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カテゴリー ダメダメ土曜講座(トピック編)
配信日 09年1月3日 (10年11月6日 記述を追加)
タイトル 代理ミュンヒハウゼン症候群
昨年(08年)末に京都の大学病院で、35歳の母親が自分の1歳の五女に「腐った水」を点滴し、逮捕された事件が報道されていました。何でもそのような行動は「代理ミュンヒハウゼン症候群」と言うそう。
その事件の記事を読んだ私としては、
「腐った水」って・・・どこで売っているの?
「35歳の母親で五女って・・・」
「代理ミュンヒハウゼン症候群」って、これはまた!壮大なネーミングだなぁ・・・
と思った次第。

その代理ミュンヒハウゼン症候群については、例のウィキペディアに解説が載っています。
ウィキペディアのサイトは
http://ja.wikipedia.org/wiki/
です。上記に「代理ミュンヒハウゼン症候群」を入れると、解説ページに行きます。

しかし、その解説の文章を読むと、今までこのメールマガジンで書いてきたダメダメ家庭の諸相が組み合わさっているに過ぎない。特に目新しいことなんて何もない。

と言うことで、今回の事件というか、「代理ミュンヒハウゼン症候群」をダメダメ家庭の問題として、考えて見ましょう。

その代理ミュンヒハウゼン症候群は、親が自分の子供を傷つけ、そして弱ったその子供を自分が介護することによって、「立派な母親」の姿を周囲に見せるというものです。

そもそも、ダメダメ家庭の人間は当事者意識がない。だから達成したいものがあるわけでもない。だから「○○をしたいので、ワタシに協力して!」とは言えない。ダメダメ人間が周囲に要求するのは「ワタシに構って!」となる。
「構って」の直接的なスタイルといえる「ワタシに構って!」だと「代理ミュンヒハウゼン症候群」の「代理」が取れた「ミュンヒハウゼン症候群」を引き起こすようです。自分を傷つけ、それによって、周囲の人から構ってもらおうとするわけ。
そんな人が親になってしまうと、自分の子供をネタにして、周囲から構ってもらおうとすることになる。つまり、「ワタシの、子供に、構って!」となるわけです。

子供がピンチだと、周囲の大人としても、サスガに無視はできない。だから結果的に親も構ってもらえる。そんな成功体験ができたので、同じことを繰り返すようになるわけ。
だからこそ、子供のピンチを親自ら作り出すわけです。

そもそも、ダメダメ家庭の親は、「子供の出来が悪い方がうれしい」もの。
子供の出来が悪い分、そんな子供を育てている親としての自分が価値が高い・・・そう思っているわけ。手間がかかる分だけ「親としての被害」が認定されることになるでしょ?
そもそもダメダメ人間は、「苦労自慢、不幸自慢」が大好き。

だからこそ、実際に子供を「出来の悪い状態」にしてしまい、親として苦労をしている状況を作り出してしまうわけ。
そうして、そんな苦労に、めげずがんばっている自分自身を周囲に語るわけ。
いわば「自称よい母親」の姿をアピールすることになる。
そうやって、周囲から同情を求めようとする。

そもそもダメダメ家庭の人間は、相手から依存されるという関係性に依存するという「共依存」に陥りやすい。それだけ、精神的に自立していないわけです。
自分で自分について説明できないので、「あの○○さんに役に立っているワタシ。」という形で、自分のアイデンティティとしてしまうわけ。
これは例えば、以前に取り上げたバルザックの小説「谷間のゆり」においても、必死で夫の看病をする妻アンリエットを見ながら、医者が言うセリフ「介護されている側よりも、介護している側の方が重病じゃないか!そしてそれを当人はわかっていない。」で表現していました。ちなみにここでの重病というのは、いわば「心を病んでいる」状態です。夫の側は身体的に病んでいるのに対し、看病している妻は心を病んでしまっていると医者は見て取ったわけ。
介護することによって、自己逃避ができるし、自分自身の「役割」や「価値」も簡単に得られることになる。そんな居場所が心地いい・・・それが自己逃避の人間。

京都の事件においても、親としての自分自身の役割や価値をアピールし、周囲から同情を得ることが目的なので、子供の殺害を目的としているわけではない。しかし、子供を傷つけ続ければ結果的にどうなるか?これについては自明のこと。京都の事件では、次女も三女も、四女も幼くしてお亡くなりになっているそうですが、母親としては殺害が目的ではなく、子供への介護が必要とされる状態にすることが目的になっているわけ。そんな母親にしてみれば、子供は周囲から構ってもらうための道具なんですね。だからこそ、次々と子供を作ることになる。彼女にしてみれば、子供なしの状態では、周囲から構ってもらえないと危機感を持っているわけ。

この「代理ミュンヒハウゼン症候群」は、以上のように、今までこのメールマガジンで書いてきたことを組み合わせれば簡単に説明できてしまうもの。ダメダメ家庭の基本的な考え方がわかっていれば、それを組み合わせればいいだけ。わざわざ「代理ミュンヒハウゼン症候群」なんて壮大なネーミングを付けなくてもね。

「○○症候群」という症例という形で認識するのもいいわけですが、そのようなことは、別の分野だと、物理学で、片方は「新しい元素が見つかった!」と喜んでいるのに対し、コチラとしては、より基礎的な構成要素であるクォークの組み合わせによって、陽子や中性子を説明し、その組み合わせで多くの元素を説明する・・・そんな状況に近いのでは?まあ、私の説明は2世代ほど先に行っているんでしょうね。

ただ、その「ミュンヒハウゼン症候群」というネーミング自体は、結構面白い。
誰だって、有名な「ホラ男爵」を思い出しますからね。
子供を傷つけるのが単にホラ話の中だったら、まだ、笑って済む話ですが、実際にやってしまうんだからシャレにならない。どうせならホラ男爵のように、「大砲を使って月に行ったよ!」くらいのホラ話だったら、周囲の人も、ギャグとして楽しめるでしょうに。

しかし、ダメダメ家庭の人間は、楽しいファンタジーを語る能力もなく、「自分のかわいそさ」くらいしか周囲に言えるものがない。被害者としてしか自分を語れないわけ。だからこそ、実際に「自分が被害者」という状況を作ってしまう。
そして被害者として認められて、大喜び。
そうして「ばら色の被害者人生」を獲得することになる。

今回の「代理ミュンヒハウゼン症候群」のウィキペディアにおける説明と、この私が書いた上記の「ばら色の被害者人生」の記述を比べていただくと、内容的に実に近いことを言っているのがお分かりになるでしょう。まあ、私の文章中の「鼻歌」なんて、まさに今回の京都の事例にドンピシャ!
「代理ミュンヒハウゼン症候群」というネーミングも文芸的ですが、「ばら色の被害者人生」というネーミングも、我ながらエスプリがある。

名前のとおりのホラ話ならともかく、実際にそんな状況が発生している。
それもダメダメ家庭の現実ですし、前にも書きましたが、自分の子供の出来の悪さを語る親は、程度の別はあっても、そんな発想になっているわけ。
あるいは支援する対象を「生かさず殺さず」の状況に留めておいて、そんな弱者をサポートする「いい人」としての自分に酔う人たちとなると、まさにボランティアでしょ?
ボランティアの活動も、代理ミュンヒハウゼン症候群の観点から見ると理解しやすいわけです。

今回の京都の事件の「代理ミュンヒハウゼン症候群」も、その母親の出身家庭の問題にまで踏み込まないと、本当の意味での改善はできないわけです。そもそも次々と子供がお亡くなりになっているのに、平気で次々と子供を作る親を許している周囲の環境というのも大問題。

わざわざ「腐った水」を自分で作って、それを子供に点滴する母親の姿を想像すると、恐怖を感じるものですが、程度問題は別にして、そんな感情自体は、ポピュラーなもの。そして、そんな事件を引き起こす周囲の問題も、ポピュラーなものなんですね。
今回の事件だって、「まあ!アナタ!なんてお気の毒なの?」「そんな中でアナタはご立派だわ!」という同情の言葉をかけた人が、一種の共犯者になっているわけ。まさにそのような同情と賞賛の言葉を求めてこのような事件を起こしたわけですからね。子供を傷つければ、親として構ってもらえるという成功体験を作ってしまった、周囲の人間の罪は重いんですよ。

その母親だって、そんなに構ってほしかったら、自分で自分を傷つければいいだけ。
まさに、基本に立ち返り、代理ではなく、ただのミュンヒハウゼン症候群になっていればいいわけです。

その点、最近(10年11月)に、また話題になった国会議員の三宅雪子さんは、立派といえるでしょう。彼女は、自分の子供を犠牲にするようなことはしていないわけですからね。
彼女の行動も、まさに「ワタシって、こんなにかわいそうなのよ!だから、ワタシに構って!」というダメダメの基本心理?を理解していると、実に見通しがよくなるでしょ?

頻繁に書いておりますが、ダメダメ家庭の人間は信頼と好意の区別がつかない。というよりも、信頼というものが理解できないわけ。
信頼は、敬意に近い。
それに対して、好意は、同情に近い。
敬意と好意は、一応は結びつくことはあっても、同情と信頼は結びつかないでしょ?

三宅さんの行動は、まさに信頼でも敬意でもなく、同情につながる状況を作ることによって、人からの好意を求めているわけ。
マトモな感覚では、たとえ気の毒な状況であっても、それは敬意には繋がらず、だからこそ、信頼とは無関係となるわけですが、そもそも信頼というものが理解できないんだから、好意を求める行為が暴走してしまう。
そして、その「かわいそうな状況」を執拗にアピールすることになる。
前回(09年)の国会での事件においても、怪我をしたこと自体の問題ではなく、それをアピールする時点で、彼女の心の問題が見えてくるわけです。

もちろん、彼女は大人ですから、このまま突っ走ってしまっても、当人自身の問題。
ただ、彼女のケースにおいても、前回での国会での事件において、彼女に同情してしまった人が、今回の事件の原因の一端となっているわけです。
自分を傷つけることによって、同情を得て、構ってもらえる・・・そんな成功体験を作ってしまったわけですからね。まあ、彼女は、国会議員になる前でも、色々とやっていたのでは?

この手の人は、同情することしか能がない人を周囲に置こうとする。
逆に、「で、結局は、アンタ自身は、どうしたいの?」と言い出す人は、『あの人・・・鬱陶しいわねぇ・・・』と言いながら排除してしまう。
そうして、同情を得る環境を自分で整備していって、ますます自分を傷つけることになる。
そうして、まさに「バラ色の被害者人生」を満喫するんですね。

(終了)
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発信後記

昨年末から始めた土曜ダメダメ講座というカテゴリーですが、まだ試験的な運用です。
もともとの意図としては、様々な事件も、ダメダメ家庭の基本的な考え方の組み合わせに過ぎないことを説明したいというものです。
新規に文章を起こすのではなく、以前に配信した文章を引用する形にしているのはそのためです。

新規に文章を起こすのではないので、書き上げるのは時間的にかからないだろう・・・と思って始めたわけですが、意外にも時間がかかる。引用というかリンクのバックナンバーの文章を探し出すのに、結構時間がかかったりするもの。
自分で書いて、自分でサイトにアップした文章が見つけられないって、情けない話ですが、それも現実なんですね。

しかし、ゼロからものを作る人は、自分で作った作品が細かくは思い出せないもの。
それこそオーケストラのコンサートで、作曲者が自分で作曲した曲を、自分で指揮することもありますが、そんな時は、その作曲者さんは、譜面を見ながら指揮をしているもの。
最近の指揮者は、楽譜を完璧に覚えた状態で、つまり楽譜なしで指揮をするのに対し、本来その曲を一番知っているはずの作曲者自身が、どうして楽譜がないとダメなの?
・・・と昔は疑問に思っていました。

しかし、自作を指揮するのには、自分で作曲した楽譜が必要なんでしょう。
指揮をしながら、「ああ!この部分は色々と迷った部分だよなぁ・・・」と思い出しても、「で、結局どっちにしたんだっけ・・・」となるんじゃないの?
試行錯誤そのものは思い出しても、その思考の結果は意外にも思い出せないもの。
これが赤の他人が作曲した音楽だったら、そんな試行錯誤まで思慮をする必要がないので、成果としての楽譜を記憶し、その記憶された楽譜に沿って演奏するだけ。

往々にして聴衆が喜ぶのは、作曲家の演奏ではなく、演奏専業の人の演奏。
作曲家が演奏すると、作品の細かい部分に引っ張られてしまって、作品の全体像が決まらない。
演奏において、まさに最後のクライマックスにおいて、聴衆を「おお!」と熱狂させるのは、演奏専業の人による演奏。
しかし、細かい部分に引っ張られる感性や、作品のキモとなる部分の創造性に引きずられる感性も、芸術には必要なのでは?
ただ、そうなると全体的にずっこけてしまったり、一般の聴衆から喜ばれないことになる。

一般の人を感動させる方を取るのか、その作品の創造的な面に目を向けるのか?
そんな試行錯誤そのものとは無縁なのは幸福なのか?
・・・ということで、自分が書いて、アップした文章がなかなか見つからない状態から、別の知見なり問題意識が得られたりすることもあるわけです。
R.10/11/6