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カテゴリー | ダメダメ土曜講座(トピック編) |
配信日 | 09年12月31日 (10年7月4日 記述を追加) |
タイトル | 不在の認識 |
このメールマガジンで、居酒屋さんでの言葉「オレは酔っていないぞ!酔っていないってば!どうして、オマエはわからないんだよぉ〜?! ウィッ。」なんて言葉を使ったりしております。まあ、居酒屋さんに行くと、そんなことを言っている人もいたりしますよね? 居酒屋さんで「オレは酔っていないぞ!」と叫ぶ人が一番危険でしょ? 酔ってしまって、認識力なり判断力がなくなってくれば、自分が酔っているという自覚もできなくなる。これは論理的にも、現実的にもそのとおり。 今回は、ちょっとお気楽で、かつシリアスな「不在の認識」の例を、総集編的にまとめてみましょう。今まで多くの文章中で書いてきましたが、今回は総集編的に提示いたします。 自己逃避の人は、自分が自分自身から逃避しているという状態を認識することから逃避するので、自分が自己逃避とは思っていない。 先送りばかりしている人は、自分が先送りしているという判断も先送りするので、自分が先送りしているという判断もしていない。 逆上して、我を忘れていると、逆上しているという自覚をする我もなくなってしまい、自分が逆上しているとは思っていない。 外の世界のことを知らない井の中の蛙は、自分のいるところが井の中であることがわからない。 相談の仕方をわからない人は、相談の仕方について相談しようがない。 人を見る目がない人は、自分の人を見る目のなさの問題について、つまらない人と相談する。 思考の軽い人は、自分の思考の軽さがわからない。 表現力の低い人は、その表現力の低さの問題について、上手に表現できない。 説明能力が低い人は、そのことを上手に説明できない。 文章を上手に書けない人の書いた、わかりやすい文章はないので、そんな人の気持ちは分からない。 常識のない人は、常識のない人が親になってはいけないという常識もない。 子育てに当事者意識がないがゆえに、「覚悟もなく」、てきとう」に親になってしまう。 その例としては、バルザックの「谷間のゆり」のアンリエットがそのパターンです。「ワタシが母親になるなんて、考えたこともなかった・・・」からこそ、実際に母親になってしまう。 記憶を抑圧している人は、そもそも昔のことを思い出さないので、抑圧しているという自覚がない。思い出せないと認識しているのではなく、最初からなかったことになっている。 アタマの中の記憶どころか、物理的な方法としての「写真もなかったり」する。 写真があれば、写真があることを認識できますが、家族の写真がないことは、周囲の人間だけでなく、その家族自身にも認識できていないもの。 だからこそ、家族の写真がなくても、「ウチの家庭はふつうだ!」と豪語できることになる。 これらのことは、何もシニカルなことではなく、論理的に実にまっとうなことでしょ? そして、実に自覚できにくいし、その当事者に説明しにくいし、周囲も認識しにくい。 ダメダメの問題ではありませんが、色盲の人に、どうやって「アナタは色盲だ。」と説明すればいいの?赤が見えないとか、緑が見えないとか・・・健常者は説明されれば理解できる。しかし、実際に色盲の方は、そもそも赤とか緑とか言われてもピンとこない。だからその色が見えないことが、理解できない。 聴覚の健常者だって、いわゆる超音波は聞こえない。皆さんだって、超音波が聞こえないという自覚は持っていないでしょ?その点について、人から言われると、「へぇ・・・そんな高い周波数の音があるんだねぇ・・・」と思うだけ。 特にダメダメの領域では、自分自身を抑圧していることが多く、重要なことほど語られない。見えているもの、語られるものよりも、語られないものの方が重要となる。 たとえば、自殺の際の遺書から、自殺の原因を探す人もいますが、遺書に書いてあることは本筋ではありません。 それこそ、「困っていたら、それをどうして周囲に相談できなかったのか?」その面に本筋があるもの。遺書の中に書けるくらいに自覚があることは、自殺の「きっかけ」であっても要因ではないわけです。 あるいは、それこそ通り魔事件があると「アイツらは虫けらだから、殺してもいいんだ!」なる犯人の主張がでてきますが、そんな言葉からは、語られているものとして、殺意を導きだしやすい。しかし、本来なら虫けら程度だとしても、いや、虫けら程度だからこそ、わざわざ追いかけたりして殺したりはしない。お魚をくわえたドラネコを追いかける人はいても、ゴキブリを隣の家まで追いかける人はいないでしょ? つまり重要なのは、語られた殺意ではなく、語られない心理の方になるわけです。 たとえば、自分自身で本当にやり遂げたいものがないことが、もっと主要な要因なんですね。 自分でやり遂げたりものがあれば、虫けらを、わざわざ追いかけて行ったりはしませんよ。 わざわざ殺すなんて、倫理的に問題というよりも、プラグマティックに、面倒くさい。 「ワタシの声が聞こえない人は手を挙げてくださ〜い!」 そんなボケをかまされたら、まあ、笑って済む話。 しかし、ダメダメの領域では、そんなボケが、現実的に、そして実にシリアスに起こっているもの。 逆に言うと、その点にしっかり注意しないと、ダメダメの問題は見えてこない。 子供の事件が起こったりすると、「子供の側から困りごとは言ってこなかった・・・」とかの弁明があったりするでしょ? しかし、聞く側が耳を閉じた状態で聞いているんだから、子供の本音も聞こえるわけがないじゃないの? 「言いにくい」ことを、どうやって言ってもらうか? 「聞きにくい」ことを、どうやって聞き取っていくのか? そんな点に対して、それなりの方法論を持った上でないと、ダメダメ家庭の子供の本音も出てきませんよ。 このような場合には、当人自身ではなく、周囲の状況から見えてくるものもあるわけです。 それこそ、その人の周囲にボランティアが跋扈していれば、当人がグチばかり言っていることが想定できる。 あるいは、語られる言葉は、周囲にある語られない言葉を指し示すことも多い。 大仰に語られる善意は、善意を実行していないことの証明のようなものでしょ? あるいは、いわゆる「いい人」と評価される人は、その人が何も減点がないということであり、逆に言うと、「嫌われてもやり通す」信念の不在といえるでしょ? そんな周辺からの情報で当人の問題も見えてくることも多く、ダメダメ家庭を考えるにあたって、そのような視点も有効になってくるわけです。 古代ギリシャの哲学者のソクラテスは「無知の知」ということを言いました。 「自分が知っていないということを自覚しよう!」そんな発想です。 そんなソクラテスの言葉を、いわば謙譲な態度の重要性として理解している人もいるかもしれませんが、まったく違っています。知っていないからこそ、知ろうとすることになる。 「ワタシはよく知っていないから、立場をわきまえて、静かにしていよう!」という謙譲の意味ではなく、「知らないからこそ、石にかじりついても知りたい!」そう思うような強い意志の問題なんですね。 我々の眼前にある多くの不在を認識していくこと。まさに、その地点から人類の知は出発したわけです。ダメダメの領域においても、その地点に立たないと、知は出発しないものなんですよ。 (終了) *************************************************** 発信後記 昨日配信の文章が、悲劇的な文章だったので、そのバランス上、お気軽な文章にいたしました。 本文中にも書いておりますが、ソクラテスのいう「無知の知」こそが知の出発点。 それは人類全体においても、個人においても同じこと。 その「自分が知っていないことを自覚しよう!」という言葉を別の言い方をすると、「見えているものを、見えるようにする。」というミシェル・フーコーの言葉になります。 生物的な目で見ていても、心の目では見ていないもの。だから心の目で見えるようにすることが必要だ!というわけ。 ちなみに、本日は追加的な文章なので、明日はいつものとおりに配信いたしますが、内容的には、本日と同じような総集編的で軽いものにする予定です。 本年はお世話になりました。 では、よいお年を! |
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R.11/2/13 |