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カテゴリー ダメダメ家庭出身者の状況
配信日 05年12月2日 (10年11月28日 記述を追加)
タイトル 反復強迫
ダメダメ家庭出身者は、自分に冷たかった親が嫌い。
だから、自分に親と似た面を見つけると、気分が落ち込んでしまう。
しかし、親と子供の間柄なんだから、「顔のつくり」なり「しぐさ」なりが似てしまいますよね?
そのことに気がついては、落ち込んで、鬱状態になってしまう。
このことは以前に「親に似ている面を嫌がる。」ということで配信しています。

しかし、顔なり「しぐさ」なりだったら、まだ救いがある。
もっと絶望的な気分にさせるのは、自分自身の物言いが親に似ていたりすることを発見した時です。

親などから心理的に傷つけられる言い方を散々されて、その心の傷が元で、人を傷つける言い方を、今度は自分自身が別の人に対してやってしまう・・・そのようなことを、精神分析学のフロイトは反復強迫と言いました。もっともこの私はフロイトをじっくり勉強したわけはありませんので、言葉の理解には齟齬があるかもしれません。ただ、親から言われた傷つける言い方を、今度は自分が子供に対しやっていたことって結構あったりするものでしょ?
そのような時は、まさに絶望的な気分になりますよね?

顔が似ているなり、しぐさが似ていることくらいなら、生物的な遺伝だから、どうしようもない。しかし、人を傷つける物言いは、本来は、本人の自覚と努力で改善することも可能でしょ?
しかし、まさに強迫的に、抑えようもなく、そんな親伝来の「人を傷つける物言い」をしてしまうわけです。

非常に典型的な実例があります。
以前に、このメールマガジンの「(映像)作品の中に描かれたダメダメ家庭」というカテゴリーでギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロスの作品である「旅芸人の記録」という作品を取り上げました。あの「旅芸人の記録」という作品には、ギリシャというダメダメのメッカの中から真の芸術家を目指すアンゲロプロスが、自分自身のダメダメ振りを厳しく見つめ、克服していく道のりがあるわけです。それに対し、その映画の日本語字幕を担当している「とある芥川賞作家さん」は、自分自身を見つめることから逃げ回って、グチばかり言っている・・・だから新人賞である芥川賞止まりなんだよ・・・そんな記述をしました。

私はそんな感じであの作品を受け取って、メールマガジンで配信いたしました。実はその配信の数ヵ月後に、その「とある芥川賞作家さん」が発行しているメールマガジンで猪突にアンゲロプロスについての記述があって、それには「アンゲロプロスはヨーロッパの国境の問題を扱っている。国境について身をもって体験していない多くの日本人には理解できるはずがない!」なんて書かれていました。

その「芥川賞作家さん」が、私のメールマガジンの文章を読んだとも考えにくいのですが、今の時代はインターネットの検索を掛けると意外な文章が出てきたりするもの。もしかすると私の文章を読んだのかな?
少なくとも現時点においては、世俗的な面では、その芥川賞作家さんの方が、私なんかよりも、はるかに格が上なんだから、別に私の文章など意識する必要がないでしょうに・・・「何をアホなこと言っているんだ!この素人が!」そう思っていればいいじゃないの?

私の文章を読んだか読まなかったのかは別として、「国境を身を持って体験していないものには、彼の作品は理解できない!」という物言いそのものは、興味深いものですよね?
もし、本気でそう思っているのなら、アンゲロプロスの作品を日本で公開する意味がないでしょ?そんな作品にどうして日本語字幕をつけるの?英語の字幕で十分ですよ。「最低限英語が自由に話せないと理解できない。」とも言えるわけですからね。そんなこと中学生でもわかること。

それにそんな物言いに対して、こう反論されたらどうするのかな?
「アンゲロプロスはアテネ大学やソルボンヌ大学に通った人だ!アンタのような二流大学出身者には理解できるわけがない!」
「国境を体験していない君のような人間には理解できない!」
『イヤ!アタマが悪いアンタのような人間には理解できない!』
そんな言い合いって、実にツマンナイですよね?だって、単なる水掛け論ですもの。

たとえばそのアンゲロプロスの作品における国境の問題を指摘したいのなら、もっと的確な文章表現があるでしょ?
アンゲロプロスの作品の中の「とあるシーン」を取り上げ、「国境を身をもって体験していない人間だったら、そのシーンをこのように受け取るものだ。しかし、国境を身をもって体験している人間だったら、もっと別の見方・・・具体的には『このように』受け取るものだ!だから国境体験が重要なんだ!」と説明すればいいだけ。

そのように記述してあれば、説明として的確ですし、説得力もありますよね?
単に「国境を身をもって体験していない人間にはわかるわけがない!」なんて問答無用に断定するよりも、はるかに上等でしょ?中学生でもそれくらいの文章は書けますよ。

そもそも、「国境を身をもって体験していない人間にはわかるわけがない!」という表現は、ダメダメにお約束の二重否定表現であって、それだけ何事も否定的に見ているということ。「わかるわけがない」はいいとして、「じゃあ、国境を知っていると何が分かるのか?」・・・本来はその点が重要でしょ?まあ、そんなことを考えることから逃避しているからこそ、二重否定表現になってしまっているんでしょうね。

ちなみに、私は別にその「芥川賞作家さん」に個人的な怨恨があるわけではありませんよ。顔も知りませんし、全く面識ありませんもの。ダメダメの実例として、参考になっているというだけです。しかし、どうして、その「芥川賞作家さん」は、そんな下等な表現をしてしまったのでしょうか?

やっぱり、本当にアタマが悪いの?
まあ、それもあるでしょう。
文章表現がヘタなの?
それもあるでしょうね。

しかし、もっと根本的な理由があるわけです。
実は、その「国境を体験していない人間にはわかるわけがない!」とよく似た物言いってありますよね?
代表的な例としては、「子供のオマエにはわかるわけがない!」と言うもの。
ダメダメな親が子供に対し、よく言ったりするものです。

家庭において、子供が親に対し「これって、どういうことなの?ちょっと教えてよ!」と尋ねる。
それに対し、親の側は『どうせ、オマエのような子供には、わかるわけがない!言ってもムダだ!』と答える。
そんなやり取りはダメダメ家庭においては実にポピュラーなものでしょ?

親からそう言われちゃったら、子供はどう思うでしょうか?
単に、「ふーん・・・そうなの?ボクは子供だからわからないんだネ。」と納得するの?
そんなわけありませんよね?

「ボクは子供だから確かにわからないかもしれけど、可能な限り説明してくれたっていいじゃないの?」
そう思いますよね?
そんな「子供にはわかるわけがない!」なんて親から問答無用風に言われたら、子供の心は傷ついちゃうでしょ?
傷つくだけではなく、親に対する信頼なり敬意を持つわけがないでしょ?
結果的に子供には分からなくても、「できる限り」分かってもらえるように親の側が説明したら、子供だって、その親に対して信頼や敬意を持ちますよ。
その物事が理解できるできないとは別の成果があるわけです。

「子供のオマエには分かるわけがない。」という物言いをされて、親に対して『ボクのお父さんは、大人だからボクが知らないことを色々と知っていてスゴイなぁ!』と思うの?そんなわけがないでしょ?
そんなことがありえないことは、プロの物書きでなくても、小学生でもわかることですよ。
『ちょっとくらいボクのことを認めて、色々と説明してよ!』と思うように決まっていますよ。
そして、そんな問答無用風の言い方が、子供の頃に親から頻繁にされていたら?
まさにそんな環境で育ってしまうと、「自分を全く認めてこなかった親に対し、自分の存在を認めさせたい!」なんて切実に思うことになる。それこそ「物書き」になろうとするわけ。

しかし、自分自身を厳しく見つめていない状態で、文章を書いていたりすると、まさに自分が一番嫌っていて、自分を最も傷つけた「物言い」を、自分の文章で「やっちゃう」わけです。まさに強迫的に「やっちゃう」わけ。
「子供なんかにわかるわけがない!」と言われて、傷ついた心が原因で、「国境を体験していない人間にはわかるわけがない!」なんて物言いを「やっちゃう」わけ。

その芥川賞作家さんの文章は、やたら「べき論」が多い。それにグチが多い。それに「スグに政治のせいにする」面も強い。そんな文章を読んでいると、その芥川賞作家さんの「父親」の姿が明確に見えて来るんですね。

その芥川賞作家さんは、相当に父親が嫌いなんでしょう。本人の自覚がどの程度なのかは私にはわかりません。しかし、その作家さんは自分自身から逃げ回り、自分自身を厳しく見つめているわけではないので、自分自身の問題点が理解できていないわけ。だから、嫌いな父親と同じように、「べき論」を展開し、嫌いな父親と同じようにグチっぽく、嫌いな父親と同じようにスグに政治のせいにして、そして嫌いな父親と同じように「人を傷つける問答無用風の言い方」を、「やっちゃう」わけ。

反復強迫というものは、自覚があっても、まさに強迫的に、抑えようがなく「やっちゃう」ものです。
子供時代に一番イヤだった親の物言いが自分の口から発せられていることを発見した時は・・・まさに生きていることがイヤになる瞬間ですよね?
しかし、ツライことですが、自覚しながらやっていくしかないわけ。
自覚もなしに、親が行っていた「人を傷つける物言い」を、平気で乱発するよりも、ずっとマシでしょ?

その「芥川賞作家さん」は、今は能天気に、父親と同じ物言いを繰り返しているわけですが、その作家さんの周囲の人の全員がアタマが悪くて鈍感とは限らないでしょ?
私のような指摘ができる人もいるかもしれませんよね?
そんな指摘があったら、どうするのかな?

よく、物書きの方が自殺されたりしますが、それって多分、「自分の書いていた文章のレヴェルの低さにやっと気がついた。」と言うことじゃないの?
その作家さんも、このまま能天気で突っ走るか?厳しく自問自答するのか?
それは本人の勝手でしょう。

まあ、どの道、そんな人の作品には価値はないでしょうが。ただ、そんな「作品」は、同じように自分自身から逃げ回っている「心の弱い」人間にはありがたいもの。物書きにとってそのことに気がつくのが幸福なのか?気がつかないで一生を終えるのが幸福なのか?
なんとも言えません。ただおバカな読者を相手に文章を書くのは、むなしいだけでしょうに。

何も、文章を書いている人間が、そんな反復強迫状態なのは、大したことではない。
そもそもそんな文章をわざわざ読まなければいいだけ。
しかし、子供時代に大嫌いだった物言いを、大人になって自分の側がやっていることは、ダメダメ家庭の周囲においては、実にポピュラーなことです。

それこそ、女性運動で活躍されている女性もいらっしゃいますが、あの手の運動は、ただ感情的に自分たちの被害を語り、味方よりも敵の話題ばかりになり、そして、誰かのあら探しばかりで、相手の言葉を聞く耳持たない姿勢でしょ?
それって、まさにその女性たちの父親の姿そのものでしょ?

父親が大嫌いだったから、女性運動に飛び込むのは結構ですが、十分な自覚がないので、当人たちが一番嫌いな人間といえる父親と瓜二つ状態になってしまう。
そんな人が子供を育てたら、自分の子供とどんな会話をするの?
そして、ちょっとでも上手くいかなくなると、逆上気味になってしまう。そんな逆上の姿も、父親譲りなんでしょ?

親と同じ物言いをしている自分を見つめることは、実にツライもの。しかし、その辛さを耐えないと、ダメダメ家庭出身者の再生なんてありえないわけです。

(終了)
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発信後記

ダメダメ家庭出身者は、自分を認めてこなかった人間に対し、自分を認めさせるために、「表現することにこだわる」ようになったりします。このことは今回の本文中で触れておりますし、以前に配信しております。だから物書きになったり、歌手や俳優になったりするわけ。

表現というと、文章だけでなく、映画だったり、美術だったり、漫画のケースもありますよね?このような作品も、「○○論」とか「△△主義」などと、ご大層な主義主張でとらえるよりも、ダメダメ家庭の観点でとらえると、もっと作者にとっての切実な面も見えてくるわけ。

漫画の世界ですと、最大の「大物」作家は手塚治虫さんだと言うことに異論はないでしょう。もうお亡くなりになってかなり経つのに、今でも「ブラックジャック」なんて放映しています。彼は医学部出身だけあって、登場人物にお医者さんがよく出てくるようです。あと「鉄腕アトム」なんて有名ですよね?「鉄腕アトム」のラストは、テレビなどでの「なつかしのアニメ特集」のような番組での常連さん。

ちなみに、「鉄腕アトム」のラストの「妹を置いて」、「人々のために」、「自分が犠牲になる。」というシチュエーションは宮澤賢治さんの「グスコーブドリの伝記」のラストと同じ。宮沢賢治さんは「銀河鉄道の夜」とか、例の「雨にもマケズ」の作者なのはご存知でしょう。ちなみに私はこの「グスコーブドリの伝記」を読んで「二酸化炭素による地球温暖化」というものがあることを知りました。まあ、宮沢賢治さんは、地球の寒冷化を防ぐために、二酸化炭素を使おうとしたのでしょうが、今ではそれが問題になっているんだから、皮肉なもの。しかし、この問題を取り入れた文学作品としては、世界的に早いものでしょうね。宮沢賢治さんは本職は、農業技術者ですから、その面も詳しかったのでしょう。

手塚さんに戻りますが、もうすぐ、手塚治虫さんの作品「どろろ」が実写で映画化されるそうです。
ちなみに、その「どろろ」のあらすじは、このようなものらしい。

『戦国武将に仕える醍醐景光は、天下を取るという野望をかなえるために、生まれて来るわが子の体を、48匹の魔物に与えてしまいました。
そうして生まれた子供は、体の48ヵ所の部分が足りず、川に流され捨てられてしまいました。
時は流れ、戦(いくさ)の世を旅する少年・百鬼丸。実は彼こそが、魔物に体を奪われた赤ん坊の、成長した姿だったのです。
百鬼丸は、体を奪った妖怪を1匹倒すごとに、失った体の部分を1ヵ所取り戻すことができるのです。』(手塚さんの公式サイトより)

たしか、その百鬼丸は、失った体の部分の代わりに刀などの武器が付いていました。そして妖怪を倒して、本来の自分の体の部分が戻ってくる時には、激しい痛みを感じるシーンがあった記憶があります。

公式サイトでは、伝奇物の一種のような扱われ方ですが、ダメダメ家庭の、というかダメダメ家庭出身者の観点から見ると、また違った様相を呈して来るでしょ?

父親により、異形のものに傷つけられた子供。
代わりに「相手を傷つける」武器を持っている。
ひとつひとつ、激しい痛みとともに、本来の自分を獲得していく。

そんなストーリーから手塚さんの子供時代が見えてくるわけ。そして長じてからの精神的格闘も見えてくるでしょ?あれだけ多くの作品を書いたということは、それだけ、手塚さんが自分自身を厳しく見つめていたわけです。書く能力があったと同時に、書かざるを得なかったわけ。書くことによって、「ひとつひとつ」本来の自分を獲得して行ったわけ。

このようなことは、単に手塚さんのアタマが良かったからという問題ではなくて、自分自身を厳しく見つめ、精神的痛みにも耐える強さを持っていたからなんですね。安っぽいグチに安住していても、本来の自分にはたどり着くことはできませんよ。

以前に「くだらない」という言葉について考えてみましたが、「作品」の価値にはジャンルなどには意味はないんですね。子供向け漫画がくだらなく、芥川賞作家の小説が価値があるなんてことはないわけ。

そもそも芥川賞の受賞理由に「新鮮」とか「みずみずしい」なんて「ほめ言葉」が出てきますが、それって週刊誌のグラビアアイドル用の言葉でしょ?芸術家を評する言葉じゃありませんよね?本当の芸術は、もっと厳しく、苦いもの。だから歳をとって味が出るわけでしょ?「新鮮」とか「みずみずしい」ものなんて、時間が経ったら腐っちゃうだけですよ。

手塚さんの作品は、表面的には「楽しい」作品なんですが、その中身は実に厳しいわけ。それって、自分自身を見つめる痛みに耐えた結果なんですね。
R.10/11/28