トップページに戻る | 配信日分類総目次に戻る |
カテゴリー分類総目次に戻る | タイトル50音分類の総目次へ |
カテゴリー | ダメダメ家庭が持っている発想 |
配信日 | 09年9月11日 |
タイトル | 潜在能力願望 |
子供向けなどのアニメなどをチラっと見ていると、ある種の傾向に気がつくことがあります。人気があって、頻繁に再登場するような設定なりセリフがあったりするわけ。 「あれ?この言葉は、別の作品で、前にも聞いたような・・・」 そのようなことが多いわけ。 まあ、作品を作る側だって、人気がある設定なりセリフを再利用するのは当然でしょう。 そんな感じで割と頻繁に登場してくるセリフとなると、 「ワタシにはスゴイ才能が隠れている・・・ハズ。」と言うもの。 エンディング・テーマの歌詞などには、この言葉が結構出て来る。 じゃあ、そのスゴイ才能って具体的には何? まあ、アニメだと、それこそ魔法の能力が隠れていた・・・とか・・・ そんな話は、実にポピュラーな設定と言えるでしょう。 もうちょっと上の年代向けだと、何かとてつもない運命なり使命なり、あるいはある種のオカルト的な能力を持っているのが、判った・・・なるケースもある。 何かを機会に、その能力なり使命が目覚める・・・ そして、その使命のために行動する・・・ そんな話が多い。 フィクションなんだから、どんな設定であっても、それはそれでいいわけですが、そんなフィクションが人気があるということは、それを求める人たちが多いということ。 ・・・本当は、このワタシは、今のワタシのように、地味で「ふつう」の人間ではなくて、何かスゴイ能力が隠れているんじゃないかなぁ・・・イヤ!そうあってほしい!・・・ そんな心情があるんでしょうね。 スゴイ才能が隠れている・・・のは、いいとして、いつまでも隠れたままだったら、もともと何も持っていないのと同じですよ。何とかして顕在化させないとね。 その能力をどうやって顕在化させ、その使命とやらをどうやって自覚するの? フィクションだと、それこそ、お茶目な黒猫でも出てきて「○○ちゃん!君は本当は☆☆なんだ!さあ!今から変身だ!」なんて言って、それで能力なり使命が自覚できるのかもしれませんが、現実において、「自分にはスゴイ才能が隠れている・・・ハズ!」と思っている人は、どうやって、その能力を自覚するの? 人間の言葉を話す動物がやってくるのを、いつまでも待っているの? それまでは、「ワタシには、スゴイ才能が隠れているはず・・・」と思っているだけなの? あるいは、「スゴイ才能があるはず・・・」「無限の可能性があるはず・・・」と思うのはいいとして、今の自分では何がしたいの?何ができるの? 「ワタシは、どこにでもいる、ふつうの○○・・・しかし、△△があると・・・□□になるのっ!」 と自己紹介するのもいいわけですが、「どこにでもいる、ふつうの人間」でも、それなりにやれることも多いわけでしょ?あるいは、自分でやりたいことはないの? 自分でやりたいことを、自分でサクサクやって行って、いわば追加的に、後から気がついたスゴイ才能でやれることをやればいいんじゃないの? 何も子供向けのアニメに、まじめに突っ込んでもしょうがない。 ただ、何回も書きますが、その手の設定に人気があるということは、それを求める心情があるということ。それが単なる子供っぽい夢想のようなものなら問題がないわけですが、「恋に恋するように」そんな無限の可能性をいつまでも夢見る場合があるんですね。 無限の可能性を夢見るのはいいとして、それを現実に顕在化させる努力も必要でしょ?夢見る状態に留まっていては、せっかくの無限の才能も、宝の持ち腐れですよ。 「ワタシは才能がある!ワタシは才能がある!ワタシは才能がある!」 って、カルト宗教のお題目のように唱えていても、何も達成できるわけがない。 才能があるにせよ、色々とチャレンジしないとね。 よく「やれば出来る子」なる物言いがありますが、そんなにやればできるのなら、実際にやればいいだけ。 埋もれている才能がある・・・ことが重要なのではなく、具体的に何ができるのか?何をしたいのか?それが重要でしょ? それは自分を見つめないとわからないこと。 スゴイ才能があると連呼することは、才能がなくてもできる。 「何がしたいのか?何ができるのか?」それを自覚することは、実際に才能がないとできない。 才能とか運命とかは、本人の努力とか自覚とは無縁と言える。 自分の価値が前々から決まっていたものとすると、本人の努力から解放されるので、抑圧的な人間にしてみれば安心できるわけ。いわばポジティヴな方向での「烙印」感覚であって、何かを達成していく過程という感覚がない。つまり、当人としては、何もせずとも、その才能が自分の中に潜在していればいい。そんな人にしてみれば、能力があることが重要であって、その能力で何をするのかは重要じゃないわけ。 恋に恋するように、「ワタシには無限の可能性がある!」「何でもできるはず!」なんていうことはできる。しかし、自分自身を見つめることはしないわけ。 だから地道な努力とは無縁となってしまう。 「可能性があるはず!」と連呼するだけ。 そして「こんなに無限の可能性があるハズのワタシなのに、うまくいかないのはどうして?」と焦ってしまう。 そして叫ぶ、「こんなんじゃない!」。 その「こんなんじゃない!」という言葉は、ダメダメ家庭の人間がよく言ったりするものでしょ?そのような言葉が使われるケースの一つとして、たとえば、異性関係だと、多くの男性遍歴とか、女性遍歴などがありますよね? 数多くの異性と関係を持っても、それを遊びと割り切っているのなら、それは趣味の問題でしょう。 しかし、「ワタシが求めているのは、こんな人ではない!」とか「こんな恋がしたいんじゃない!」なんて否定形で判断して、その結果としての遍歴というスタイルもあったりするでしょ? あるいは、大学などで、学校を次々変わるような学生っていたりするものですよね?または、学校の中で学科を次々変わったり・・・ あるいは、会社を次々変わったりとか・・・ あるいは、所属する政党を遍歴する・・・そんな政治家もいたりしますよね? 「本当にやりたかったのは、こうじゃないんだ!」 なんて言いながら、まさに遍歴を続けることになる。 『じゃあ、アナタが本当にやりたいことは何なの?』 『どんな場所で、どんなことをやりたいの?』 そんな問い掛けには「うーん・・・」となるだけ。 そして、やがては自分探しで世界を巡る。 「オレが求めているのは、こんな国じゃないんだ!」 「ワタシが求めているのは、こんな出会いじゃないわ!」 「ワタシはもっと色々なことができるハズだ!」 まあ、別にいいんですけどねぇ・・・ それこそ以前に取り上げたトルーマン・カポーティの小説「ティファニーで朝食を」でのホリー・ゴライトリーの歌のまま。 『眠りたくもないし、 死にたくもない、 ただ旅をして行きたいだけ、 大空の牧場を通って。』 そんな人は、自分自身の問題から逃避している。「自分とはどんなものなのか?」そのことを考えることから逃げているので、当然として、自分にとって必要なものもわからない。だから常に何かを否定するしかなくなってしまう。上記のホリーさんは、いかにも「こんなんじゃない!」って言ってそうでしょ? そんな人は、結果的に、上手く行くわけもなく、その原因を誰かに押し付けるだけ。 「あの○○のせいで・・・上手く行かない!」 と、最後まで否定形。 周囲を否定するのは勝手ですが、いつまでもそんな状態だったら、周囲の人も呆れてしまって、その人自身が否定されてしまう。 何もギャグで書いているわけではなく、現実に頻繁に見られる事例でしょ? 「こんなんじゃない!」というのは、現実否定の精神と繋がっている。現実否定であり、現実逃避。別の言い方をすると、すでに顕在化されている能力や事態と向き合うことからの逃避と言える。 顕在化されているものから逃避しているがゆえに、潜在に頼ってしまうわけ。 そうやって、すべてを否定しながら、自分の居場所を探すことになる。 「ああ!ホントウのワタシはどこにあるの?!」 「ワタシが持っていた無限の可能性はどうなってしまったの?!」 「どこかで、このワタシの可能性を羽ばたかせたい!」 「ああ!安らぎがほしいわ!」 その人にとっての居場所と言っても、色々なパターンがあるもの。 リラックスできる場所ということなら、いわゆる家庭という存在がその代表でしょ? リラックスということは、「成果を求められない状況」から生まれるものでしょ? しかし、ダメダメ家庭においては、家庭そのものも、成果を求められる場所と言える。被害者意識が強いダメダメな親は、「子育ては親である自分がこうむった被害」と認識しているので、子供に対して、その被害に対する補償を求めるわけです。だから子供は親から成果を求められることになってしまう。そんな状況ではリラックスはできませんよ。 だから常に精神的に切羽詰ってしまう。しかし、その手の人は、自分自身から逃避している。当然のこととして自分の出身家庭の問題は思考停止になっている。だから家庭に関することも、考えたくない。むしろ考えることそれ自体に恐怖心を感じるもの。 だから、大人になっても、家庭を居場所とすることはできなくなっている。 リラックスできる居場所とは、居場所について考えなくてもいい状態を持てる場所。 ・・・いつもながらの逆説的な表現になってしまいますが、そんなものでしょ? 家庭にいる時に、居場所について考えているのなら、その家庭は、その人にとって居場所とはなっていないわけです。同じように、逃げ場所について考えなくてもいい場所が、本当の逃げ場所というもの。居場所を探している段階で、その場所は居場所ではないわけ。 有名なメーテルリンクの「青い鳥」ですが、求めているものは、実に身近にあった・・・そんな話ですよね?それは幸福を求める旅であるわけですが、居場所だって同じ。 もっとも身近な存在である自分自身が理解できれば、自分にとっての居場所も理解できることになるのでは? 自分探しをしている人が、自分が見つからないように、居場所を探し続ける人は、本当の居場所は見つからないもの。 自分自身を理解し、その価値を高める努力をすれば、そんなことができる場所が、居場所というもの。幸福を探すから、幸福が見つからない。自分自身の課題を探せば、その積み重ねによって、幸福に到達するものなのでは?「こんなんじゃない!」と否定しているうちは、居場所が見つからないとも言えるのでは? ダメダメ家庭においては、家庭というものが、現実的には居場所にならない。 そのことを自覚しないと、次には進めないもの。 居場所を探し続ける人は、探しているのではなく、単に逃避しているだけ。 「こんなのは本当の居場所じゃない!」と否定しているだけ。 身近な存在から逃避しているので、身近になった段階で、逃げることになってしまう。 逃避ばかりしている人は、逃げる行為こそが居場所になってしまう。 何かあったらいつでも逃げられるという安心感がないと、困ってしまい、まさにリラックスできない。ダメダメ家庭の人間は、子供時代に安寧というものの絶対的な体験をしていない。だから本当の安寧がわからない。いつでも逃げられる状態でないと、精神的に不安になってしまう。だからボランティアのようなものをやりたがる。自分自身から逃避し、他者の問題に関わるわけ。しかし、事態がシビアーになると、やっぱり逃避してしまう。 事態がシビアーになった場合だけではなく、たとえば、ちょっとしたトラブルが起こっても、「ワタシが救いたい苦境はこんなレヴェルの苦境じゃないんだ!」「こんな程度のトラブルでは燃えさかる我が善意が満足できない!!」などと言いながら、別の場所に移籍したりする・・・そんな熱情的な「善意」の人もいたりするでしょ? そんな人は、まさにホリー・ゴライトリーのように、身近な時間といえる現在が喪失し、自分自身が過去の存在となったら、そんな過去になった時間が居場所になってしまうもの。思い出の中だけが居場所って、本人にしてみれば、楽しいことではないでしょ? そんな人は、自分の現実の可能性について、具体的には考えることができないわけです。 自分の可能性を考えられないんだから、他者の可能性も考えることができないなんて、理の当然。 ダメダメなボランティアは、対象者の被害には反応しても、可能性には配慮しないものでしょ?過去のトラブルを一緒になってグチって、他者を犯人認定しているだけ。 そんなことだから、対象者の可能性が発揮されず、ますますダメダメが重症になってしまう。ボランティア当人が「こんなんじゃない!」と言っているような人たちなんだから、サポート対象の人が持っている可能性を顕在化する能力なんてありませんよ。 結局は、自分自身の才能が分かったわけでもなく、事態がよくなったわけもない。だからこそ、相変わらず「ワタシにはスゴイ才能が隠れているはず・・・」とか、「何か善良な面があるはず・・・」とか、「壮大なる運命がワタシを待っているはず・・・」とかの潜在面に期待することになる。 「今は、たまたま平凡な日常だけと、いざ、ことが起これば・・・いや!起きさえすれば!」。 潜在能力願望は、そんな「いざ、大きなことが起きさえすれば・・・」という期待に転化してしまう。 何かトンデモナイことが起こると、自分の中に眠る「スゴイ能力」「よき心」が目覚めるように思ってしまう。 災害のボランティアとして、張り切って現地に入る人もいるでしょ? そんなボランティア活動によって、自分の能力、役割が得られることになり、気分が高揚するわけ。 「ああ!ボクは人々の役に立っているんだ!」 「ボクはこんなに立派なことができるんだ!」 「ああ!ボクって、なんていい人なんだろう!!」 一時的に高揚するくらいならともかく、入れ込んでしまうと後が厄介になる。 自分が必要とされる、そんな災害というか、トラブルを自分で作ってしまう。 それこそ、たまに、消防署員が、自分で放火したりする事件があったりするでしょ? そんな放火犯は、放火することで自分の居場所を作ったわけです。自分の能力が発揮される状況を自分で作っただけ。そんな人にしてみれば、自分自身のよきものとしての資質を発現させるために、放火したわけです。 クリティカルな状況が起こると、人間の中に潜在する「よき資質」「スゴイ能力」が開化する・・・という信念に似た願望は、随所に見られたりするものです。 「日本人は、何か事態が起こると一致団結して、やり遂げることができる・・・ハズだ!」 なんてことを言う人もいますよね? その言葉は、クリティカルな状況の発生が、日本人のよき資質を目覚めさせるということでしょ?そうなると、一種の「約束の地」の発想で、「とんでもないカタストロフさえ起きれば、我々が『よきもの』として生まれ変わることができる・・・ハズだ!」と考えてしまうことになる。 こうなると、大規模にクリティカルな状況を作って、人々が潜在的に持っている「よき資質」を目覚めさせることを考えるわけ。 まさにハルマゲドンを起こそうとするわけです。 彼らには彼らなりの論理があるわけです。 ダメダメ家庭の心理を理解していると、意外にも、見通せるものなんですね。 オウムのレヴェルまでのクリティカルな状況を作ろうとするのはレアケースですが、人々の中に潜在する無限の可能性なり、よき資質なり、深淵な運命なりを、クリティカルな状況を作り出すことによって、顕在化させ、人々を浄化する・・・そんな発想は、程度問題は別として、意外にもポピュラーなものなんですよ。 それこそ、かなり以前に日本では、登校拒否の子供をヨットから突き落として、クリティカルな状況を作り出し、「生きる意欲」を導き出そうとする人たちがいました。人間がもともと持っている「生への活力」を顕在化させる・・・そんな意図を持っているんでしょうね。ただ、そんな行為は「死ぬのはイヤだ!」という二重否定的な心情を与えることはできても、「生きたい!」という肯定的な心情を作っているわけではないでしょ? 本当の意味で、潜在能力を発現させることにはなっていないわけ。だって、対象者について、何も分かっていないわけですからね。 ただ、個人レヴェルか、集団レヴェルかはともかく、クリティカルな状況が「よきもの」の発現を促し「生まれ変わる」ことに繋がる・・・という発想は共通しているでしょ? あるいは、自分でクリティカルな状況を作りだし、能力を発現させるという能動的なパターンとは別のパターンもあります。 「オレたちには、本当はスゴイ能力があるんだ・・・だけど、あの○○のせいで・・・今現在は発揮されていないだけだ!」と考え、いわば自分を被害者認定し、犯人探しに発想が向かうパターンもある。 それこそ、韓国人なんて、その典型でしょ? 「我々韓国人はスゴイ才能がある・・・だけと、今は発揮されていない・・・それは、みんなあの○○のせいなんだ!」 そうなると、「あの○○をやっつけろ!」 となってしまうのは、当然のこと。 クリティカルな事態になって、しっかり対処できるためには、「ワタシはすごい才能があるはず!」と盲目的に確信していてもダメ。そんな夢想に浸りきっているのではなく、将来において起こりうる事態に備えて準備するのがスジというもの。 自分自身の能力や欠点を自分で分かっていて、地道に努力することが必要でしょ? それこそ、アメリカでハドソン河に墜落して、乗員を救助した機長さんのように、普段から地味な訓練をやってその積み重ねがあったから、どのような事態にも落ち着いて対処できるもの。 自分自身を知っているからこそ、自分の可能性と付き合えることになる。 しかし、自己逃避のダメダメ人間は、自分の可能性について漠然と語っても、それを具体的に説明できない。 「本当のワタシはこんなんじゃない!」と叫びながら、可能性探しの旅をし、自分の価値を探す旅をし、結局は、自分の可能性を阻害しているとする「犯人探し」の旅となってしまう。そして怪しげな陰謀史観に到達して、「おお!アイツが悪の首領なのか!アイツをやっつけろ!」となって、己の使命に目覚めることになる。 しかし、その使命とやらは、結局は自己逃避の産物であって、単なる背伸びした妄想なんですね。 (終了) *************************************************** 発信後記 先日、愛知県で「部屋がうるさい」ということで同居している妹を殺害した青年の事件がありましたよね? あまりにわかりやすい事件なので、あえて文章を起こしませんでしたが、せっかくだから後記でふれてみます。 犯人の名前は「大輔」とのことで 1.「大の字」 3人兄弟ということで、 2.限度いっぱい 「部屋がうるさい」というクレームについては 3.聴覚過敏 兄弟同士の殺傷ということで 4.兄弟仲が悪い 加害者はひきこもりだったとのことで、 5.登校拒否、引きこもり あと、18歳の弟さんは、家を出ているそうで、つまりそれだけ実家が居心地が悪かったわけ。 6.弱い部分にしわ寄せ あるいは、 7.遙か故郷を離れて 子供同士が殺し合うのはともかく、結局、親は何をやっていたの? 8.自分の家庭の問題を認識することから逃避 まあ、事件というものは、起こるべくして起こるものなんですよ。 |
|
R.10/12/27 |