターがいう「神は我々の正義と知恵によってではなく、・・・・我々から出てくるのでもなく・・・・我々の内に潜むものでもなく、どこか外から我々にやってくる正義によって、神は我々を救おうとし給う。・・・言い換えれば、正義はもっぱら外部からやってくるものであり、我々とはまったく縁がないということが、教えられなければならない。」 そのルターの考えと、自分が生まれる前から規定されていた苗字への執着は、つながっているでしょ?抑圧的な人間にしてみれば、自分の思考や判断とは無縁であるがゆえに、ありがたいわけです。 判断が怖いんだから、苗字についても、何も判断せずに、ダラぁ〜と流れるままにしておきたい。 前にも書きましたが、制度としては夫婦別姓でもいいのでは? それを実際に利用するかどうかは別問題ですよ。 私としては、自分の実家の問題を見つめなおす機会になれば、それはそれで結構なことと考えるだけです。ただ、その点で言うと、夫婦別姓というのは、腰が入っていない半身の姿勢であって、逃げ口を確保した状態と言える。 やっぱり「ふんぎり」が必要なのでは? ただ、どうせなら、夫婦が別姓を許可されるのなら、親子の別姓も許可してほしい・・・私個人としてはその考えです。 たとえば15歳から25歳の間に1回は、苗字の変更もできる。そのついでに名前も変更できる・・・そんなシステムがあると、非常にいいのでは? 選択可能な苗字としては、曽祖父母の苗字や旧姓の中から選べるようにすればいい。そうすれば8つの苗字から選択可能ですよ。学校を卒業した時にでも、苗字や名前を変えるのもいいのでは? 自分の親と同じ苗字を名乗るなんて、虫唾が走る・・・そんな人も実際にいるでしょ? 夫婦だったら、お互いを選んだ上で、一緒になるのに対し、親子の場合は、子供は選んでその親の子供になるわけでもない。おまけに苗字だって名前だって子供には選択の余地がない。だからこそ、ある時期に変更できるようにした方がいいでしょう。本来は、親子別姓の法整備の方が重要ですよ。 その選択の時において、自分の将来なり自分の実家について考え直してみる・・・そんな機会ができることになり、それは有益でしょう。 ほとんどの人は、「そのまま」でしょうが、やっぱり苗字や名前を変えたいと考えている人はいるのでは? そもそも、ダメダメな親は、子供の名前を付ける際にも「て・き・と・う」。 そんな家庭の子供は、自分の名前に対し、コンプレックスをもっている。それを解消する機会を作ってもいいのでは? 子供が苗字を変更する権利を認めれば、ヘタをすれば、同居している家族の苗字が全部違ってしまっている・・・そんな状態になるかもしれませんが、そんな家庭は、苗字以上に、前から心がバラバラですよ。 むしろ、それが顕在化されれば、改善の可能性も出てくるわけです。 しかし、現実的には無理でしょうねぇ・・・ 前にも書いていますが、夫婦別姓を主張している人は、「選択の場」そのものが心理的に怖い。だから選択の場を、子供に認めることは拒否するでしょう。 親の権利だけ認めて、子供の権利を認めないとすれば、それこそがまさに封建的な権威主義。 前回の土曜の文章で、夫婦別姓を主張している人は、「苗字を変更して幸福になった人を見ていない。」と書いています。つまり「不幸な母親」を見てきたわけです。 それだけ、父親が強圧的ということ。もちろん、それは子供のせいではない。 苗字を変えるということは、自分が父親から受け継いだものの否定すること。父親が大好きでたまらないから、そのままの苗字を使い続けたいということだったり、父親が嫌いであるがゆえに、今の苗字を否定するのだったら、それはその人の判断でしょう。 しかし、抑圧的なダメダメ人間は、内心では嫌いであるがゆえに、父親について考えること自体がいや。だから、父親に繋がるものも考えたくない。 しかし、だからこそ「父親譲り」の苗字を使い、父親と同じように、自分の被害ばかりを語り、父親譲りの問答無用のコミュニケーションとなってしまっているわけです。 ちなみに、この夫婦別姓問題とほとんど同じ心理なのが、外国人参政権の問題です。 元の国に帰国するなり、あるいは、日本に帰化するなり、あるいは滞留に徹するなり・・・どんな判断でもいいわけですが、その判断が心理的に怖いわけです。 判断が怖いんだから、国籍についても、何も判断せずに、ダラぁ〜と流れるままにしておきたい。そして、そんな判断からの逃避したままの状態でも、恩恵が受けられるようにしたい。 帰化とか帰国の場合には、まさに祖国(=Fatherland)の問題になってくる。 そのことについて考え、判断することが心理的に怖いんですね。 夫婦別姓も、外国人参政権も、政治的には別々のトピックスのように見えるかもしれませんが、心理面から見ると、判断への恐怖と言うまったく同じ問題なんですね。 まあ、片やfatherの評価であり、片やfatherlandの評価や判断をすることへの恐怖なんだから、末尾のlandの違いだけですよ。 人を大きく動かすのは、プラグマティックな損得ではなく、恐怖心。 夫婦別姓なり外国人参政権の問題を真っ先に取り組む姿勢から、その人たちが持つ、「判断の場」への耐え難いほどの恐怖心が見えてくるわけです。 よく、鳩山さんは言動がブレる、なんて声があったりしますが、鳩山さんなり、その周囲の人たちが持つ、判断することへの心理的な恐怖心は、実に一貫して見えてくるでしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 よく書いていますが、政治的な観点からこれらを議論しているわけではありません。 あくまで心理的な観点からです。 別の問題のように見えても、心理的にはまったく同じ・・・そんなことは多いもの。 その例として、よく例示しているのは、憲法9条の狂信者と、輸血拒否の宗教の狂信者の相似。 「このドキュメントに書いてあるんだから、書いてあるままにすべきだ! トラブルが起こっても、自分たちで対処してはならない!」 そんな人たちでしょ?そのドキュメントが、たまたま、片や聖書で、片や憲法というだけ。 その手の人たちは、現状認識を拘束し、思考を拘束し、行動を拘束することで、自己逃避するわけ。 まさにマゾヒズムなんですね。 ちなみに、民主党がダメとか申し上げているわけではありませんよ。 日本の民主党がもつ、プロテスタントとの相似性に注目しているだけです。 それこそ、現実に向き合い、その人たちに柔軟に配慮するという美名の下に、規律を失い、堕落し、そして、やり取りをする相手が限定的になってしまい、閉鎖的になってしまった集団に対抗して、ドキュメントや原理原則に立ち返ることを主張しているんだから、構図はそっくりですよ。 いつも書いていますが、人間のやっていることなんて、時代や場所が変わっても、同じようなことをやっているものなんですよ。 おもしろいことに、アメリカの場合は、考え方としては、民主党の方がカトリックに近く現実重視。共和党の方がプロテスタントに近く原則重視。考え方だけでなく、実際の議員の宗派にも、その傾向があったりするでしょ?政治理念というよりも、心理の方向性から見えてくるものもあるんですよ。 |
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R.10/12/29 |