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カテゴリー | ダメダメ土曜講座(表現と作品 編) |
配信日 | 08年12月20日 (10年7月29日 記述を追加) |
タイトル | 携帯電話からのメール |
このメールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」は、パソコン向けのメールマガジンです。文章も、それに相応した・・・というか、パソコンでのメールマガジンの常識をも凌駕した文字数の多いメールマガジンです。だから携帯電話では、チョット読めないでしょう。 とは言え、私としては携帯電話でお読みいただくことを、拒否しているわけではありません。だから、たまに、携帯電話からお便りがあったりするもの。あるいは、当然のこととして、このメールマガジンに関してとは別に、私の個人的な知り合いから携帯電話からのメールもあったりする。 「パソコンからのメールと、携帯電話からのメールとどっちがいいのか?」 なんて議論はここではいたしません。コミュニケーション・ツールとしてのそれぞれの特性があるわけですし、ユーザーにとっての位置づけもマチマチ。 ただ、いざダメダメ家庭の観点に絞ってみると、携帯電話からのメールには特徴があったりするもの。 いつもは、土曜日は、特定の事件なり人物なりに焦点を当てた文章を配信しておりますが、今回は、その携帯電話からのメールとダメダメ家庭についての関わりについて、まとめてみましょう。まあ、昨今では学校への携帯電話の持込の是非で問題になっていますよね? 今回の文章は、その問題とは直接には関係ありませんが、ちょっとは参考になるでしょう。 ここで、最初に確認しておく必要があるのは、ユーザー個人としての、携帯電話メールの位置づけです。顔を合わせての対面でのやり取りが主であって、メールなどのやり取りは、あくまで従であり、メールは基本的には、連絡事項を伝えるだけ(○月○日に△△で、□□の件について、話をしましょう。)・・・そのような位置づけの人もいますよね?直接に顔を合わせないやり取りなどは、出来る限り避ける・・・そんなスタンスです。そのような発想をされる方は、ちょっとお歳を召した方に結構いらっしゃるようです。しかし、そんなスタンスに徹していて、それを自覚しているのなら、それは、その人の考えと言えるでしょう。そのような人の場合においては、パソコンで文章をまとめる必要はなく、携帯電話でのメールで十分である・・・そのように言えるでしょう。まあ、メールについては、連絡というか情報交換に徹している使い方です。 ここで上記のようなスタンスではない場合・・・つまり、直接に顔を合わせてのやり取り以外にも、突っ込んだやり取りをしたい・・・そんなパターンもありますよね? 対面でのやり取りが苦手の方もいらっしゃるでしょうし、周囲の人間とは共通の話題がないケースもあります。あるいは、その分野において、より知識の豊富な人がインターネット上にサイトを持っていて、そのサイトに興味を持った。だからその人とやり取りしたい、あるいは困りごとを相談したい・・・そんなパターンもあるでしょう。 じゃあ、どんな「やり取り」をしたいの? そうなってくると、携帯電話からのメールと、パソコンからのメールは、結構違ってくるもの。 携帯電話からのメールは、なんと言っても、文章を短くする必要がある。 逆に言うと、短くてもいいわけ。 だから、どうしても、「情報の小出し」が起こりやすい。 あるいは、相談などにおいても、「人物の小出し」も起こったりする。 もちろん、携帯電話からのメールでも、事前にしっかり構想をまとめた上で、メールの文章を書くのなら、いいでしょう。しかし、そんな人はいないでしょ? 事前にしっかり構想をまとめる人だったら、パソコンで文章を書きますよ。 だから、メールを出したり、文章を書くにあたって、「覚悟がない」ケースが多いわけ。 そんな人は、その文章中の物言いも、5W1Hが明確ではなく、「あいまいな物言い」が多い。 「こんな感じに思った」とかの「感想どまり」が多いわけ。 やり取りをしていても、まるで「霞を相手にしているような気分」になってしまうもの。 その相手やそのケースにおいては、携帯電話からメールしたのはいいとして、逆に言うと、それまで、もっと突っ込んだ文章を書こうとは思わなかったの? しかし、ダメダメ家庭は会話が不全。やり取りがおしゃべりどまり。 だから、インターネットにおいては、「掲示板どまり」になってしまう。 まあ、掲示板への書き込みだったら、携帯電話で十分と言えるでしょう。 しかし、おしゃべりなり掲示板でのやり取りはいいとして、たまには会話をしたり、自分でしっかり考えないとね。 そのためには、パソコンもあったほうがいいのでは? 前にも書きましたが、「実際に対面でやり取りしたり、本をよく読んでいるから、メールについては携帯電話で十分だ!」そんなスタンスだったら、いいのですが、マトモな人ではそのパターンはありえても、ダメダメ家庭の領域においては、そんな人は実にレアケース。 現実的には、現状認識なり、自分で考えること、あるいは人としっかりと会話することから逃避している人が、携帯電話からお便りをされるケースが多いものなんですよ。 そもそもその時点で、現状をしっかり把握し、「相手に何を伝えるのか?」その自覚がないまま行動を起こす人なんだから、そんな人は、離婚との相関が実に強いもの。「周囲に離婚が多かったり」、「離婚が連鎖」したりする。 この私くらいになると、メールの文章だけで、「あっ!この人は離婚したことがあるな!」とわかったりするものなんですよ。 離婚する人は、離婚する文章を書くもの。 まあ、今の時点では結婚していない状態の場合だったら、「この人は、将来は離婚するだろうなぁ・・・」とわかったりするわけ。 私としては、携帯電話からのメールがよくないと申し上げているわけではありませんよ。 それぞれのコミュニケーション・ツールの特性を上手に生かせばいいだけですし、おしゃべりはおしゃべりで楽しめばいいだけ。要は「使い分け」の問題です。 ただ、何事も携帯電話で十分と言っている人は、使い分けの問題ではなく、パソコンで文章をまとめたり、あるいは、相手にわかりやすく書くことに対する「苦手意識」があったりするケースが多いわけです。 あるいは、相手に対してわかってほしいこと、それ自体が存在しないケースも多い。 ただ、「ワタシに構って!」と思っているだけだったり、あるいは、「構ってアゲル」という上から目線の立場の場合もある。 いずれにせよ、何かを伝達したり、解決するという発想を持っていないままで、コンタクトをとってくるケースが多いもの。 それはダメダメ家庭の問題と結びつきやすいものですし、それを自覚しないと、離婚しやすいわけです。 メールを出す際には、自分の伝えたいことについて、前もって十分なヴィジョンを持って、そして、自分の書いた文章を校正した上で、相手に発信する・・・そんなことができない人は、結婚する際に、最初に十分なヴィジョンを持って、そして相手のことについて十分に吟味することなく結婚してしまい、結局は「離婚だ!」と修羅場になる・・・ 言われてみれば、当然の流れでしょ? そのようなキャラクターは文章に反映されているもの。 様々なシチュエーションは違っても、それぞれのシチュエーションに向き合う「心理」は共通しているわけです。 あらゆることが断片化されてしまって、全体を見渡す「展望力」なり、全体をまとめる構想力がなくなってしまう。 そんな状況に安住するので、ますます「相手に対してわかりやすく伝える」という発想がなくなってしまい、その能力も向上しない。 携帯電話でのメールが悪いと申し上げているわけではありませんが、メールを出す際に、最初の構想と、しっかりした校正をしない人は、すべての面で、そんなもの。 そんな自分に甘い人が、往々にして「携帯電話で十分」と言っていることも多い・・・それも現実なんですね。逆に言うと、携帯電話からのメールでも、最初の構想と十分な校正をした上で、発信すればいいだけですし、パソコンからのメールでも、「て・き・と・う」な雰囲気の文章もあったりするもの。そして、そんな「て・き・と・う」な文章の人は、やっぱり離婚をしていたりするものなんですよ。文章において「言いたいこと」それ自体については、人それぞれでしょうが、それについて構想と校正を欠く人は、ダメダメなものなんですね。 だから、携帯電話からのメールに対しては、返事が出しにくい。 前にも書きましたが、携帯電話からのメールは連絡事項を伝える程度のものでしょ? 逆に言うと、目的を絞った形で、相手に連絡するには、便利なツールといえるでしょ? だから、受け取った側としては「その連絡を了解いたしました。」くらいの返事になるわけですし、それ以外の返事はできにくい。 そのような、連絡のやり取りだったら、構わないわけですが、それ以上の内容だったら、単なる連絡ではなく、ある種の説明に類することが必要になってくるでしょ? 説明されたから、その見解に対して、受け手なりの見解を出せるのであって、説明の体をなしていないものに対しては、何とも言いようがありませんよ。 単なる連絡として携帯電話によるメールを使う以外では、携帯電話からのメールは、その文章が「独り言系」なんですね。 言いたいことはあるのかもしれませんが、わかってほしいことはないわけ。 相手が見えていない状態で、メールしてくることになる。 独り言には返事は出しにくいのは当然でしょ? 逆に言うと、返事が出しにくいメールは、よく読んでみると、実質上は独り言でしょ? 携帯電話は所詮は道具。上手に使えばいいだけ。ただし、安直なコミュニケーションに留まっていると、人としてもそこどまりになってしまう。 そうなってしまって、離婚の修羅場で大騒ぎしても、もう遅いよ。 携帯電話は、情報の受信力は、パソコンよりも上でしょう。 何と言っても、持ち運びが容易なんだから、どこでも受信できる。 しかし、発信力はパソコンの方が上でしょ? 確かに、携帯電話からもメッセージを発信できますが、質的には内容のあるものにはなりませんよ。 逆に言うと、携帯電話で満足している人は、発信したい内容がない人が多いものなんですね。 携帯電話を学校で禁止するしないの問題ではなく、その人として、何を見て、何を考え、何を伝えるのか?それは道具の問題ではなく、当人の問題ですからね。 (終了) *************************************************** 発信後記 現在は12月で、まさに冬の真っ盛り。 「冬来たりなば、春遠からじ。」なる言葉があるように、冬の次には春が来て、そして夏になる。 季節は巡るわけですから、「これ以上ない」という、その季節の絶頂のようなものも存在するはず。 ここで、冬の絶頂なり、夏の絶頂は理解しやすい。 温度をチェックして、温度が一番低かったり高かったりの時点で判断すればいいだけ。 じゃあ、春や秋の絶頂は? これは温度では判断できない。温度を関数化して、それを数学的に微分しても、求められないでしょう。しかし、冬から春になり、やがて夏になるんだから、春の絶頂という時点も、存在するはず。 春の絶頂と同じように、人間の生涯においても、「若さの絶頂」というものも存在する。 だって、子供は若くない。幼いというだけ。歳を取ると、成熟の美は存在しても、若さではない。 人は、子供の時代から、若さを増し、そして、やがて失っていく。だから若さの絶頂という瞬間も存在することになる。 じゃあ、どんな時点が、若さの絶頂なの? 私がそんなことを考え始めたのが、ルネッサンスの画家ボッティチェルリの「美しきシモネッタの肖像」という絵を見たことがきっかけです。ちなみに、現在、東京の新宿の東郷青児美術館で展示されております。私が大昔にその絵を見た時には、陶然となってしまい、30秒くらい呼吸が止まりましたよ。 若さというものは、幼さでも、成熟でもないわけだから、扱いが微妙。 それを表現する際にも、「それなり」のものが求められる。 ボッティチェルリのその絵では、水彩でもなく、あるいは油絵でもなく・・・テンペラを使って、若さの質量感を表現したり、あるいは、描かれた顔の表情も、硬さと柔らかさを併せ持つことで、若さを表現したり、服なり、背景なりにおいても、幼さでも成熟でもない・・・若さならではの美を表現していました。 イタリアのフィレンツェのウッフィツィ美術館で、「ビーナスの誕生」も「プリマヴェーラ」も見たことのある私ですが、あの「美しきシモネッタの肖像」は、それらに互角の名品でしょう。ただ、その絵の持ち主の丸紅がそれを認識しているとは思えませんが。以前に丸紅の従業員の方と居酒屋さんで飲んでいて、その絵について「常設で展示してよ!」って文句を言ったことがありますが、その人から、「へぇ・・・そんな絵があるんだねぇ・・・知らなかったよ。」って言われちゃいました。従業員としても、部外者からそんな文句を言われてもどうしようもないでしょうが・・・ 若さの絶頂というものは、「あと1秒後には、この若さの美が朽ち始めてしまう・・・」そんな寂寥感が伴っているもの。最高度の輝きの中にそんな寂寥感を見出す感性は、特別なものですよ。一般レヴェルの鋭敏な人は、過ぎ去った後では、その絶頂を認識はできるもの。「ああ、あの時が、一番輝いていた時だったなぁ・・・」そのように認識したりするもの。しかし、リアルタイムで絶頂を認識できる人は、特別に鋭敏な人だけ。 ボッティチェルリは、フィレンツェ・ルネッサンスの比較的初期に活躍し、旺盛な創作活動を繰り広げ、例の修道僧サヴォナローラによる原理主義運動の嵐の中に、創作のエネルギーが喪失してしまった人。いわばフィレンツェの春のみに活躍した芸術家。 春の絶頂をリアルタイムで見出せる鋭敏すぎる人は、残念ながら夏の激動の世界には生きられない。彼はミケランジェロのような強い心は持っていなかったわけ。 そんなことは、小さな絵を見るだけでわかったりするものなんですよ。 作品を見るだけで、その作者のキャラクターが、実にわかったりするもの。 何も芸術作品のようなものだけでなく、ちょっとした文章でも、その書き手のキャラクターや今後の事態がわかるもの。 ちなみに、その「美しきシモネッタの肖像」は28日まで展示されているそうですから、ご興味がある方は、早いうちにご覧になってみてはどうですか? 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R.10/12/12 |