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カテゴリー ダメダメ家庭出身者のキャラクター
配信日 05年11月16日
タイトル 甘い言葉に弱い
先日配信の文章において、有名な映画女優であるオードリー・ヘップバーンについて考えてみました。彼女はまさに典型的なダメダメ家庭出身者といえます。そのオードリー・ヘップバーンが主演した64年のミュージカル映画「マイ・フェア・レイディ」は、もともとはノーベル賞作家のバーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」という作品がベースとなっています。

このバーナード・ショーの方の「ピグマリオン」の方では、路地裏の花売り娘だったけど、必死の努力の結果によってレイディになった主人公の女性イライザは、厳しい指導をしてくれたヒギンズ教授ではなく、ラヴレターを1日に何通もくれるフレディの方とくっついてしまうことになる。
ミュージカル映画「マイ・フェア・レイディ」では、ラヴコメらしく、ヒギンズ教授と結ばれるわけですが、原作の「ピグマリオン」では、そうは行かない。

しかし、映画「マイ・フェア・レイディ」をご覧になった方ならお分かりしょうが、あの使いっ走りくらいしか能がないフレディを結ばれても、イライザの将来はありませんよね?確かにフレディには善意があるでしょう。まるで「恋に恋する」ような純粋な善意がね。

それにフレディはヒギンズ教授よりも、人格面では優れていると言えるもかも?
行儀も言葉使いも、フレディの方がマシと言えるかも?
ヒギンズ教授の言い方なんて、それこそ
「オマエの悪い点はここだ!バカモノ!」
「このままじゃ、昔の路地裏生活だぞ!」
そんな感じ。まあ、もうちょっと丁寧な物言いがあっても・・・とも思わないわけではありません。
しかし、ヒギンズ教授の言っていることは真実でしょ?

加えて、ヒギンズ教授はどっちかというと性格が悪い。
傲慢で自分勝手。
えっ?「こんな文章のメールマガジンを書いているアンタが、人の物言いの乱暴さや性格の悪さを言えるのか?」って?
まあ、その点は私も自覚していますヨ。

自分の事態を改善するということは、自分が直面している問題を解決していくということでしょ?その自分自身の問題点を指摘してくれないと、問題の解決なんて出来ませんよね?しかし、誰だって自分の問題点を指摘されるのはイヤなもの。ものの見事に自分の欠点を指摘されてしまうと、「何よ!ヒドイこと言うわね!」「あの人は、このワタシのことを全然わかってくれないっ!キーっ!」と逆上するだけ。

だから、往々にして甘く優しい言葉を掛けてくれる人間を選んでしまう。しかし、だからと言って、そのようなやさしい言葉を掛けるフレディが、イライザが過去に直面した、そして将来において直面する現実上の様々な問題の解決に「頼りになる」人間とは言えないでしょ?

しかし、ダメダメ家庭出身の人間は、常に「自分は理解されていない。」と思っている。まあ、実際に周囲から理解されていないのだから、この認識は間違っているわけではありません。
しかし、被害者意識を伴って「自分は理解されていない。」と考えているので、どうしても自分に甘い。
周囲の人間から自分が理解されていないことを、自身の言動が一般人から遊離していることとか、自分の説明能力の欠如の問題としてみるよりも、自分がこうむっている被害として認識している。自分以外の人間のせいにしてしまうわけです。

被害感情があるので、自分の問題を厳しく指摘するような人間よりも、何となくおだててくれるような人を選んでしまう。このことは以前に「おだてに弱い」というお題で配信しております。しかし、このようなことはダメダメ家庭の人間ではなくても、そんな面はありますよね?
しかし、ダメダメ家庭に特有の被害者意識のせいで、その面を、より強く持っている。
それは、血のにじむような努力をした、また、自分の現状を改善するために、自分が持っている「なけなし」のお金を投入したイライザのような人間だって同じ。

本来なら、その使いっ走りのフレディだって、ラヴレターを1日に何通も書くよりも、もっと自分自身の勉強でもした方がマトモでしょ?
そんな自分自身の問題と向き合わないでどうするの?ただでさえ「使いっ走り」しかできないのに、ますます向上しないじゃないの?

最後にヒギンズ教授とくっつくミュージカル「マイ・フェア・レイディ」のような事例ではなく、甘い言葉ばかりのフレディとくっつく原作の「ピグマリオン」のような事例でしたら、現在でも実に頻繁に見られるものでしょ?

ダメダメ家庭出身の人間が自分を向上させようと、自分自身の問題と厳しく対峙しようとしているのに、周囲の人間が甘ったるい言葉で同情してしまう。
「あなたはお気の毒ねぇ・・・」
「アナタは全然悪くはないのよ!」

しかし、必死の努力している人間に対し、そんな甘い言葉をかけるようなボランティア人間は、聖アントニウスを誘惑する魑魅魍魎と同じ。
本人の向上なり、事態の改善には一番厄介な存在というわけです。

聖アントニウスはそんな魑魅魍魎を退けることができました。しかし、人間すべてが聖アントニウスのように強い精神を持っているわけもない。
だから、ダメダメ家庭出身者は、そんな甘い言葉に負けてしまうんですね。
まさにこんな感じで自分に言い訳をすることになる。
「だってぇ・・・ワタシはかわいそうな人間なんだから・・・」

後進国(敢えてこう書きますが)の援助問題だって、このような事例は、よくあるでしょ?
援助は必要でしょうが、その国の人に自覚がないと、無意味でしょ?
食料が足らないということで、食料を援助しても、その食料を食べて、子供を沢山作って、また食料が足らなくなるだけでしょ?そんなことになったら、一時的に満ち足りた食料のせいで出来てしまった子供が一番気の毒じゃないの?食料をもらったことを生かして、余った時間で勉強するとか・・・そんなことをしないと事態の改善なんて無理でしょ?

「本人たちは、そのようなことを分からないんだ!」「彼らはお気の毒な被害者だ!」とおっしゃる方もいますが、彼らが「わからない」のなら、食料だけでなく、「分かる」ための援助も必要でしょ?つまり彼らの問題点を指摘する必要があるわけです。
本人たち自身の問題点についての自覚がない限り、問題の解決なんて絶対に不可能なんですね。

しかし、自分自身の問題から目をそらしたいダメダメな人間は、他人の問題に首を突っ込んで自分自身の問題から目をそらしたがるものです。だから、この手の程度の低いボランティアが粗製乱造されることになってしまう。その手の人たちは、自分自身の問題から逃げているわけですから、当然のこととして相手の問題だって指摘しない。そんなボランティア人間にできることは、困っている人に「甘い」言葉をかけることだけ。ようやって、援助の相手を精神的に堕落させてしまうわけです。

ノーベル賞作家のバーナード・ショーは、そんな「苦い」現実を的確に描いたというわけです。

(終了)
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発信後記

今回のお題は、以前に配信した文章と関係しているものが多くあります。
しかし、結構、頻繁に見られる事例でしょ?

本文中に触れましたバーナード・ショーはイギリスの文学者で、社会主義活動に取り組んだ人でもあります。現実の社会における貧困の問題に取り組むことにより、貧困の問題の本質が、経済的な問題より精神の貧しさだと気がつかざるを得なかったというわけでしょう。
精神の貧しさは、本人の自覚次第で改善することが可能ですが、逆に言うと、本人の自覚なしには、絶対に改善しないもの。

芸術作品って、意外なほどに「当たり前」のことを言っていたりするんですね。
芸術家が直面している問題意識が理解できない人は、芸術作品を取り上げて「○○主義」とか「△△論」などと、妙に小難しく論評したりするものです。しかし、芸術家が表現している世界は、いつだって我々の目の前にある世界。「ピグマリオン」のような事例は、実際に体験した人も多いでしょ?
バーナード・ショーも、貧しい人たちを救済しようとして、実際にあんな思いをしたんでしょうね。
ちなみに、原作の「ピグマリオン」の方も映画になっており、ヴィデオも出ています。ご興味がありましたら、どうぞ!ただし古い白黒映画ですが。
R.11/1/5