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カテゴリー レポート・手記等に描かれたダメダメ家庭
配信日 06年6月5日
タイトル 長崎県の事件の「加害者」の少女の父親の手記
さて、現在バルザックの「谷間のゆり」について継続的に取り上げ考えております。
今回もそれを取り上げる予定でしたが、前回の配信の文章の後記でちょっと触れました、2年前(04年)に起こった長崎県の小学6年生の殺傷事件について、より詳しく触れてほしいとのリクエストがありました。

長崎県の事件については、被害者の少女の父親による手記を、約1年前に取り上げ、わりと詳細に検討しまとめております。
その時の私の文章はバックナンバーでごらんになってくださいな。

今回は事件発生2周年ということで、被害者側だけでなく加害者側の少女の父親の手記も掲載されておりました。
前回も載せましたが、アドレスは
http://www.asahi.com/national/update/0531/TKY200605310377.html?ref=rss

被害者の少女の父親の手記だけでなく、加害者の少女の父親の手記も並んで掲載されておりましたので、一緒にお読みになった方も多いでしょう。
私も双方読んで、被害者の父親の手記は、1年前に書いたとおりですし、新たに読むことができた「加害者の父親の手記」は、加害者の手記として「申し分」ない・・・と思い、それゆえ、何も触れませんでした。

ダメダメ家庭の問題は会話不全の問題であって、その文章の内容、表現がダメダメであるほど、色々と検討するに値する・・・そのようなものです。
ですから、ダメダメの問題を考えるには、強圧的で、被害者意識が強く表れている文章である、被害者の少女の父親の手記を元に考える方がラクで、ネタが多く取れる・・・実際的には、そうなります。

しかし、「今回掲載された加害者の少女の父親の手記についてどう思うのか?」というお問い合わせをいただきましたので、ちょっと詳細にそちらの手記も読み直してみました。
「申し分のない」というのが第一印象でしたが、より詳細に読んでみると、ちょっと変化いたしました。
「申し分が、なさ過ぎる。」

ということで、1年前には被害者の父親の手記を元に考えてみましたが、今回は加害者の父親の手記を中心に考えてみることにいたします。

この加害者の父親の文章は、あまりに「まっとう」な文章なんですね。
隙がなく、各方面に配慮している。
文章表現だってしっかりしている。
これは、この文章の性格上いたしかたがない・・・面もあるでしょう。
しかし、文章を書ける・・・この私のような人間が読むと、「ここまで申し分のない文章」って、ヘンだ!と思ってしまうんですね。

そのような文章だったら、私のように文章を書きなれている人間なら、チャチャっと書き上げることが可能です。妙なもので、「まっとう」な文章って、書くことが簡単なんですよ。だって、「正しい謝罪文」という雛形があるわけですからね。その雛形に従って書けば何も突っ込まれることはない。
しかし、「突っ込みどころ」が何もないところが、最大の「突っ込みどころ」となっている・・・そのような文章って、たまにあったりするでしょ?

そのような文章なり、文章の書き手を考えるキーワードは「人に合わせすぎる」キャラクターです。
普段から「人に合わせて」ばかりいるので、周囲のすべての人が納得する文章を書くことが可能となる。
「周囲の人が、加害者の父親として、自分に対し何を求めているのか?」ちゃんとわかっている。
その「あるべき」自分の姿を、文章の中にちゃんと描き出す。
逆に言うと、その「犯人の父親としてのあるべき姿」を描き出すことに、この文章の主眼があると言えるでしょう。彼の思考は、この「あるべき姿」という外見から入っているわけ。
そうして、その文章を読んだ人が、「おお!見事な父親の姿だ!これでよくなるぞ!」と納得してしまう。
逆に言うと、謝罪文を書いた人は、この事件そのものの考察からは出発していないわけ。

しかし、この事件の「ひとつの本質」は、この加害者の父親の「人に合わせすぎる」性格じゃないの?
そんなに「外面がよく」「人に合わせて」ばかりいるから、家庭内の子供が「自分の親は頼りにならない!」「自分の身は自分で守らないと!」と切羽詰ってしまうんでしょ?

実は、この加害者の父親が描く加害者の少女の姿も、「人に合わせすぎる」キャラクターが見えてきますよね?
手記の中にこんな記述があるでしょ?

「こんな本を読んでみたら?読んでみたいかい?」
『読んでみたい』

「もうすぐ本は届くよ!楽しみだね!」
『うん』

この会話?って、まさに、ダメダメ家庭の典型的な会話ですよね?
子供が本当はどんなことを考えているのかについて、親として真剣に考えずに、自分が考える「正しい」ことだけを子供に押し付けるわけ。子供は、その「正しい」とされることをオウム返しに繰り返すだけ。そう!父親に合わせているだけ。

だいたい、ダメダメ家庭では、親が子供に「この本を読みなさい!」なんてやったりすることになる。本なんて各自の好きなものを読めばいいじゃないの?むしろ、そんな時に示される子供の興味から、子供についての情報が得られるわけでしょ?

しかし、ダメダメ家庭では、問答無用に「この本を読んで、『正しい』考え方を学ぶべきだ!」
「この本を読んで感動すべきだ!」と、そんな調子。
そんな調子だから、子供だって、親に合わせて、「この本・・・ヨカッタよ、感動しました。ワタシもこの人を見習って前向きに生きなきゃいけないと思いましたマル・・・」と、とりあえず、言っておくようになってしまうわけ。

そのような会話をなんと言うの?
この父親によると、「家庭内で娘と普通に親子の会話」と言うらしい。
まあ、確かにそのとおりなんですね。まさに「普通」なんですね。そして、その「普通の会話」から「人間としての正しい心」を学ぶ・・・らしい。

「普通」とか「正しい」といった言葉は、以前に「封じワード」というお題の文章で配信しております。
その手の言葉は、ダメダメ家庭において頻発する言葉なんですね。頻発する言葉だけど、中身はさっぱりわからない。「普通って、何?」「正しいって、どういう意味?」そうなっちゃいますよね?言葉はいいとして意味がわからない。だからやり取りが発展しない。お互いについてより理解しあうこともなく、外面を取り繕っておしまい。

話が変わりますが、この加害者の父親が身体に障害あるとのこと。
障害があること自体は、本人の希望ではありませんから、どうしようもない。人間各々「できることをやる」それしかありませんよ。
そうなんですが、その加害者の父親の子供時代はどうだったのでしょうか?
私が疑問に思ったのはその点です。

障害を持った子供を、その親はどう育てたか?
のびのび育てたのか?それとも、「オマエの障害のために、ワタシ達はメチャクチャだ!」と、親にグチられながら育ったのか?
このことは、極めて重要でしょ?体に障害があることが重要ではなくて、障害を持った人間がどのように扱われたか?その点が重要でしょ?

この加害者の父親の「人に合わせすぎる」キャラクターを考えると、結論は見えてきますよね?
だいたい、「交通事故で顔と身体にひどい火傷(やけど)と障害を負った韓国の女子大生が、最初は絶望していたけれども、やがてありのままの自分を見つめ、全身の障害と戦いながら前向きに生きるようになるまでの手記」を自分の子供に読ませようとすることから、当人がいかに、その障害を意識しながら生きているのかについてよくわかるでしょ?
そんな話ばかり聞かされたら、子供だって気が滅入りますよ。

親に障害があるのは、しょうがないとして、子供にはそんなことを無理して考えさせる必要はないでしょ?
ノビノビ育てればいいじゃないの?子供本人は障害がないわけですしね。
加害者の父親は、その障害が、精神的に負い目になっているんでしょうね。
だから「人に合わせすぎる」ようになってしまったわけ。

あっちの顔色を伺い、こっちの人たちに配慮して・・・
そんな人が、「周囲の人間が納得する」「反省の精神にあふれた」「加害者の父親の手記」を上手に書き上げることなんて朝飯前ですよ。

実は、興味深いのは、それぞれのキャラクターの組み合わせです。
加害者の父親は、この文章からわかるように「人に合わせすぎる」キャラクター。
加害者の少女本人も、「人に合わせすぎる」キャラクター。

そして、何回も書いていますが、被害者の少女の父親は、強圧的で問答無用のキャラクター。当事者意識はゼロで、スグに被害者意識を爆発させる。今回の2周年記念の手記でも、そのことは典型的に表れておりますよね?あちこちに文句を言うのはいいとして、自分でも少しは考えてみればいいのに・・・

そんな父親なので、その家庭にいる子供は、親に気を使って、ビクビクしている。
別の言い方でいうと、「親に合わせている」わけ。だから「親に気を使っている」子供同士で、「入れ込み」「入れ込まれ」の事態になってしまうことになる。

そうなんですが、「カエルの子はカエル」「子は親の鏡」 なんて言葉もあります。
「自分の強圧的な父親の顔色をうかがっている」被害者の少女にも、父親譲りの「強圧的」な面があったとしたら?父親には強く言えないけど、別の・・・自分より弱い人間には強圧的になってしまう面があったとしたら?
序列意識が強い人間は、相手によって、態度をガラリと変えることが多いことは別のところで記載しております。
強圧的な人間と、「人に合わせすぎる」人間では、一時的には明確な序列が形成され、形の上では「うまく行く」わけですが、「人に合わせすぎる」方は、そのことに疲れてしまって、「窮鼠ネコをかむ」事態になってしまうわけ。

このような事件は、ダメダメ家庭の周囲では実にポピュラーでしょ?

この、いたましい事件の対応として、当人の家庭も色々と考えているのかもしれませんが、実際問題として、被害者の父親の強圧的なところや、加害者の父親の「人に合わせすぎる」ところなど全然変わっていないでしょ?被害者の父親は相変わらず怒鳴り散らし、加害者の父親はビクビクと周囲をうかがっているだけ。むしろ悪化していますよね?彼らはこの事件を契機にして、より怒鳴るようになって、より「人に合わせている」ようになっただけ。

実際に、この加害者の父親の手記の最後に、「娘は『被害者の父親はどう思っているのかな?』と言っている。」・・・などと言った言葉が出てきます。加害者の少女は、もう早速、周囲に気を使って、「合わせている」わけでしょ?本質は全然変わっていないわけ。被害者の父親も、加害者の父親も、加害者本人も何も変わらない。だって、当人たちは問題の本質なり、自分たちのキャラクターが何もわかっていないんですからね。

たとえば、この加害者の父親が、更正施設から出てきた自分の娘を殺したら、周囲はどう評価するでしょうか?案外にも喝采を叫ぶのでは?そして、この父親はそれを「わかっている。」
この手記を読んで、そのようなことを「絶対しない」と思った人は読解力ゼロですよ。
「死んで詫びさせる!」なんて、いかにもやりそうでしょ?それとも一緒に心中とか・・・だって、それが一番「人に合わせる」ことなんですからね。

その他、ダメダメ家庭の問題を考えるにあたって、「言われていること」「書かれていること」よりも、「言われていないこと」「書かれていないこと」に注目する必要があると、何回も書いています。

たとえば、この2つの家庭にペットは居るのでしょうか?
ペットはその家庭の「心の余裕」を示したりするもの。まあ、集合住宅だったらペットを飼うことも難しいものですが、それでも金魚とかハムスターくらいは飼えますよね?
これらの家庭では、子供は「ペットがほしい!」なんて言ったことはないのかな?もし、そんなやり取りすらないとしたら、それこそ問題でしょ?もちろん、ペットが居るからといってマトモ家庭と断言できるものではありませんよ。それぞれに事情もあるでしょうしね。

あるいは、実に見えてこないのが、祖父母の問題です。
子供たちの祖父母・・・つまりこれらの手記を書いた父親たちの両親って、どうなっているの?
加害者側の父親の子供時代については、ちょっと想像いたしました。本当にそんな家庭だったら、自分にグチり続けた親の顔などは、もう見たくないと思うでしょうね。

あと、被害者の少女の祖父母はどうなっているの?
そもそも被害者の少女の母親がお亡くなりになっているのだから、ちょっと祖父母に来てもらうことって、考えなかったのかな?

自分の両親でもいいでしょうし、なくなった妻の両親でもいいでしょう。
どうせ、自分は仕事で外に出かけているわけですしね。
始終顔を合わせるわけでもありませんよ。
来てもらえばいいじゃないの?子供たちだけで家に残しているの?それって保護者として失格じゃないの?

そんなことを考えなかったのかな?
この問答無用の父親は、自分の両親や、妻の両親との関係はどうなっているのかな?
その点は、不思議でしょ?
まあ、私だったら、そんな問答無用の強圧的な人間と一緒に住みたいとは、思いません。たとえ夜遅くに顔を合わせるだけの関係と言ってもね。
というか、この事件の当事者の少女の父親たちをそのようなキャラクターにしてしまった出身家庭も、かなりの重症と見ることが出来るでしょ?自分の孫が不都合な事態になってしまっても、サポートしていないのでは?そんな出身家庭の問題を自覚していなかったら、同じようなダメダメ家庭を作ってしまいますよ。

どうも、この被害者の父親って、「子供以外は相手になってくれない。」というコミュニケーション不全の典型でしょ?コミュニケートが序列関係を基本とした命令と服従のみになっている。だから自分より序列が上の人を自分の身近に置きたくない。常に一方的に命令を下すだけ。これではコミュニケーションはできませんよ。今回の悲劇によってネタができたため、形の上では周囲とコミュニケートできるようになったわけ。このような流れもダメダメの典型ですよね?だから、どうしても、「この件」で、クレームをつけ続けることになってしまう。

詳細に見てみると、ダメダメ家庭の典型的な問題が実に多く見られる事件です。
逆に言うと、このような典型的視点をチェックして早めに対処すれば、このような事件を防ぐことは可能なんですね。

しかし、加害者の少女の父親が持っている「人に合わせすぎる」キャラクターというのは、本人が自覚したり、周囲が認識することは難しい。だって、「人に合わせて」いるので、自分では考える必要がないわけ。考えないのだから、自分自身にキャラクターについて知ることもない。おまけに、「人に合わせている」わけだから、特に問題が起きることもない。だからなおのこと、自分自身について考える必要もない。周囲も、その人について考えない。だって、「目立たない」わけですしね。
そしてそのしわ寄せは、子供に向かってしまう。

この手の人間は、結構ポピュラーなタイプです。購読者の皆様の周囲にも結構いたりするのでは?ここまで大きな事件になるかは別として、このような事件は頻繁に起こっているものなんですね。

というか、この長崎の事件だって、施設から出た後の問題とか、被害者側の残された子供の問題など、全然解決していないでしょ?今の状態で、「改善した」などと言っているようでは、次にまた起きますよ。

ですから、購読者の方々は、今回の事例から、様々な視点なりチェックポイントを導き出し、自分自身の今後に生かし、トラブルの回避につとめる・・・それしかないように思います。

(終了)
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発信後記

本文中にも書いていますが、「人に合わせすぎる」人間を、「あの人は単に周囲に合わせているだけ」と判断できることは実に難しいもの。

しかし、この加害者少女の父親は疑いもなく、そのタイプといえます。
たとえば、こんな記述もあります。
「この本は、後日施設で娘に差し入れて読ませました。」
「読ませました」という記述が「いかにも」でしょ?

自然な文章の流れだったら、「差し入れました」そして「感想を書いてくれました。」となります。「読ませました」という文言を入れることは、不自然です。
しかし、このような「不自然」な表現に気がつくことが出来る人が、多く居るわけもありませんし・・・

まあ、この「読ませました」という文言だけでも、この父親が、いかに「人に合わせる」人間なのか?子供に「人に合わせる」ことを要求する人間なのか?スグにわかるわけ。だからそのしわ寄せが、子供に向かってしまう。

しかし、このことに気がついたとしても、周囲の人間にしてみればどうしようもありませんしね。ヘタに関わって逆上されたら、それこそ面倒。
だから「避ける」しかないわけ。

ちなみに・・・またまた、実に、長い文書になってしまい申し訳ありませんでした。
ちなみに、上記の「読ませる」という言葉だけでも、ご家族で色々と話合ってみてくださいな。言葉のほんのちょっとした表現で、色々なことが見えてくるものなんですね。
R.10/12/2