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配信日 07年10月9日  (10年6月17日,11年2月8日 記述を追加)
タイトル 大の字
以前に、このメールマガジンで韓国の歴史教科書を取り上げたことがあります。
その教科書の中の記述が、まさにダメダメ。歴史的な事件に関する具体的な記述がほとんどなく、精神論ばかり書いてある。まさに「狂人日記」の中で魯迅が書く「年代がないのに、仁義道徳の文字がくねくねと書いてある。」歴史書の典型でした。
逆に言うと、韓国の歴史教科書から、様々なダメダメについての知見が得られるわけです。
ダメダメについて、身を持って教えてくれる立派な教科書なんですね。まあ、ダメダメを的確に記述してあるのではなく、自身でダメダメを体現してくれているといえるでしょう。

韓国の歴史教科書が非常に参考になったので、今度は中国の歴史教科書を読んでみることにいたしました。
まあ、現在の中国が、韓国に負けず劣らずダメダメであることは、言うまでもないことでしょ?まさに世界を相手にブイブイ言わせている状態。
とは言え、中国には立派な歴史もある。
このメールマガジンの文章で使っている漢字だって中国原産。あるいは、もし、この文章をプリントアウトしようと思ったら、紙が必要でしょ?その紙の製法も中国で発明されたもの。あるいは、紀元前の諸子百家の思想家とか、唐の時代の詩人とか、晋の時代の書家とか・・・そんな有名な芸術家も輩出しています。あるいは、司馬遷のような傑出した歴史家もいます。
芸術家だけでなく、それこそ諸葛孔明のようなカッコイイ人物も登場してきます。

この点は、韓国とは全然違っている。韓国は最初から最後まで、何の可能性もなくダメダメ一直線。芸術家も登場しないし、尊厳のある人物も登場しない。それに対し、中国は光が指すマトモな時代もある。
ただし、時代が経つにつれてダメダメになってくる。
たとえば、中国の明の時代で有名な人物って思い浮かびますか?あるいは、明の後の清では?
皇帝の名前は思い浮かぶでしょうが、芸術家や文化人の名前って思い浮かばない。世界史の成績が優秀だった購読者さんでも思い浮かばないでしょ?
中国は時代が経つにつれて、政治家や芸能人は登場しても、後世に残る芸術家が輩出しなくなってしまっている。このような点はギリシャとまったく同じ状況といえるでしょう。

このように、中国では、時代が経つにつれてダメダメが進行してくる。
ダメダメが進行するということを、別の言葉で言うと、「人間が小さくなる」とも言えるでしょ?
そんな「小さい」人間が使いたがる文字があります。
それは「大」という字。
逆説的になりますが、「小さい」人間ほど、不必要なのに「大」の字をつけたがるものなんですね。

たとえば、その中国の教科書において、1990年代での代表的な映画作品が言及されています。そのタイトルが、「西安事変」「開国大典」「大決戦」「大転換」の4つ。
上記4つのタイトルのうち、なんと3つに「大」の字が入っています。
単に入っているというだけでなく、その「大」の字は、不必要でしょ?
「開国集典」でも「決戦」でも「転換」というタイトルでもいいじゃないの?

だいたい・・・その映画って、面白いの?
レンタルヴィデオショップに、置いてあるのかな?
まあ、タイトルを見るだけで、面白くなさそうでしょ?
北朝鮮の映画のように、画一的な勧善懲悪もので、「正しいのは常に共産党!」なんて雰囲気がプンプンですよね?
芸術家たるもの、時の権力者にヘーコラするのではなく、もっと本質的な真実を描くのがその使命でしょ?「小さい」連中だねぇ・・・
しかし、「小さい」ことがなんとなくわかっているからこそ、作品のタイトルに「大」をつけようとする。

「オレの作品は本当は小さいんじゃないんだ!大きいんだ!」
・・・それって、結局はコンプレックスでしょ?
本当に「大きい」ものだったら、逆に言うと「大」の字は必要ありませんよ。
「大」の字がついているものって、映画のタイトルに関わらず、内容的には「小さい」精神につながっていることが通例でしょ?

それこそ、1960年代の中国で吹き荒れた文化大革命なんてものもありますが、あの「大革命」がやったことは、コンプレックスが強い連中が、それなりに「マトモな」人間を、集団でつるし上げして大喜びする下衆な運動でしたよね?
あるいは、中国では大躍進とか大勝利とかの文言が登場する際には、実際の成果はほとんどない。実質的には、事態をメチャクチャにしただけのことの方が多い。
大の字を付けるだけでなく、「偉大なる」とか「壮大な」とか「強大な」なんてムダな修飾語を使うケースもあります。
実態の「小ささ」をごまかすために、「大」を付けるわけです。
中国だと、首都の名前とか、年号に「大」が入っているケースがあります。往々にして、そんな「大」の字つきの時代や場所では、創造的な活動がなされないもの。

このようなことは何も中国だけではありません。
日本で一番ダメだった時代は、大日本帝国の時代です。ダメだったと言うか、コンプレックスが強かった時代とも言えます。自分自身の実態を直視することから逃避して、「オレたちはほんとうは大きいんだ!」なんて虚勢を張っている。
あるいは、日本の近くに現在存在する大韓民国の「大」の字も不必要でしょ?大韓民国の何が「大きい」の?
使われている「大」の字を、「小」に置き換えた方が、実態をよく表している・・・これは中国だけでなく日本も大韓民国も同じなんですね。
韓国なんて、多くの政党がありますが、「大」の字がついている政党名が結構多い。
そんな政党は、スグに消えてしまうもの。

「大」の字は、コンプレックスの裏返し。
自分自身の実態である「小ささ」を直視することから逃避する結果。
だから、その「小ささ」を指摘されると、逆上してしまい、それこそ「つるし上げ」のような行動になってしまう。そうして、「オマエの方が小さいじゃないか!」と、他者を「小物」認定して、喜ぶ始末。

大革命とか大勝利とか大躍進とか・・・事件についてのネーミングだけでなく、人間の名前でも「大」が付くことがありますよね?
何も「大」が付く名前はダメダメだ!なんて申し上げているわけではありませんよ。
それこそ「大きいことはいいことだ!」なんて、素朴で単細胞な発想で「大」の字をつけたケースもあるでしょう。そんな単細胞な発想だったら、ほほえましいレヴェル。
だから「大」の字がついている名前の人はスポーツ選手には結構いますよね?
アメリカに渡った野球選手の松坂大輔さんの「大」も、基本的な発想は「大きいことはいいことだ!」くらいの発想なんでしょう。スポーツをするのだったら、それくらいのシンプルな発想の方がいいんでしょうね。あるいは、お相撲さんの四股名も「大」が付く四股名が多い。まあ、これは当然といえば当然でしょう。そりゃ、お相撲の世界だったら「大きいことはいいこと。」ですよ。

スポーツの分野で基本となる発想であっても、知性の分野では「大きいことはいいことだ!」とは言えない。知性の分野では、「大きい」ことよりも、切れ味とか、鋭さとか、先見性とか、精神的な深みが要求されるでしょ?
人格・・・つまり人間的に大きいのは重要と言えますが、知的分野においては、必ずしも人格的な大きさが必須というわけではない。
だから、「大」のつく名前の人は、知的分野ではあまり見かけないでしょ?作家のペンネームで「大」の字がついた名前って思い浮かびますか?
ちなみに、スポーツ分野より知的分野の方が上だと申し上げているわけではありませんよ。
知的分野では「大きいことはいいことだ!」という発想が通用しない・・・と申し上げているだけです。

スポーツの分野は別として、「大」の字のついた名前は、強いコンプレックスにつながることも多い。
「オレは本当は小さい人間じゃないんだ!オレは大きいんだ!」という心理が背景として存在しているわけです。
しかし、コンプレッックスが強く、自己から逃避しているので、何かあると、相手に対して冷静に説明することができず、自分の反対者をつるし上げたりと、過激なことをするもの。
あるいは、自分に自信がないがゆえに権威主義的になり、肩書き志向になったりする。肩書きの力で、自分を「大きく」見せようとすることになる。

「自分の子供には大きい人物になってほしい。」
親として、そんな思いをこめて「大」の字が入った名前にする・・・それはありでしょう。単に素朴で単細胞な発想ならともかく、その思いが強すぎるような場合は、その親が自分自身の「小ささ」に、コンプレックスを持っている可能性もあるわけです。そのコンプレックスが子供に引き継がれたら厄介ですよ。
それに、そんな親が持っているのはコンプレックスだけでなく、会話の不全や当事者意識の欠如強い被害者意識も想定できるわけですからね。
別の言い方をすると、「大きくなってほしい!」という肯定形での発想だったら、そこにある「大」の字も、肯定的な意味を持つ。
ただ、「小さいのはイヤだ!」という二重否定的な発想だったら、結局は何かを否定するだけになってしまう。
結局は、周囲を否定し、自分を否定する。そんなスタイルの二重否定になってしまうだけ。

また、この「大の字」の親戚として、「洋の字」もあります。
「大」の字だと、男の子の名前にしか使われませんが、「洋」の字だと女の子の名前にも使われたりする。
だから、名前の字としては、ポピュラーといえますが、「大きさ」への志向という点では、「大」の字と共通しているでしょ?
それこそ、同じ発音でも「洋二郎」とするのか、「陽二郎」とするのか?
女の子の名前でも、「洋子」とするのか、「陽子」とするのかによって、付けた親の心理も見えてくる。
「大二郎」だと、直接的になりますが、「洋二郎」も、微妙にコンプレックスが見えてくる。

以前に、とあるノンフィクション作家の息子さんの「洋二郎」さんが、自殺なさった事件がありました。その父親のノンフィクション作家さんは、何かあると、スグに逆上したりするなど、コンプレックスという観点から見ると、実に理解しやすい行動をしている。
スグに逆上するような親と一緒にいれば、子供だってビクビクしてしまいますよ。
コンプレックスが強い人は、やり取りにおいては細部に対して過剰に反応するだけで、逆に言うと、やり取りの相手の全体的な意向などは聞いていないもの。ただ、あら探しばかりの会話になってしまう。
そんな家庭の子供が、自殺するということは、実にスムーズな流れなんですね。

洋の字となると、仲間をリンチで殺してしまった女性革命家?の永田洋子氏の「洋」の字から、その親のコンプレックスが顕著に見えてくるでしょう。彼女の「洋」の字は、まさに「ワタシは悪くない!」「悪いのは全部○○のせいだ!」「ワタシって、なんてかわいそうなの?!」「だから、他のヤツラには何をやってもいいんだ!」というダメダメとつながった「洋」の字といえるのでは?
その「洋」の字を持っていても、自分を見つめて、上手に距離感をとったのが、ビートルズのジョン・レノンの夫人のオノ・ヨーコ(小野洋子)さんと言えるのでは?
このサイトでは、芸術活動が、その人を救うことについて頻繁に言及しておりますが、オノ・ヨーコさんが創作活動をやっていなかったら、革命の道に突入していそうな雰囲気でしょ?

ノンフィクション作家さんの事例に戻りますと、自分の子供に「洋の字」がある名前をつけた段階で、自分自身を見つめ直せば、子供だって死なないで済んだでしょうが、それが分かるくらいには「賢く」なかったんでしょう。そんな「賢さ」に対するコンプレックスが、その人の長男の名前である「賢一郎」にも反映しているといえるでしょう。

「賢一郎」という名前も、「健一郎」とか「憲一郎」のパターンもあるでしょ?
「賢」の字を使った背景には、「賢さ」へのコンプレックスが見えてくるんですね。
名前をつけた親が、本当に「賢い」のなら、子供の名前に「賢」の字は使いませんよ。
だって、それだけ「意識する必要がない」わけですからね。
過剰な意識とは、まさにコンプレックス。
コンプレックスが強い親の子供は、常にビクビクして、人に合わせる傾向を持つもの。
だから、ちょっと見的には「問題のない」「ふつうの」「いい子」に見えたりすることもある。

これについて、実に典型的な事件がありましたよね?
福岡県で起きた3人の子供がお亡くなりになった飲酒運転での加害者の名前が「大(ふとし)」という名前でした。
まあ、飲酒運転はともかく、事件後に子供たちを助けなかったり、逃亡したり、偽装工作をしたり、あとで言い訳に終始したり・・・と、絵に描いたようなダメダメ。
しかし、彼は「挨拶ができる」だったとか・・・

彼の親が、コンプレックスが強く、「自分たちが、一番かわいそうな人間なんだ!」と強い被害者意識を持っていて、自分たちの問題を自分で解決する当事者意識がない人間だと想定すると、これらの事態が簡単に理解できるでしょ?
コンプレックスが強いので、自分の子供に「大」と名前をつけるのはいいとして、結局は、その親自身は「小さい」ままでしょ?その小ささが子供に引き継がれてしまっている。
親に強い被害者意識があるので、そんな家庭の子供は、トラブルを起こさないようにと、「人に合わせすぎる」ようになってしまう。だから「挨拶ができるいい子」であるわけですが、逆に言うと、いざという時に、自分で判断できなくて、親譲りの逃避。

親が子供につける名前に「大」の字があってしまうはともかく、自分で「大」をつけるようになったら、その人は、「小さい」人間ですよ。だって、タイトルに「大」をつけるよりも中身を充実させた方がマトモでしょ?タイトルに「大」の字をつけて満足しているなんて、小さいよ。

皆さんも、これからは「大」の字に注目してみてくださいな。
今まで見えてこなかったダメダメが見えてくるようになると思います。

(終了)
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発信後記

本文中にも書いておりますが、『大』という字も、素朴で単細胞な発想から来ているのだったら、問題になるわけではありませんヨ。
それなりに考えた上での大の字だったら、注意する必要がある・・・というだけです。
考えた結果だったら、何かヤバイことが潜在化している可能性があるわけ。
このようなケースは、考えることによってマイナス面につながっていくケースです。
だから、その表現されたものから、深層心理的なマイナス面を見出すことができるわけ。

大の字の問題とは直接関係ないのですが、こんな例として、たとえば、結婚式での音楽を例にしてみましょう。

結婚式での音楽としてメンデルスゾーンの「結婚行進曲」という音楽が使われることがありますよね?
「パパパパーン♪パパパパーン♪パパパッ、パパパッ、パパパ・・・」という景気のいい音楽。
あと、別の音楽でワーグナーの「ブライダル・コーラス」という音楽もあります。
「パァパパパーン♪パァパパパーン♪・・・」というチョット厳かな音楽。

メンデルスゾーンの結婚行進曲は、シェークスピアの『真夏の夜の夢』での付随音楽として作曲されました。まあ、当時においては映画音楽くらいの位置づけです。シェークスピアの「真夏の夜の夢」はご存知のようにギリシャのアテネを舞台とした幻想的な喜劇であって、最後はまさに結婚式というハッピーエンド。

ワーグナーの「ブライダル・コーラス」はオペラ「ローエングリン」の第3幕で使われる音楽です。エルザとローエングリンの結婚式で、周囲の人が、新婚夫婦を祝福して歌うわけ。そういう意味ではおめでたい音楽といえるわけですが、ことは単純には行かない。
周囲から祝福されて結婚した、エルザとローエングリンの新婚夫婦なんですが、新婚第一夜にして破局してしまうんですね。

新婦のエルザが、新郎のローエングリンに対して、「アナタの○○△△□□☆☆・・・・」と言ってしまって、ローエングリンは、「それを言ってはダメじゃないかっ!結婚前に散々念を押したのに!もう終わりだ!」
と、第1夜にして、アッサリ破局してしまう。

まあ、多くの方は、ワーグナーの「ローエングリン」というオペラのストーリーはご存知ないでしょう。しかし、もし知っていたら、結婚式には使いませんね?
オペラについて、何も知らない人が、たまたまワーグナーの「ブライダル・コーラス」を使ったのなら、まあ、これは笑ってしまいますが、逆に言うと、笑って済む話。
しかし、新婚夫婦のうちで、どちらかが、オペラについて詳しい人なのに、ブライダル・コーラスを使ったのなら、シャレにならない。
何がしかの「屈折した」意図なり思いがあることが、想定できるわけ。

大の字も、それに似たところがあるわけです。
この「大の字」については、データーを取っております。
R.11/2/8