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カテゴリー ダメダメ土曜講座(発想と視点編)
配信日 09年6月27日 (10年12月16日 記述を追加)
タイトル 「ふつうになるべき」という発想
このメールマガジンでは「ふ・つ・う」という言葉を頻繁に取り上げております。
ダメダメ家庭の人間は、実際に、その「ふつう」という言葉をよく使うもの。しかし、「じゃあ、アンタの言う『ふつう』って、具体的には、いったい何?どんなことなの?」なんて尋ねても『ふつうって・・・ふつうのこと・・・』と、ふつうならざる回答が返ってきたりするもの。

あと、ダメダメ家庭の人間がよく使うのは「べき」という言葉です。
何かと言うと、「○○すべき!」などと問答無用なスタイルで語りたがる。しかし、相手に対して「べき論」で説教したら、逆に、『どうして、そうした方がいいの?』『ワタシにわかるように説明してよ!』などと尋ねられたりすることもある。そうなると、やっぱり「あの偉い△△さんがそう言っているから・・・」とか、「そう言うものだから・・・」とか、それこそ「それが、ふつうだから・・・」などと回答があったりするもの。

自分の主張に自信があるのなら、逆に言うと、「べき論」では言いませんよ。
「べき論」を使う人は、相手からの質問を受けたくないがゆえに、自分で考えたくないがゆえに、「べき」などと強い口調になっているわけです。

さて、そのように、ダメダメ家庭の人間は、「ふつう」という言葉と、「べき」という言葉を頻繁に使うことになる。だから、その2つを組み合わせることをやったりするもの。
それこそ、以前に、このメールマガジンにおいて、某国の社民党の党首の方がおっしゃった、「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じる社会を作るべき。」なる言葉を取り上げたことがあります。
今回は、そんな壮大なスケールのダメダメではなく、もっとふつうのダメダメと言える「ふつうになるべき!」という言葉を取り上げます。

ダメダメな親は、この「ふつうになるべき!」という言葉を、たとえば自分の子供に言ったりするもの。
それこそ「ふつうの子供になれ!」という言葉で子供に要求したりする。
かと言って、その「ふつうの子供」って、いったいどんな子供なの?
それが明確にイメージできているのなら、逆に言うと、具体的で明確なスタイルで表現した方が聞き手としては分かりやすいでしょ?

さて、そのように自分の子供に対して「ふつうになるべき」と要求するパターン以外にも、自分自身に対して要求するパターンもあったりするもの。
それこそ「ワタシたちは、ふつうの家庭を作るべき!」なんて物言いになるわけです。

かと言って、その「ふつうの家庭」と言われても、それがどんな家庭なのか、当人でもわかっていないわけ。そもそもダメダメ家庭の人間は抑圧的であり、自己逃避。自分で考えることから逃避している。
ただ、人に合わせて、周囲の人の行動に乗っかっているだけ。

ここで、「フワフワと乗っかるだけのパターン」もあるわけですが、まさに「べき」を掲げて、自分なりの自覚を持って周囲に乗っかるパターンもあるわけです。いかにも「ふつう」に見える周囲の人たちの行動を自分の規範として、盲目的に合わせることになる。
『周囲のあの人たちのように、自分も行動すべきなんだ!』
そのように考えるわけです。
いったん、そのように設定してしまったら、後は「合わせる」だけでいい。
行動としては、合わせるだけでいいんですが、まさに「べき」を掲げて、自分自身にプレッシャーを掛けている。そんな人は、ある種の強迫的な義務感を持って周囲の人に合わせることになる。

「お隣の□□さんが、あれをやったわ!」」
→じゃあ、ワタシたちもやらないといけない!やるべきなんだ!合わせないとタイヘンなことに!!

心理的に、そんな流れになってしまう。
これが、テレビを買ったとか、海外旅行に行ったとかの問題なら、周囲に合わせて、同じものを購入しても、大したことではない。
しかし、現実的には、そんなレヴェルには留まらない。

「お隣の□□さんが、結婚したわ!」
→じゃあ、ワタシも結婚しないと!
と、義務感で結婚する。

「お隣の◆◆さんが、お子さんを作ったわ!」
→じゃあ、ワタシも妊娠しないと!
と、義務感で妊娠する。

「ご近所の☆☆さんのお子さんが、私立中学に入学したわ!」
→じゃあ、ワタシの子供も、私立中学に入学させないと!
と、強迫的な義務感で、子供に勉強させることになる。

「ご近所の★★さんのお子さんが、ピアノを習い始めたわ!」
→じゃあ、ワタシの子供も、ピアノをさせないと!
と、強迫的な義務感で、子供にレッスンを課すことになる。

しかし、そんな親は「ふつうになるべき!」と一種の強迫観念に支配されているので、目が血走っている状態。そんな目が血走っている人間が横にいては、子供にしても、勉強や、ピアノどころではないでしょ?もう怖いだけですよ。

子供の側が、親に対して、『どうしてこのようなことをするの?』などと聞いても「だって、それがふつうだから!こうすべきなんだ!!」でオシマイ。

そもそも、子供を持ったことだって、周囲の人に合わせて、義務感で作ったわけだから、自分の子供が、周囲の子供のような「ふつう」の姿をしないのが許せない。
子供自身の感情なり希望などは、どうでもいいわけ。そんな親にしてみれば、自分の子供は「ふつうの家庭の姿」を描いた絵の中にある登場人物に過ぎないわけです。

そんな親は、その物言いに「〜をさせる」という物言いが多くなるもの。
「〜をさせてあげる」という物言いにはならないわけ。
子供の希望を踏まえ、それを許可し、親としてサポートするのではなく、ただ強圧的に、子供に何かをさせることになる。
このような「〜をさせる」という強圧的な姿勢は、以前にメールマガジンで取り上げた「長崎の事件の加害者の少女の父親の手記」に現れていました。

とにもかくにも、人に合わせて、ふつうの姿を、目指すことになる。
そうやって、自分自身で判断することから逃避するわけ。

自分では何も考えていないので、その折々で「これはふつうだから・・・」と納得してしまうと、何も考えずに飛びつくことになる。

隣の◇◇さんが、犬を飼った!
→じゃあ、ワタシのところも犬を飼いましょう!飼うべきなんだ!

動物が好きでもないのに、そんな義務感で物事を始める。しかし、義務感は、「これこれをさせられている」いう意識に転化し、結局は、被害者意識に結びつく。やがて「ワタシにこんな義務を与えたコイツが憎らしい!」と、せっかく飼い始めた犬の面倒などは見ない。
そんな親の姿を見ていた子供は、「次に捨てられるのはボクの番だ。」と恐怖におののくことになる。

結婚するにせよ、子供を作るにせよ、子供を進学させるにせよ、ペットを飼うにせよ、何をするにせよ、「ふつうになるべき!」という「形」から入っているわけ。
まさに「ホトケ作って、魂入れず」の典型。

当人が、その趣味に徹するのは勝手でしょうが、周囲の人間にしてみればたまらない。
特に、「ふつうの姿」の道具にさせられた子供なりペットにしてみれば、逃げ場がない。
だから、やがてはトラブルになってしまう。
トラブルに直面すると「ワタシはただふつうの生活がしたかっただけなのに・・・どうしてこんなことに?!」と、グチに至る。

このメールマガジンで何回も書いていますが、「ふつう」と言うのは、結果であって、目的ではないわけ。
しかし、抑圧的な人間は、「ふつう」を目的として掲げ、それを規範とすることで、自己逃避を達成する。「ふつう」という縛りによって、自分を拘束するわけです。
それは、いわば「マゾヒズム」の一種なんですね。

とにもかくにも「人に合わせる」ことで、自分で考えることから逃避する。
この「ふつうになるべき」という発想は、「人に合わせるべき」という言葉になったりすることもあります。
それは、別の言い方をすると、相違点を発生させてはならないという発想なので、いったん、相違点が顕在化してしまった場合には対処ができない。
双方の相違点を認めた上で、会話によって合意を達成することができないわけです。
つまり、「ふつうになるべき」とか「人に合わせるべき」と考えたり、主張している人は、説明能力がないんですね。
だから、逆に言うと、強圧的な態度を取ってきたりする。
それこそ、某国の社民党党首さんがその典型でしょ?
「人に合わせるべき」と日頃から自分に課している人は、何かあったりすると、他者に対して強圧的になってしまう。
前にも書いておりますが、「ふつう」とか「人に合わせる」ということは、まさにマゾヒズムであって、自己否定の一種でしょ?
自分の価値を否定しているんだから、他者の価値を認めることもできませんよ。
結局は、顕在化した相違点を除去するために、自分自身なり相手の存在自体を抑えつけるしかないわけ。

しかし、「ふつうになるべき」とか「人に合わせるべき」というスタンスでも、トラブルが顕在化していない状態であれば、当人自身は何も考えなくてもいいから、ラクなものでしょ?
現状認識を拘束し、思考を拘束し、行動を拘束する。
それによって、自分自身の思考の責務から解放されるわけですからね。
拘束による、自己の解放なんだから、そんな「ふつう」についての質問は、「ワタシを追い込もうとしている!」と逆上することになってしまう。

「ふつうについての質問」に対して『ワタシを追い込もうとしている!』と逆上するのが、知人のような同格の間柄だったら、そんな人とは距離を置けばいいだけ。
しかし、そんな人が親だったらどうするの?
しかし、そんな光景は、ダメダメ家庭においては、実にポピュラーな光景なんですね。

それに、たとえ知人という同格の関係でも危険なもの。
「ふつうになるべき」と思っている人間は、まさに自己逃避としてそんな規範を掲げているので、当人は何も考えない。
自分では何も考えていないわけだから、何か不都合な事態になったら、それは「自分のせいじゃない!」「ワタシは悪くない!」と即座に自分を被害者として認定してしまう。

そして、自分をこんな事態に追い込んだ犯人を探すわけ。
そして犯人確定の儀式をすることになる。
それが、いやがらせくらいならともかく、ヘタをすれば殺人事件までやってしまうことに。
そんな事件に後になって、その人の周囲の人から、「あの人は、ふつうの人に見えた。どうしてこんな大それた事件を?」などとコメントがあったりするもの。

しかし、「ふつうになるべき」と自分自身を縛っている抑圧的な人間にしてみれば、そんな行動に向かう可能性が少なからずあったりするもの。
ふつうの外見から外れてしまったら、もう何も「たが」を持っていない。それがその手の人間なんですね。

(終了)
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発信後記

金曜日には、あのマイケル・ジャクソンさんの死亡の報が駆け巡りましたよね?
このメールマガジンでは、彼に言及したこともあります。
彼の素っ頓狂な行動も、ダメダメ家庭出身者のメンタリティを理解していると、簡単に理解できるもの。もっとも顕著な点は、子供体験の不在と、自己嫌悪でしょう。

芸能界はダメダメ家庭出身者が活躍できる数少ない領域といえますが、活躍できたからといって、幸福になれるというものではない。
彼の苦悩が手に取るようにわかる私としては、お疲れ様としか言えませんよ。ホント、ゆっくり休んでほしいですね。

晩年は、芸能活動もせずに、引っ込んでいたそうですから、彼の墓碑銘は「薔薇のつぼみ」とするのが文芸的でいいのでは?

ちなみに、来週の水曜日から金曜日にかけて、メールマガジン発行元の一つである「マグマグ」のリフォームがありますので、配信なり配信予約はできません。土曜日には一応できることにはなっていますが、どうなることやら?
ということで、今のところの予定では、来週の水曜日、金曜日、土曜日は、お休みとさせていただきます。なお、土曜のシリーズの一環として上記のマイケル・ジャクソンさんの文章をまとめようかな?と思っていますので、マグマグの回復次第では、来週の土曜日に配信するかもしれません。

あと、これも以前に書きましたが、7月6日の週から、連続して長大な文章を配信する予定です。まあ、プリントアウトして、休みの間にでもゆっくり読んでくださいな。
R.10/12/16