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カテゴリー 様々な二重否定表現
配信日 07年11月20日 (10年2月20日,10年10月29日に記述を追加)
タイトル 恨んでいない
備考 「恨む」という言葉は意味的に否定形ですので、「恨んでいない」という表現は二重否定表現となります。
ダメダメ家庭の人間は否定形ばかり。発想が否定形だし、その物言いも否定形。
そして、それが合わさって、二重否定となったりする。
そのことは、以前より配信しておりますし、先日は、「泣いちゃダメ」というお題で配信いたしました。

上記の「泣く」という言葉は、言語的には否定形ではありませんが、意味的には否定形でしょ?
今回の文章においても、意味的に否定形な単語の後に、言語的な否定形が合わさったスタイルの二重否定表現を取り上げましょう。
それは「恨んでいない。」

まあ、「恨む」という感情が、否定的な感情であることは、誰だってわかること。
人を恨んでばかりいても、将来はないでしょ?
かと言って、「誰も、彼も、みーんな大好き!」
そんな安っぽいヒューマンドラマの主人公のようなキャラクターである必要があるの?
「あの人は好きだけど、あの人は大嫌い!」
それでいいじゃないの?
好きな人と楽しいやり取りをして、嫌いな人とは距離を取ったり、自分にとって役に立つ面だけで上手にやり取りすればいい話。

さて、ダメダメ家庭の人間は否定形ばかり。だから発想も減点法になる。マイナス部分にばかり目が行ってしまって、そんな否定的な面をなくそうと努力するわけ。
減点部分をなくそうとするのはいいとして、もっと重要なことは加点部分でしょ?
「その人は何をやったのか?何を達成したのか?」
そのことがその人を語るもの。

しかし、ダメダメ人間は減点部分にばかり目が行ってしまう。そうして減点部分がない「いい子ちゃん」と評価されたいわけ。

「いい子ちゃん」たるもの、人に対し、否定的な感情を持ってはならない!
人を嫌ってはならない!人を恨んではならない!

御説ごもっとも。
しかし、所詮は現実離れした理想論ですよ。

しかし、減点法に陥っている「いい子ちゃん」は、そんな現実離れした理想論から抜け出せない。自分自身の否定的な感情を認めることが怖い。

だから周囲に言ってしまう。
「ワタシは○○を恨んでいないわ!」

現実において頻繁に登場する例では、上記の○○に入るのは、「親」となります。
「ワタシは自分の親を恨んでいないわ!」
そんな物言いを聞いたことがある方もいらっしゃるでしょうし、自分でおっしゃった方もいらっしゃるでしょう。

自分の親を恨むなんてもってのほかだ!

それはそれでいいわけですが、だったら、今現在はそんなにうまく行っているの?
周囲にグチグチと文句ばかり言った挙句に、「ワタシは親を恨んでいないわ!」と言うから、聞いていた側は鼻白むわけでしょ?
そんなに文句を言いたいのなら、見知らぬ他人にタラタラとグチを言うのではなく、「恨んでいない」と認定している自分の親に相談したら?
そう思っちゃいますよね?

「恨んでいない」という二重否定表現を受けての、お約束の反応は、「で、結局は、どうなの?」というもの。
「恨んでいない」のなら・・・「じゃあ、自分の親を好きなの?」「頼りにしているの?」
「頼りにしている」のなら、「恨んでいない」なんて二重否定表現を使わずに、ただ「頼りにしている」という、単純な肯定形でいいじゃないの?

「恨んでいない」って、別の言い方をすると、そもそも存在感がない場合もあるでしょ?
たとえば、皆さんはゴキブリを「恨んで」いますか?
ゴキブリを嫌いな人が多いでしょうが、ゴキブリを恨んでいる人はほとんどいないでしょ?
まさに「ワタシはゴキブリを恨んでいないわ!」と言えるじゃないの?
しかし「恨んでいない」とは言え、ゴキブリを、好きでも、頼りにもしていないわけでしょ?
「ワタシは親を恨んでいないわ!」という言葉は、「ワタシは親とゴキブリを同列に扱っている。」と心理的には同じなんですね。

そんな人が、家庭内暴力で夫から暴力を受けている状態になって、実家に相談もできない状況で、別の誰かに相談を持ちかける際に、
「そもそも、何故にそんなオトコと結婚したの?」「結婚前にはアナタの親はどう言っていたの?」「なぜに実家に相談できないの?」「アナタの実家は何をやっているの?」
そんなことを言ったりすると、「親に迷惑を掛けられない!」「ワタシは親を恨んでいない!」そんな二重否定の言葉が並ぶだけ。

そうして、「こんなにいい子ちゃんなワタシなのに、どうしてこんなことに?!」とやっぱりグチ。
しかし、現実を直視することから逃避しているんだから、「こんなこと」にもなりますよ。
現実を見ずに、てきとうに結婚して、
現実を見ずに、てきとうに子供をポコポコ作って、
現実を見ずに、何も対策を取らず、
子供が問題行動を起こして、
「どうして『こんなこと』に?!」って、言われてもねぇ・・・
挙句の果てに「ワタシは誰も恨んでいないわ!」と来る。

「恨んでいない」という言葉は、「好き」とか「頼りにしている」というシンプルな肯定形で『言えない』ことでしょ?恨むか恨まないかは、ともかく、それだけ否定的に捉えているわけ。自分自身が持つ否定的な感情と真摯に向き合う・・・現状の改善はそんなことからしか、ありえないわけです。

しかし、ダメダメ人間は、周囲の人に対して、自分を「いい子ちゃん」と思わせたい。だからトラブルが発生している現状を認識することから逃避し、何もアクションを起こさない。結局は、どんどんとダメダメが進行し、やがてドッカーンとなってしまう。
本気で現状を改善したいと思っているのなら、「いい子ちゃん」から脱皮しないと何もできないって、当たり前のことでしょ?
しかし、減点法の精神が身についてしまっているダメダメ人間は、一生、その「いい子ちゃん」のまま、突っ走ってドッカーンとなってしまうもの。本人が一人でドッカーンとなるのは勝手ですが、周囲の人間も、ヘタをするとそれに巻き込まれてしまう。
ヘタに巻き込まれてしまうと、それこそ、そんな「いい子ちゃん」こそを「恨みたく」なっちゃいますよね?

さて、「恨んでいない」という言葉は直接登場しませんでしたが、そんな考えがアタマに入っていると、実に理解しやすい事例が先日にありました。
女優の三田佳子さんの次男さんの事件です。またまた覚せい剤の使用で捕まったとか・・・

記者会見があって三田さんがコメントしていました。「ワタシはダメな親だった・・・」とか、おっしゃっていました。
「親である三田さんが、自分のダメさを自覚しているからいいのでは?」
購読者さんの中には、そう思った方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、「どのようにダメなの?」その具体的な観点が重要なんでしょ?
今回の三田さんのように、ダメダメな親が「全部ワタシが悪い!」とアッサリ認めてしまうことについての文章は、以前に配信しております。購読者さんからの投稿の文章です。
その折の追加の文章で書きましたが、そのように全部認めてしまうのは一種の「捨てセリフ」なんですね。「んもうっ!わかった!わかった!全部ワタシが悪いんだから、もう何も言わないでよ!」

「何も言って欲しくない!」
「何も考えたくない!」
そんな発想があると、まさに「ワタシはダメな親だった!」という包括的な物言いになるわけ。

「どこがどのようにダメだったのか?」
その思考がないかぎり、具体的な改善策なんて取れないでしょ?
まあ、あの会見では、母親の三田さんが会見していましたが、父親は何をやっているの?
当事者意識がゼロだねぇ・・・これじゃあ、子供も「やっちゃう」よ!

親の問題はともかく、当然のこととして、事件の当事者である次男本人の問題もあるでしょう。事件そのものについて彼を指弾するつもりはありません。むしろ興味を持ったのは、事件後のコメントです。そのような事件を起こして、「親に迷惑を掛けた。」と言っている時点で、またそんな事件を起こすということ。
何かトラブルが起こって、真っ先に自分の親への迷惑を考える「いい子ちゃん」だからこそ、本質的な解決ができないんでしょ?

親自身がダメな親と言っているわけだから、じゃあ、子供にしてみれば、「具体的にどのような点がダメだったのか?」「どんな親でいて欲しかったのか?」「どんなことがイヤだったのか?」
そんな具体的な思考に至らないと、前に進めませんよ。
自分自身のマイナスの感情と真摯に向き合わないからこそ、何も改善しないし、まさに覚せい剤に逃避するんでしょ?

自分自身のマイナスの感情から逃避していれば、そのマイナスの感情が解決できずに、どんどんと大きくなってしまう。結局は身動きがとれなくなってしまってドッカーンとなる。
この展開はお約束なんですね。

「親を恨んでいない」と言っているうちは、ダメダメが進行しているわけ。
ダメダメの進行をストップさせるには、まずは「自分は親が大嫌い!」と認める必要があるわけです。

もちろん、すべての人が自分の親を恨む必要はありませんよ。
うまく行っているマトモ家庭の人は、親に感謝すればいい話。そのようなケースだと、「親を尊敬している。」「いつも頼りにしている。」という単純な肯定形。
「恨んでいない」という二重否定は、否定形が重なっている分、「親が大嫌い!」という単純な否定形よりも、さらに肯定形から遠いわけ。そして、それだけ自分自身からも遠くなってしまっている。

ダメダメ家庭の問題は「恨む」「恨まない」の感情の問題ではないわけ。
機能不全家庭(=dysfunctional family)の不全な機能の具体論が問題になるわけです。
「子供時代に恨んでいて、今は恨んでいない。」・・・そうなると、自分が育った機能不全家庭の「どこが不全だったのか?」について何も自覚していないということでしょ?
だって「今は恨んでいない。」んだから、問題はすべて解決していることになってしまうでしょ?

「恨んでいないんだから、この問題はもう解決済だ!」
そんな発想が通用するとなると、たとえば病気の例を考えて見ましょう。
世の中で、癌細胞を恨んでいる人はいないでしょ?
困っていることはあっても、恨んではいないでしょ?
だから、「ワタシは癌細胞を恨んでいないわ!」と言えますよね?
しかし、だからと言って身体の中にある癌細胞を放置したらどうなるの?
死んじゃうでしょ?
恨むとか恨まないという感情の問題ではなく、「自分としてはどうしたいのか?」、そして「その問題に対してどのように対処するのか?」、そして「このまま放置したらどうなるのか?」という具体的な問題が重要になのでは?
しかし、「恨んでいない」という言葉を掲げることによって、自分で考え、対処することから逃避してしまうわけ。

実際に、「今は親を恨んでいない」とおっしゃる方は、だいたいがその人の親と同じようにコミュニケーション能力が不全で、当事者意識が何もない状態。それこそ、親と同じように、何回も離婚したりしている。逆に言うと、自分の親とそっくりのダメダメになってしまったんだから、「親を恨む」と自分を恨むことになってしまうでしょ?
そりゃ、「今は、親を、恨んでいない。」って、言わざるを得ませんよ。
そして「恨んでいない」境地に到達したので、機能不全家庭における不全な機能の具体論について何も考えない理由ができてしまう。

そうして「誰も恨まないこんないい子ちゃんなワタシなのに、どうしてこんな目に!ああ!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と、嘆き節。しかし、自分をいい子ちゃん認定してしまっているダメダメ人間は、嘆くだけで対処は何もしないまま。
「恨んでいない」と言っている親にも相談しない。

自分自身から遠くなってしまっている人間の問題が解決できるわけもなく・・・まあ、行くところまで行ってしまうものなんですね。
三田さんの次男さんはお金持ちなんだから、覚せい剤を買えるけど、一般的なダメダメ家庭の人間だったら、まあ、首をつっていますよ。
逆に言うと、「恨んでいない」と言っている状態だったら、ロープが首に掛かっているくらいの危険な状態であること。

「不快だった」とか「嫌い」とか「恨んでいる」とかの、自分自身の本心に向き合わない限り、どんどんと自分を縛っているものがきつくなってしまうだけなんですね。
現実離れした理想論が、人間を縛ってしまう。
理想論が人を殺すこともあるわけです。

(終了)
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発信後記

頻繁に書いていますが、私個人は、何も三田さんを非難しているわけではありません。
彼女が「本気」でないことが見て取れると申し上げているだけです。

イヤ!三田さんは、次男の問題に「本気」では向き合っていませんが、「次男の問題に本気で向き合っている」という「演技」には「本気」になっている。
その「本気」の演技に、観客としての三田さんご自身も、だまされ、感動しているわけ。

このあたりは、ダメダメ人間の心理だけでなく、アーティストとしての「業」もあるでしょう。「本気で取り組んでいる」という「演技」の方に本気になってしまって、自分自身が、悲劇的高揚感に浸ってしまうわけ。
正直言って、この私もわからないわけでもないし・・・

アーティストにとって、何が虚構なのか?何が真実なのか?それは、一般人とは違っているもの。優れたアーティストであるほど、そんな傾向が強い。虚構の世界の方に盛り上がってしまう人間だったら、現実の子育てで失敗しますよ。

アーティストの子供が、悲惨な生涯を送るなんてことは、芸術史においては、お約束のレヴェル。この私ならいくらでも例を出すことができますよ。たとえば、フランスの女流作家のジョルジュ・サンドの子供の例なんて映画にもなっているでしょ?
ご興味がありましたら、皆さんも、お調べになってみては?
R.10/10/29