トップページに戻る 配信日分類の総目次に戻る 検索すると上位に来る文章
カテゴリー分類の総目次に戻る タイトル50音分類の総目次へ
カテゴリー ダメダメ家庭が好きな言い回し
配信日 09年5月6日
タイトル 空気を読めよ!
前回の配信では「空気を読めない」人についての文章を、配信したしました。
いわゆる「空気を読めない」人については、他者とのコミュニケーション能力が劣るというより、自分自身の中にあるアンタッチャブルな存在から抑圧されている人・・・そのように見ると理解しやすいわけです。

自分の思考や感情を抑圧しているから、当然のこととしてコミュニケーションに「ぎこちなさ」が起こることになる。しかし、抑圧的であり、その大元の原因について考えることがアンタッチャブルなんだから、その大元の原因が当人自身にも認識されないし、当然のこととして「語られることはない」。だから、周囲の人にしてみれば、ただ「ぎこちなさ」だけが目に付いてしまうことになる。

しかし、そんなぎこちない光景を見て「アイツは空気が読めないヤツ!」とバカにしている人は、そんなに立派なの?その「空気を読めない」人から迷惑を受けているのなら、その人に的確な言葉で注意すればいい話ですよ。もちろん、基本的な態度としては、そんな人を避けることがベスト。どうせ、そんな人には何を言ってもムダですよ。何もそんな不器用な人をわざわざ観察して、喜ぶ必要はないじゃないの?

しかし、ダメダメな人は自分から逃避している。だから、自分自身の問題から目を背けるために「下には下がある。」と思いたがる。自分より下の存在を確認して安心したいわけ。だから、わざわざ「空気を読めない」人を見て喜ぶことになる。

と言うことで、そんな人にわざわざ近寄って行くことに。
そうして「おい!オマエ!ちょっとは空気を読めよ!」と上からの物言い

しかし・・・そもそも「空気を読めない」とされる人が、そんなあいまいな言い方をされて理解できるの?それができれば、最初からぎこちない行動はしませんよ。そんなことは論理的に考えてみれば、誰だってわかることでしょ?
実際に迷惑を受けているのなら、もっと端的に言わないと効果がないでしょ?
「キミのこの言動に、ワタシは迷惑している。少なくともこの点は止めてくれ!」
それくらいで言わないと理解してくれないのが、まさに「空気を読めない」人なんでしょ?

「端的な言葉で注意するか?そんな人を避けるか?」
空気を読めない人との対処は、このどっちかでしかないでしょ?
「空気を読めよ!」と相手に要求している人は、相手には具体的にどうしてほしいの?
まさに「で、結局は、アンタは何が言いたいの?」となってしまう。

「空気を読めない」人は、重症の抑圧状態と言えますが、そんな人にわざわざ寄っていく人も、抑圧状態なんですね。まあ、抑圧の程度としては、多少は軽いと言えるんでしょう。

人とのやり取りにおいては、形の上ではつつがなくやり取りすることができる。しかし、込み入った内容をやり取りすることはできないレヴェルでしかない。別の言い方をすると、とりあえずは「人に合わせることができる」レヴェル。おしゃべりはできても、会話ができないレヴェルとも言えるでしょう。あるいは、相違点がない状態だったら、対応ができても、お互いの相違点を認めた上で合意形成をする能力がないとも言えるでしょう。
そんな人が、自分より下を見て、「空気を読めよ!」とお説教。

そんな人は、行動がぎこちない人に対して「空気を読めよ!」と、あいまいな物言いをするだけでなく、別の人とのやり取りにおいても、あいまいで漠とした物言いをするものでしょ?場の空気を乱すようなことは言いませんよね?

結局は、そんな人は、インターネットの掲示板に群れることになってしまう。
そうして、誰かをあげつらって「アイツは空気が読めない!」と大喜び。
じゃあ、自称「空気を読める」人はそんなに立派な存在なの?で、結局は、どうしたいの?

そもそも、ダメダメ家庭の出身の人間は、往々にして人に合わせすぎる傾向があります。自分自身の意見など持たずに、その場の状況に合わせてしまうわけ。そんな人は、ある意味において「空気を読める」存在と言えるでしょ?と言うか、「空気を読みすぎる」存在と言えるのかな?逆に言うと、他に能があるの?それ以外にとりえがあるの?

このメールマガジンでダメダメ家庭の問題を考えるに際しては、「言っていること」「していること」から考えるよりも、「言おうとしないこと」「しようとしないこと」から考えて行った方が考察が進むと頻繁に書いています。「空気を読めよ!」というあいまいな要求は、端的な言葉で要求できないことを意味しているわけ。往々にして、そんな要求をする人のやっていることに「やましさ」とか「後ろめたさ」があったりするもの。たとえ、精神的な抑圧がない場合でも、尊厳を失っている状態。

以前にノーベル賞作家のエルフリーデ・イェリネクさんの小説「ピアニスト」を映画化したものをとりあげました。その中において、主人公の女性ピアノ教師のエリカさんが、ポルノショップに堂々と入って行って品定めするシーンがあります。ちなみに、そのシーンは原作の小説版だけでなく、映画版でもあります。そのエリカさんに対して、店内の男性客は当然のこととして「おいおい・・・あのオンナ・・・こんな店に来るなよ!ちょっとは空気を読めよ!」と思うもの。まあ、ポルノショップに女性客は似合わない。もちろん女性客にも法律的には権利があるでしょう。だから、お店としても拒否はできない。それに、男性客にしても、ある種の「後ろめたさ」や「やましさ」があるもの。だから女性客に対して、端的な言葉で「注意」や「指導」するわけにもいかない。結果的に「おいおい!頼むから空気を読んでよぉ〜」と思うしかないでしょうネ。
逆に言えば、「空気を読めよ!」という感情には、そんな「後ろめたさ」や「やましさ」が背景にあったりすることが多いもの。

別の芸術的な事例だと、以前に『ソ連』の作曲家のショスタコーヴィッチという人が、彼の第9番目の交響曲でソ連当局と微妙にモメたことがあります。「ソ連」当局としては、第9交響曲なんだからベートーヴェンにちなんで合唱入りの盛大な曲を作ってほしかったようで、色々と作曲者にアプローチしたようですが、ショスタコーヴィッチは、比較的シンプルで軽い曲を作曲しました。

ショスタコーヴィッチとしては、「そんなに合唱入りの壮大な曲にしてほしいのなら、内々の要望ではなく、文書で正式に委嘱しなよ!まっ、できるもんならさっ。」と思ったんでしょうね。しかし、やましいところがある当局としては、「おいおい!空気を読んでよ!」と内々に伝えるばかり。

ちなみに、比較的シンプルな構成で、軽い交響曲となると、ベートーヴェンの第8交響曲がそんな曲です。ショスタコーヴィッチは、自身の第9交響曲を、ベートーヴェンの第9交響曲よりも、ベートーヴェンの第8交響曲に近いものにしたわけ。だって、ショスタコーヴィッチの第9交響曲は、ある意味においては8番目の交響曲。実は彼の第4交響曲は、当局のせいで、演奏禁止になっていました。だから、それまでは7曲しか演奏されていない状態。ショスタコーヴッチとしては、「次回の9番目の交響曲は、オレにとっては第9交響曲となるけど、アンタたちにとっては、8番目の交響曲じゃないの?」と言いたいんでしょうね。

ソ連当局を相手に・・・わぁ!命がけだねぇ・・・
しかし、芸術家たるもの、表現する際には、命を懸けないとね。

殉教者的に、確信犯的に、何かとお騒がせをしでかす芸術家の問題は別にして、一般社会だったら「空気を読めない」人間など避ければいい話ですよ。
同じように、「アイツは空気が読めない。」とわざわざ大喜びしているような人間も、目的意識がなかったり、コミュニケーション能力が乏しかったり、尊厳を持たない人と言えるわけだから、避けた方が無難なんですね。
一緒になって大喜びしていると、周囲のマトモな人たちから、どんな評価を受けてしまうのか?

いつのまにか、自分たちが別の人から言われている・・・そんなことになってしまうわけです。


ちなみに・・・ダメダメとは直接関係ありませんが・・・
やっぱり「空気を読んでよ!」という形でしか伝えられないものもあったりするもの。
ただ、そんなものは、最初のうちはそれで通用していても、いったん崩れだしたら、脆い・・・そんな傾向があるわけです。

そのことを私が思ったのは、以前に騒ぎになったイタリアのフィレンツェでの落書き事件です。
私個人も、以前にフィレンツェに旅行に行ったことがあります。まだイタリアの通貨がリラの頃。その頃は落書きもありませんでしたし、聖堂の前でマジックペンを売っている人もいませんでした。

イタリアの聖堂というか教会は、単に観光施設ということではなく、あるいは、純然たる文化遺産ということでもなく、実際に使われている教会です。カテドラルの中で実際に手を合わせて祈っているオバサンもいたりする。あるいは国宝級の絵画の横で結婚式をやっていたりする。現役バリバリの教会なんですよ。

手を合わせて祈っている人の横では、ある種の「空気を読む」必要もあるでしょう。
文化遺産の保護とかの高尚な理念を用いなくてもね。
教会の中で、部外者がかしこまる必要もないでしょうが、祈っている人が最優先ですよ。
必要以上の音を立ててはいけないでしょうし、カメラのフラッシュのように何かを光らせてはダメでしょう。
ただ、日常的な音は許されるのでは?だって、その教会は日常の中に存在しているわけですからね。

聖と俗というものを、二項対立的に考える人もいるようですが、私個人はそうは考えないんですよ。
聖なるものと、俗なるものは、お互いが干渉しあってこそ、存在していけるのでは?
たとえば、1000年以上の歴史を持っている日本の神社であっても、日常の風景は、オバサン連中が井戸端会議をして、子供が鬼ごっこでもして、あるいは高校生がアイスクリームを食べておしゃべりをしたり、待ち合わせの場所として使われているだけですよ。そんなことを1000年以上やってるわけでしょ?
鬼ごっことか、井戸端会議と言っても、手を合わせて祈っている人がいたら、ちょっと静かにする・・・ただそれだけ。叫び声を上げてはいけないし、玉砂利の上では静かに歩かないと音も出ますしね。そんなちょっとした配慮が、俗の中の聖であって、そんな配慮があるから、その俗が、「卑」になるのを防ぐことができるのでは?あるいは、待ち合わせ場所として生活の中で使われることにより、聖なるものが、純粋に教理の世界になってしまって生命感が喪失するのを防ぐのでは?

日常においては、聖なる場所が、俗に対して尊厳を与え、俗な存在が、聖なるものに生命力を付与する・・・そんな相互性があると思うんですよ。
神社とか教会なども、そんな価値があるのでは?
ただ、それはどっちかというと微妙な空気に近いもの。
宗教上の教理は説明できますが、祈っている人への配慮なんてのは、どっちかというと空気に属するものでしょう。

聖と俗を二項対立的に考える人は、その聖なるものが日常の中ではどんな姿なのか?実感を持って見てはいないんでしょう。イヴェントの時にしか行かないんでしょうね。それはそれで結構ですが、聖なるものも、イヴェントの時以外には、ある種の日常性の中にあるわけです。
日常の中にある聖なる存在への距離感というのは、空気に属するんでしょう。
だからフィレンツェの教会で、騒ぎ気味の、クリスチャンもいれば、落ち着いてリラックスしている日本人もいる。その手の空気感というのは、キリスト教云々の問題ではないんでしょうね。

フィレンツェでの落書き事件では、その聖堂の前でマジックを売っていた人がいたそうですが、たぶん、その人は、フィレンツェ生まれでも育ちでもない人じゃないかな?
祈っている人への配慮という空気感を持っている人ではないように思うんですよ。

フィレンツェの人は、何せイタリア人なんだから、「いい加減」な人が多いわけですが、それでもそういうことはしないもの。その教会が有名かどうかに関わらず教会に落書きをするようには見受けられませんでした。人の移動が活発になること自体はいいことですが、新しい人に対しては、それまで通用してきた「空気による管理」が通用しなくなってしまう。
聖堂の前でマジックを売っていた人に対して、地元の人間は、どのような手段をとればいいのか?わからない。結局は、何もアクションを起こさず、収拾が付かない事態になってしまう。

「空気を読めよ!」で、通用している内はいいわけですが、いったん崩れだしたら脆い・・・だから、出来る限り、言語化しておいた方がいいわけです。

明確に言語化されずに、いわば「空気を読む」ことで安定していた集団に、空気を読めない、あるいは読もうとしない異端者が入ってくると、従来の人間は対処の方法がない。
だから何も対処しないか、あるいは、その異端の存在自体を抹殺するような過激な方法を取ったりするもの。
「アナタは、ここまではやってもいいけど、それ以上はダメ。」と言語化すれば対処も可能だけど、言語化の能力自体が弱くなってしまうと、対応力が弱くなる。

「空気を読め!」という要求は、対応力のなさにつながっているわけ。
トラブルが発生しないようにするには効果的な面もあるでしょうが、トラブルが発生した場合には、ホント、脆いものなんですよ。別の言い方をすると、安定を維持するには効果があっても、変化が起こった時には対応できないわけ。
現状を認識し、分析し、解決するための手段としては、空気ではなく、やっぱり言語が必要なんですね。

(終了)
***************************************************
発信後記

ダメダメとは直接関係ありませんが、本文中に書きましたが、私個人は聖と俗を二項対立的には考えておりません。そのような発想は、このメールマガジンで、一貫して流れているものです。

あるいは、過去と現在、あるいは未来というものを、対立的には考えておりません。
別の言い方をすると、歴史というものを、客体的には考えておりません。そんな発想も、このメールマガジンの文章に、一貫して流れているもの。

よく「歴史に学ぶ」なんてご立派な物言いがありますが、歴史はそんなに客体的なものなの?だって21世紀の我々だって、やがて歴史になるんですからね。
それこそ、何百年も続いている市場があれば、その場所にあるハンバーガーショップでバイトしている女の子は、何百年の歴史の系譜に連なっているわけでしょ?
そして、お店の種類は変化しても、そんな場所には、また似たような活動がなされたりするもの。

現在のちょっとした活動も、過去からの流れとは無縁ではないわけですし、そんなちょっとしたことが将来にもつながっているもの。
「歴史に学ぶ」という言い方は、逆に言うと、過去からの断絶のニュアンスがある。
私だったら、「過去の事例を参考にする。」そんな言い回しになります。
歴史というものを、過去の事例の集積と考えるのか?学ぶべき規範と考えるのか?それぞれの考え方があるでしょう。

それぞれの考え方には根拠があるでしょうが、抑圧的なダメダメ人間が、歴史を規範として認識したがる例として、以前に取り上げた「韓国の歴史教科書」があるでしょう。
あの教科書は、歴史とは規範であるがゆえに、その記述が客観的な事実である必要はない・・・そんな考えに貫かれている。
規範としての有効性と、事実としての正確性は、一致しないわけ。
そんな発想の基本の違いを認識しないまま議論しても、お互いが「あの人たち・・・何を言っているの?」と怪訝に思うのは当然。

確かに、あの「韓国の歴史許可書」は文明国としては異常でしょうが、まがりなりにも文章になっているので、部外者としても、その基本となる発想を認識することは可能。
「空気を読め」だけだったら、発想の根本に横たわる違いがわからないままになってしまう。だからこそ、過激な方法が登場しやすいわけ。
R.10/12/22