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カテゴリー 事例から考えるダメダメの問題
アップ日 10年7月24日
タイトル ある家族の肖像 (読者投稿の文章を中心とした文章です。)
今回の文章は、購読者さんからの投稿の文章です。
投稿の文章の後で、管理者による追記があります。

**** 投稿の文章はここから *****

私の両親について書いてみたい。
父は昭和10年代に、沖縄本島周辺の離島で生まれ、そこで育った。父の父、つまり私の祖父は、農業をしていたらしいが、先の大戦で戦死している。どこで戦死したのかもわからないし、遺骨や遺品すら戻ってくることはなかった。

その私の祖父にあたる人は、男3人、女4人の7人兄弟の次男で、ちょうど真ん中の4人目である。父の母親は何度も結婚離婚を繰り返し、私の祖父にあたる人と結婚する前にも、別の男性と結婚しており、祖父の戦死後、また別の男性と結婚離婚を繰り返し、そのたびに子供を作り、父には異父兄弟が何人もいる。
ちなみに、私としては、その祖父の名前は知っているのだが、写真は存在しておらず、祖母は現在も存命のようだが、30年ほど前に会ったきりで、その後は一度も会ったことがない。それと、祖母の名前を私は知らないし、私の実家には写真もない。もちろん、ろくに顔も覚えていない。

父は、私の祖父の戦死した後に、祖父の兄であり、父にとっては伯父に当たる夫婦によって育てられた。その伯父は農業を営んでいた。祖母は父とは父親が違う姉と近所に住んでいたが、父は自分を養育してくれている伯父から、父の母と異父姉に会うことを禁じられたそうである。父が小学生の時に、帰宅途中の路上で、その母から文房具をもらったことがあり、そのことを伯父に話すと、すぐにその文房具を母親に返すように命令されたこともあった。
ちなみに、その伯父夫婦には子供がおらず、その伯父の弟の息子である父よりも、妹の息子であり、父にとっての従弟の方を溺愛した。その溺愛ぶりは半端ではなかったそうである。

父はその伯父から、虐待を毎日のように受けていたそうで、よく意味もなく殴られていたそうである。その事実を知っていたはずの実の母親は虐待されている父を守ろうとも、かばおうともしなかったそうである。だから父は祖母を相当怨んでいるらしく、私の祖母を母親とは思わないと言っていた。

また、父は十代の後半に、育てている伯父の虐待に耐えられなくなって海に身投げして自殺しようとしたのだが、あいにく泳ぎが上手かったので死ぬことができなかったそうである。
父のその伯父についてだが、子供の頃から相当に苦労したらしく、私の曾祖父に当たる人が賭けごと(闘牛)で作った借金の返済のために、沖縄本島にある港に肉体労働者として売られた。その後、戦争となり「赤紙」が来て、兵隊として南方に派遣されたという。
父を育てたその伯父は、今から1年ほど前に亡くなった。

ここで、私の母親の話をしておこう。
母は私の父が生まれる2年前に、関東地方に9人兄弟(男5人、女4人)の三女として生まれた。実家は貧しい農家だった。
母方の私の祖父は、母が幼い頃に、酒に酔った状態で自転車を運転し、用水路に落ちて溺死したという。そこで、母親の長兄に当たる、私の伯父が28歳の若さで家の跡を継いだ。
ちなみに、私は祖父と祖母の名前を、つい最近知った。実は先日、母に聞いたのである。それまで私自身は、祖父と祖母の名前について何も関心がなかった。
私は、関東地方にある母の実家には子供の頃などに、墓参りも兼ねて数回行ったことがあり、そこで祖母とも会ったのだが、あまり印象には残っていない。祖母は私が23歳の時に亡くなった。

そう言えば、父と母のそれぞれの母親に共通して言えるのは、「貧乏子だくさん」と言うことであろうか。問題の先送りをしているようにしか見えないのだが、その当時はそうするしかなかったのだろうか。

母は中学の時に大阪府の遠縁の親戚の家に養女となった。そこは医療関係の仕事を営んでおり、いずれは母も資格を取り、婿を迎えて後を継ぐことになっていた。母がその家に養女に入った理由として、関東地方の実家があまりにも貧しかったので、その家に行けば少しは楽な暮らしができるのではと思ったからだそうだ。実際に、その生活は結構豊かなものだったそうである。
私の母親の養母になった大阪の女性は男勝りで、養父は病弱で賭けごとが好きな人だったそうだ。封建的な家庭だったそうで、養女である母にその時代の流行や社交を禁じたそうである。病弱だった養父は、母が養女に入った数年後に亡くなった。

ここで、私の父親の話に戻ることにする。
父は高校生の時に病気にかかり、私の祖父の兄であり、父の育ての親といえる父の伯父とともに親戚を頼って大阪で手術を受けた。しかし、予後が悪く、後遺症が残った。
その後、遠縁の親戚が身元引受人になり、大阪の学校に入学することになり、そこで、民間医療の資格を取得した。当時の沖縄はアメリカ統治下で、その手の資格を取れる学校はまだなかった。

私の父は、学校を卒業してから数年後に、大阪で仕事を始めたのだが、開業後、間もなく、お客か誰かの紹介で、私の母と見合いをすることになったそうである。
その見合いでは、母本人よりもむしろ母の養母の側が父を大変気に入り、そこで父が婿養子として、母の養母の家に入ることになった。父が婿養子に入ることを決めた理由として、そこの家が女二人だけの家庭なので、どうにか自分の思い通りになると安直に思ったらしい。
しかし、調子が良かったのは最初だけで、だんだんとうまくいかなくなったようである。父はあまり仕事をしなくなり、パチンコ店通いをしたこともあるそうだ。

結婚生活は3年ほど続いたが、義母と折り合いよくやって行くことができずに、父は家を飛び出してしまった。母も父の後について行ったそうなのだが、その時には私の兄がおなかの中にいたそうである。

あと、私の母が父と一緒に養母の家を出ることを決めた理由として、母のすぐ上の姉が離婚してしまい、母が家を出る数年前から、関東から、わざわざ大阪の養母の家に転がり込んできたことがあった。そこで養母と姉は意気投合したらしく、養女である母よりも姉の方をかわいがるようになったそうである。それが母にはどうしようもなく不満でたまらなかったそうである。

その後、私の母は、関東の実家に身を寄せ、そこで兄が誕生した。昭和40年代のことだった。
父はそこでも折り合いよくやって行けず、実家の近くにアパートを借りて暮らしていたそうなのだが、その生活も長続きはしなかった。

そこで父は、沖縄に帰ることにしたのだが、母も沖縄についていくことにしたそうである。その当時の沖縄はまだ日本本土に復帰はしておらず、パスポートがないと沖縄には行けない時代だった。
その当時の沖縄は、大阪や関東と比べると相当貧しそうに見えたし、実際に本当に貧しかった。母の兄弟たちは父についていく母を止めようともせず、むしろ引越しの荷物をまとめるのを手伝ったそうである。

沖縄での生活は母には相当堪えたらしく、大阪や関東での生活と比べて、特に食事の面での貧しさ、粗悪さなどのギャップの大きさについて、今でも愚痴を聞かされることも多い。
では、なぜ母は父について沖縄に来てしまったのだろうか?それは、実家周辺では子供が「ててなしご」として差別されるからだそうだ。

沖縄は、1970年には「コザ暴動」も起こったりして、70年代は、ベトナム戦争の影響がまだ顕著な状態だった。
父は、父の従兄夫婦の紹介でアパートを借りて住み始めた。住む場所の見当がついたので、母と、生まれたばかりの私の兄を呼び寄せた。そして、その時には、母にとっての母親と長兄も様子を見るためについてきた。

本土よりもかなり貧しい沖縄の光景を見て、私の祖母と伯父は一体何を思ったのだろうか?しかも、父の実家のある離島にまで、実際に行ったのである。これから母が背負わなければならないと予想される苦労に対して何も感じなかったのだろうか?その祖母は母に対して、「苦しかったらいつでも実家に帰ってくるように。」と言っただけだったそうである。

その後、母親の長兄に当たる伯父は自分の妹である私の母の様子を見るという名目で、何度も沖縄に来た。名目は様子見であるが、その実は当時の沖縄の基地周辺でよく見かけるアメリカ車やその他の外国車の品定めや、基地周辺の歓楽街で遊ぶ目的で来ていたようである。

そして、1972年(昭和47年)、沖縄が本土に復帰した。
日本領になった後になって、私も生まれた。

私たち家族は、基地近辺に住むことにした。その理由としては、当時の基地周辺のベトナム戦景気とでも言おうか、好景気に沸く町の魅力に惹かれたのではないかと思う。

ベトナム戦末期になると、アメリカ兵たちは生きて沖縄に帰ってくることを願って、たとえば100ドル札に願い事を書いて、それを散財した人もいたという。
ある店では、一晩にドラム缶一杯のドル紙幣や硬貨を稼いだ店もあったという。
その伝説が沖縄中に広がり、一攫千金を夢見て、沖縄本島のみならず、周辺離島からも商売をするために基地周辺に多くの人々がやってきたという。

確かに、他の市町村に比べると、基地周辺には豊かな人が多いのは事実である。
その反面、商売に失敗して破産した人も多かった。また、成功して財産をなしたものの、精神を病んでしまった人もいる。

「たとえ、その人自身が精神を病むことはなくても、その人の子供たちは、今はどうなっているだろうか?」
記憶にある、その人たちの姿を思い出しながら、私は、そのようなことを考えたりするのである。

************* 以上 投稿の文章です ******

さて、ここからが、このサイトの管理者による文章です。

今回投稿された方の文章で、やがて夫婦となった男女の生い立ちが語られております。
ご一読された方がすぐに思われるであろうことは、
「なんと、似たもの同士の夫婦なんだろう?!」ということでしょ?
それこそ、愛情や思いやりのない家庭環境、あるいは、家庭を運営していくことや、子供を育てることへの責任感の欠如。
そんな家庭の雰囲気は、夫婦の双方とも、まったく共通しております。

それだけではなく、たとえば、本来は優先して保護養育しなくてはならない対象のことは放っておいて、いわばオプショナルに登場した対象を、一生懸命に養育したりする家庭環境であるところも、実に良く似ている。トルストイが描くアンナ・カレーニナの姿そっくり。
逆に言うと、オプショナルな子育てだと、イザとなったら、スグにやめることができて、お気楽にできるので、当事者意識がなく責任感がない人間にしてみれば、精神的にラクになる。
オプショナルな対象を熱心に養育する姿は、愛情や思いやりから来ているのではなく、自分自身に直接的に関係のあることから逃避したいという心情なんですね。肯定ではなく、二重否定的な心情といえるでしょう。

あるいは、オプショナルな対象への過剰な愛護は、本来の対象への犯人認定につながっていくわけ。「こいつのせいで、うまくいかない。」そのような関係性を、自分で確認するための、「それ以外の」対象への献身となるわけ。

さて、昨年09年の7月において、人間の心理的なベースの問題について集中的に考えて見ました。その折に、カーターとマクドルドリックという学者が指摘している、夫婦の相互適応に困難が生じる前兆的な要因を取り上げております。
いわば、離婚しやすい夫婦のパターンについての記述です。
信頼・安心の心理的ベース」というタイトルの文章に収録しております。
ここで、もう一度とりあげてみましょう。

1.カップルが何かの重要な対象喪失(肉親や親友を失う)の直後に出会い結婚する。
2.結婚の動機の中に自分の実家から距離をおきたい、あるいはそこを抜け出したいという願望が強くはたらいている。
3.それぞれの配偶者の家族的な背景がかなり異なっている。
4.カップルのお互いの兄弟数があまりに違う。
5.配偶者のそれぞれのどちらかが、実家からあまりに隔たりすぎているか、異常に親密すぎる。
6.経済的、情緒的にカップルが実家に依存する度合いが高い。
7.20歳以前あるいは、30歳以後に結婚する。
8.6ヶ月よりも短い交際期間、あるいは3年以上の婚約期間を経て結婚する。
9.結婚が家族や友人の立会いなしで行われる。
10.妻が結婚以前あるいは、結婚後1年以内に妊娠する。
11.どちらかの配偶者が、自分の兄弟や両親とごく貧弱な関係しかもっていない。
12.どちらかの配偶者が、自分の子供時代や青春時代をとても不幸な時代だったと考えている。
13.どちらかの実家の父母や兄弟の結婚生活のパターンが著しく不安定である。

今回の投稿の文章での夫婦においては、上記の、2番、5番、8番、11番、12番、13番が該当いたします。

しかし、逆に言うと、4番、11番、12番、13番などが、双方とも実に共通している。
あるいは、6番においては、まったく逆という点において、共通している。
あるいは、兄弟の数が実に多いという点で、共通性も高い。
そのような喪失の面での共通性があるために、夫婦のやり取りにおいて齟齬が目立たない。
というか、これだけ問題のある人は、マトモな人とやり取りが成立しない。だって背景となっている常識が、一般の人とはまったく違っているわけですからね。

上記の「齟齬が見えない」という表現は、このサイトで頻繁に言及しておりますが、まさに二重否定的な表現といえるでしょう。
じゃあ、二重否定はいいとして、シンプルな肯定といえるの?
「齟齬が見えない」のはいいとして、じゃあ、合意していること、共感していることは何なの?家庭についてのイメージは共通しているの?どんなイメージを持っているの?
そのような話になるでしょ?

この夫婦は、それがないわけ。
「持っていない」と言う点において、共通性があっても、「持っているもの」は、何もない。
子育てに対する責任感というものが、ない・・・そんな出身家庭であることについては、実に共通性が高い。

じゃあ、そんな夫婦が、実際に子供を持ってしまったらどうなってしまうの?
子育てに対して責任感を持っていないがゆえに、「何も考えずに」子供を持ってしまう。
そして、自分が非常にイヤだと思っていた、自分が受けた子育てを、自分でもやってしまう。
自分の子供時代が、非常に不快だったので、子育てについては、自分では何も考えたくない。
何も考えないがゆえに、何も考えないでもできてしまう、「なじみ」のやり方を踏襲するしかない。

何も考えないがゆえに、なじみのやり方しかできず、結果的にトラブルが連鎖することになる。
まさに、離婚の連鎖なり、子育てにおけるネグレクトの連鎖が起こってしまう。
あるいは、かつて家族から自分が犯人認定を受けたように、今度は自分の子供を犯人認定することになる。

この夫婦は、「もっていない」という点において、共通性が実に高い。
それゆえ、周囲のマトモな人とのコミュニケーションがとれないので、夫婦お互いの「不一致点が目立たない。」。だから、結果的に離婚しない。
マトモ家庭出身者とであれば、スグに離婚となってしまうでしょうが、同じようなダメダメ家庭出身であるがゆえに、離婚しないことになる。

上記の「離婚しない」という表現も、まさに二重否定表現といえるでしょ?
結婚生活を肯定しているのではなく、離婚を否定しているだけ。

この夫婦は、「ないもの」「否定しているもの」を共有できても、「あるもの」「肯定しているもの」は共有できていない・・・というか、もともと何も肯定していないわけ。

しかし、何も肯定していない人間が、子供を持ったら、できてしまった子供を肯定できるの?
そんな親によって養育された子供は、長じた後になって、自分の子供時代をとても不幸なものと感じて、子供時代について考えることから逃避する。
だからこそ、また、何も考えないまま、「なじみ」のやり方を繰り返すことになる。

トラブルの連鎖は、「考えない」ことが、その大きな理由になっているもの。
不快なことであるがゆえに、ちょっとでも考えると、精神的に参ってしまう。
自分で考えないための大義名分として「ふつう」なる言葉がよく使われることは、このサイトで頻繁に言及しております。

まさに「ワタシは、ただ、ふつうになりたかっただけなのに・・・どうして、こんなことに?!」と嘆きの声を上げるわけ。
しかし、「ふつう」という言葉を使うことで、「何も考えない」状態のままなんだから、同じことを繰り返すことになるのは、論理的に当然のことでしょ?

この家族ですが、まさに「繰り返し」を「繰り返して」いる。
しかし、ちょっと注意して、自分で考えてみれば、避けることができる事例ばかりでしょ?
なぜって、このまま行けば、トラブルになるということを、体験として知っているもの同士なんですからね。しかし、お互いが、見ようとしないし、考えようとしないわけ。

もっとも不快なことであるがゆえに、自分でその問題を考えることが怖い。
しかし、見ないし、自分で考えないからこそ、トラブルは繰り返すものなんですね。