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カテゴリー 自己への抑圧
配信日 03年11月3日  (10年4月6日,10年7月1日,11年2月10日 記述を追加)
タイトル 人に合わせすぎる
ダメダメ家庭出身者には、場の雰囲気を無視して暴走する人もいます。しかし、むしろ多いのは「人に合わせすぎる」タイプです。
「とにかく面倒が起こらないよう」に、「その場が穏やかになるように・・・穏やかに・・・」と、人の意見や言葉に合わせている。
まさに「波風を立てない」ことに徹している。
人とのやり取りにおいて、「そう、そう、私もそう思ったわ。」とか、スグに相槌を打ったりする。
人が言った感想を、オウム返しして「それって、私と同じだぁ・・・」と言ったりする。

本当に同じ意見を持っているのなら、何の問題もありません。
しかし、ダメダメ家庭の人は、「とにかく人に合わせておけば、大丈夫だろう・・・」と言った雰囲気で、自分の実際の感想を表明することなく逃げている。というか、普段から、人に合わせてばかりなので、実質的には自分自身の考えを持っていない。とにもかくにも、人に合わせることが目的化されている。

人に合わせているだけなので、当然のこととして一貫性がありません。
合わせる相手の人が変わると、言っていることも変わってしまう。
そうなると、以前とは別の意見に賛同している「その人」を見た人は、「あの人は、人によって、コロコロと意見を変えて・・・いい加減な人だなぁ・・・信用できないな。」と判断することになる。
しかし、当人は「人をだまそう」として意見を変えているわけではないんです。その場の雰囲気が悪化しないように必死なんですね。

このような「人に合わせる」発想は、子供時代に「家族の状況が悪化しないように、必死で配慮していた。」習慣が続いているわけです。
両親のやり取りが問題なく進むように、険悪な雰囲気にならないように、子供の側からサポートしていたわけです。
ダメダメ家庭では当人たちの意見がぶつかり合うと、収集がつかなくなりますからね。
あるいは、両親の会話の矛先が自分に向いてしまうと、誰も助けてくれない。だから、議論の矛先が自分に向かないように、早めに予防する必要があるわけです。
それに、ダメダメ家庭でのやり取りなので、どのみち内容があるものではありませんからね。
「つつがなく」時間が経過すれば、それでいいわけです。
子供時代のこのような気配りが、「人に合わせすぎる。」人間を生み出してしまうことになる。

そんな人とのやり取りにおいては、やり取りの最初の頃に「アナタのその感想は自分と同じだわ。」と言ってくれた相手に好意を持っても、段と判ってくることになる。
『この人・・・ただ、オレに合わせているだけジャン!』『自分では何も考えていないんだな。』って・・・
それに相手に合わせているだけなので、本当の会話にはならない。
会話が弾むことを期待している人には、つまらない人になってしまうわけです。
会話というものの目的は相互理解でしょ?言葉をオウム返ししている人とは、相互理解も何もありませんよ。
逆に言うと、「ただ合わせているだけ。」ということを判ってしまうような人間なら、大したトラブルは起きません。
「サヨナラ〜」で、おしまいとなってしまうだけ。

むしろ問題になるは、それが判らないような人の場合です。
「オレの意見と同じことを言う人は、初めてだ!」などと感激されてしまったら、大変でしょ?
当人としては、「問題が起こらないように、穏やかに・・・穏やかに・・・」と合わせているだけなのに、むしろ相手を燃え上がらせてしまって、ヘタをすれば、その人から入れ込まれ、問題が発生してしまう。

本人は「人に合わせる」ということを無意識でやっている。
それが子供時代から身に付いた習性なんですからね。
しかし、「人に合わせる」人は、実質的には、人の話を聞いていないんです。
ただ、言葉をオウム返しをしているだけとなっている。
本人としては、ただ「この場が、穏やかに・・・穏やかに・・・」と願っているだけ。
別の言い方をすると、音響的には、あるいは言語的には聴いていて、雰囲気的に共鳴していても、心理的なり内容的には何も受け取っていない
その場の空気に従っているだけで、相手の言葉を理解力しているわけではない。

空気を読んで、共鳴することができるが、相手からの言葉や自分の言葉の意味を説明することができない。
そもそも相手に対して分かってほしい自分自身の考えそのものがない。
だから、ますます説明能力が付かない。
だから、説明が不要な相手に近づくことになる。
そして、一緒になって、音響的に共鳴する。
しかし、雰囲気的に共鳴はしても、相互理解とは無縁のまま。

人間というものは、成人後は、自分自身の意見を持って、かつ、人の話を聞く必要があるでしょ?
今回の文章で取り上げた「人に合わせるだけの人」は、実質的には、コミュニケーション能力が低いわけです。
「波風が立たない」やり取りはできても、「合意を取る」やり取りはできない。
そのような状態になってしまったのは、本人のせいではありません。子供時代にそのような配慮を強いたダメダメ家庭のせいといえます。
そして、そんな人が、周囲の「人に合わせて」結婚し、「人に合わせて」子供を作り、親になってしまうと、子供の側から問題が顕在化してくる。
そんな家庭の子供にとっては、自分の親は、単に「人に合わせている」だけなので、頼りにならない。

親子でやり取りをしても、中身を伴った会話にならない。
親の側は、子供の頃から、「人に合わせている」だけなので、自分では何も考えてきていない。だから子供の側が親に対して質問しても、何も要領を得ない。
親は、まさに「ふつうにしておけ!」と子供に要求するだけ。
「ふつうにしろ!」という要求は、まさに「人に合わせろ!」ということでしょ?トラブルが起こらなかったら、それでもいいわけですが、いざ実際に起こってしまうと、「人に合わせる」だけでは対処はできませんよ。
子供の側は、親からのサポートをあてにできず、結局は、事態を自分だけで解決する必要がある。
しかし、子供にそんなことができるわけもなく、多大なる精神的なストレスを抱えて、トラブル状態が進行してしまう。

あるいは、普段から家庭内で、中身の伴ったやり取りをしていないから、そんな家庭の子供はコミュニケーション能力が低い。
子供の周囲の人たちと円滑にコミュニケートすることができない。
だから、ますますトラブルが進行することになる。
しかし、その子供の親は、常に人に合わせているだけなので、子供の問題には対処しない。
それに、人に合わせている人は、まさに保護色的に生きているわけだから、「目立たない」。
だから、子供の問題行動の原因とはみなされない。
まさに「あんな目立たない、おとなしい人の子供が、どうしてあんなに居丈高なの?トラブルばかりを起こしているの?」そんな評価になってしまう。
たまに、あるでしょ?そんな言葉。

「人に合わせすぎる」人という存在は、周囲の大人にしてみれば、薬にはならないわけですが、毒にもなるわけではない。
しかし、その人の子供にしてみれば、非常に困った存在と言えますし、少なくとも頼りになる存在とはいえませんよ。
だから、そんな家庭の子供は、トラブルが発生しないように、親譲りの「人に合わせる」処世術を取ったり、「自分だけで何とかしないと!」と常に張り詰めてしまうことになる。

あるいは、「人に合わせている」だけの人間は、やり取りをしても、その人独自の反応がないわけだから、結局は、空気とか、あるいはマネキンとやり取りをしていうようなもの。
だから、そんな人の子供は、人とのやり取りの基本的な技術が習得できず、内面の世界に浸るしかない。
いわゆる、アスベルガー症候群のようなものになってしまう。
そんな症状が子供から顕在化されても、「人に合わせてばかり」で、「目立たない」親の問題は、周囲の大人には感知されない。結局は、子供の側だけに、処置を施そうとすることになる。
しかし、「目立たない」ということを、「存在感がない」と変換すれば、その子供にしてみれば、保護者という存在が不在の日々に生きているわけでしょ?
それに相応したケアーを子供にしない限り、何らかのトラブルも起きてきますよ。

「人に合わせすぎる」人というのは、人に合わせてばかりなので、その人自身でものを考えたりはしない。だから「自分自身は人に合わせすぎるキャラクターだ。」という自覚がないことが多い。
もし、その自覚を得ることができたのなら、当人として、その点に対処する必要があるわけです。
あるいは、子供がトラブルになった場合には、周囲としては、その親のキャラクターに考慮する必要もあるといえます。
「目立たない」と「存在感がない」は、子供にしてみれば、直結しているものなんですね。

人に合わせている人は、相手の意向に合わせているのではなく、相手の「言ったこと」や「したこと」に合わせているだけ。
逆に言うと、それだけ、相手の意向を受け取る能力が低いわけですし、その習慣も持っていない。
前にも書きましたが、「人に合わせすぎる」人は、「人の気持ちが分からない」人でもあります。なんとなくの相槌ばかりで、存在感のない人は、確かにいてもジャマにはならないわけですが、たまに、その場の空気とは無縁のトンチンカンなことをしでかして、周囲を驚かせたりするものでしょ?

そんな驚きをもった時点で、その人が、ただ単に人に合わせていただけなのが分かってくるもの。逆に言うと、その時点でその点について認識できないと、後々トラブルになったりするわけです。
そもそも、人に合わせる人間を作ってしまう背景には、その実家の被害者意識があり、その被害者意識は、そんな家庭に育った子供にも染みこんでいるもの。ただ、普段は人に合わせているので、それが目立ってこないというだけ。
しかし、いざトラブルになってしまい、人に合わせるという方法論が通用しない状態となると、まさに抑えていた被害者意識があふれてきてしまい、それが暴走することになる。
まさに「普段はおとなしい人が」「どうしてあんなに怒り出したのか?」と言われるような事態になってしまう。普段から自分で考えているわけではないので、どの時点で、ストップするかの判断もできない。だから、加減もなく暴走してしまう。だから、血を見るような事態になることも現実にあったりする。

人に合わせすぎる人間は、普段は、毒にも薬にもならない人間といえるわけですが、いざ、その日常が崩れてしまったら、まさに暴走し、とんでもなく毒になる人でもあるんですね。

(終了)
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発行後記

先日購読者さんからのおたよりを頂戴いたしました。
の返事において、このメールマガジンの趣旨を簡単に書きましたが、この場で別の表現で趣旨を書いてみたいと思います。

ロシアの文豪トルストイは晩年の作品「復活」について周囲から色々と言われた時、
「この『復活』という作品をどう思おうといいんだよ!読んだ人が福音書(まあ、新約聖書ですね・・)を自分の目で読む気になってくれれば・・・」
と言ったそうです。

まあ、私のメールマガジンの趣旨はトルストイのようなもの。
私の文章が、子供や配偶者と会話する契機になってくれれば、それでいいと思っています。
文章に賛同するも、否定的な見解を持つのも、ある意味どうでもいいことなんです。
この文章に関連する文章として08年5月30日配信 「気配り、目配り」という文章があります。
また、05年6月20日配信の「ちょっとしたパニックに陥る」も関係あります。
R.11/2/10