トップページに戻る | 配信日分類の総目次へ |
カテゴリー分類の総目次に戻る | タイトル50音分類の総目次へ |
カテゴリー | ダメダメ土曜講座(トピック編) |
配信日 | 10年3月27日 |
タイトル | 過去とのつながり |
「人はどこから来て、何者で、どこに行くのか?」 ゴーギャンの絵のタイトルにありますよね? 「どこから来て」というか、人は誰でも過去を持っているもの。 過去といっても、いわゆる守護霊とか前世とかのようなオカルトがかったものではなく、その人にとっての、現実の過去があるでしょ? ダメダメ家庭の人間は、生きてきた物理的な時間は、マトモ家庭の人と同じであっても、過去がない。別の言い方をすると、過去の時間はあっても、過去の思い出がない・・・そうとも言えるでしょう。 今回の文章では、そのことについて総集編的に取り上げてみましょう。 たとえば、ダメダメ家庭では写真がないことが多い。 写真がないということは、物理的に時間を経てきていても、それが残したいと思うような思い出になっていないということでしょ?あるいは、そもそも思い出を作ろうとは思っていないということ。 写真と似ているパターンとして、年賀状も少ない。過去に人とやり取りをしてきていないので、どうしても年賀状が少なくなってしまう。 年賀状となると、お正月。まあ、お正月は1月1日。 あるいは、子供の日となると、5月5日。ひな祭りとなると、3月3日。 じゃあ、七五三は?あるいは、母の日や父の日は? こうなってくると、ダメダメ家庭の人間は、日付が言えなくなってしまう。 そもそも、そんな日に何かのイヴェントをするわけではない。 それにプレゼントのやり取りもしない。 イヴェントがないと、思い出として残らない。だって、準備とかも何もないわけですからね。テレビで報道されたものを見て「へぇ・・・今は七五三なんだねぇ・・・」と感想を持つくらい。だから「季節感」もなくなってしまう。 季節感というのは、現在の感覚というよりも、過去を思い出す感覚に近いものでしょ? たとえば、子供の七五三だって、その準備を色々とするから、ついでに、季節感がついてくるわけでしょ? あるいは、母の日とか父の日だってそう。「プレゼントを何にしようかな?」と考えている最中の風景・・・そんな感じで、そのイヴェントと季節感が結びつくわけでしょ? イヴェントをしなければ、季節感なんて持ちようがありませんよ。 母の日とか父の日となると、付随する季節感どころか、日付もわからない。 まあ、母親とか父親の誕生日くらいは覚えていたりする。それこそ学校への提出書類の関係で必要だったりもしますからね。いわば、記憶というよりも、記録に近い形で残っていたりする。 しかし、同居していない祖父母となると、もう完全に範疇の外。 祖父母については、苗字は知っている・・・それくらいが限界なんですね。 祖父母のうち、片方の旧姓は当然のように知らない。現在の苗字は知っていても、名前も知らないし、当然のこととして、誕生日も知らない。年齢も知らない。 祖父母の趣味とか、人付き合いとなると、全然わからない。現役時代の職業も、よくわからない。 あるいは、お亡くなりになっている場合には命日も知らないし、お墓の場所も知らない。 だって、「お墓参り」なんて、やったことがないんだから、知りませんよ。 命日の細かな日付はともかく、もし命日にお墓参りをやったことがあるのなら、季節くらいは言えるでしょ?しかし、ダメダメ家庭の人間は、そんなことも言えない。 イヴェントについては、教科書的な、あるいはニュース報道的な知識がランダムにあるだけ。お正月だって、祖父母がやってきて、大騒ぎをしたとかのイヴェントになっているわけではないので、思い出に発展性がない。着物の着付けでタイヘンだったとか、料理を食べたとか、親戚と遊んだとか・・・ ダメダメ家庭ではレジャーとは縁がないので、レジャーのようなシチュエーションではぎこちない。 「幸福への嗅覚」がないので、学校などの遠足だと、身の置き場がない。 そんなイヴェントだと、どのように楽しんでいいのか、わからないので困ってしまう。 遠足の記憶となると、そんな困惑した自分のことを覚えているばかり。 とてもじゃないけど、季節感も何もない。 ただ、サスガにお正月はそれなりに季節感はあるもの。 それ以外の行事だと、季節感もない。 知識として習得していても、体験はしていない。 記憶というと、不快な記憶ばかりで、「体験が断片化」されている状態。 以前に書いた文章だと「記憶耗弱」状態。 過去の思い出が、心理的な実感を伴った形で残っていないわけです。 写真がないように、プレゼントなんてものにも縁がない。 そんな思い出の品物とは縁がないのがダメダメ家庭。 それは単に品物がないということではなく、「託す思い」とか、過去の時間が残したいものではなかったということなんですね。 お金がなくてもプレゼントなんてできるでしょ? それこそマンガなどでおなじみの「肩たたき券」とかね。 以前に書きましたが、「ゼロ」と「何もない」は違う。 金額的にゼロであっても、気持ちがあればいいわけでしょ? しかし、ダメダメ家庭においては、その気持ち自体がない。 そもそも誕生日とかは家族の話題にも出てこない。 家族で話題にするのは、学費がどうのこうの、年金がどうのこうのという金銭的なことだけ。だからこそ、そんなダメダメ家庭の子供は、「妙に金銭的なことに詳しく」なったりするもの。 プレゼントに縁がないということは、与える気持ちがないということ。 子供という存在だって、親として子供に与えるという発想ではなく、子供から何かをもらうという発想が基本となっている。そもそもダメダメな親は、「子育ては親である自分がこうむった被害」という認識だから、子供から何かを得ることは、いわば補償を得ることであって、被害者としての当然の権利と思っている。 プレゼントについて語れない人は、往々にして、自分の親なり過去について語れないもの。 ちゃんと親の問題を自覚していればいいわけですが、親の問題が思考停止になっているがゆえに、当人自身も何も「覚悟もない」ままに親になってしまう。 記憶が一律に少ないのなら、周囲としてもそれ相応の対処をすればいいだけ。 しかし、その手の人は、「自分の受けた被害」の記憶だけはいつまでも忘れずに持っている。 そして、「ワタシの受けた被害を補償してよ!」と、周囲に絡むようになる。 そんな要求に対して、いったん補償してしまうのはいいとして、その手の人は、マトモな人とは、記憶の方向が違っているわけです。 ダメダメな人は、「あの人は、ワタシの被害を認定した。」と記憶される。 決して「あの人から、補償を受けた。」という形では記憶されない。 被害を認定されたと記憶しているだから、ますます補償を求めることになるのは、理にかなったことでしょ? 過去の思い出の品物がない人は、逆に言うと、被害感情がどんどんと積み重なっていく。 そうして、「ああ!ワタシだけ、どうしてこんなことに?!ワタシって、なんてかわいそうなの?!」と嘆くことになる。 そんな嘆きばかりだから、マトモな人はその人を避けてしまって、結局はダメダメ同士が集まって修羅場が再現されてしまう。そうして、どんどんと不快な思い出が積み重なっていく。 マトモな思い出を積み重ねるためには、そんな被害ばかりを積み重ねてきたことへの自覚が最初に必要になるわけですし、ある時点で、そんなダメダメな過去を、強引にでも断ち切る必要があるんですね。 過去がダメダメだったら、そのまま進むとダメダメなトラブルが、さらに積み重なるだけ・・・現実にそうなっているでしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 前回配信の文章でゲーテの生前最後の手紙の一部を引用いたしましたが、日付が間違っていました。1882年ではなく、1832年です。いくらゲーテが長生きといっても、サスガに1882年までは生きていませんよ。 せっかくですから、その手紙の別のところを引用してみましょう。 「たしかに現代は、混乱した不条理の時代です。わたしがファウストという奇妙な建物をつくるのに支払った長年の努力や骨折りも、あまり酬われそうにありません。わたしの作品は難破船のように、こなごなに砕かれて海岸に打ち上げられ、ただ時代の砂に埋もれてしまうのかもしれません。混乱した対立や争いを一層混乱せしめる理論のみが、世の中を支配しています。だから、なおさらわたしには、わたしの持っているものを、わたしにまだ残されているものを、できるだけ高く高めてゆき、いわばわたしの特質を昇化せしめることが、最も差し迫った仕事と思われたのです。」(大山定一氏訳) ちなみに、ここでゲーテが「混乱した、不条理の時代」という現代は、まさに1832年。 私がいつも書いていますが、人間というのは、時代が変わっても、考えることは変わらないわけ。トラブルの理由を安直に時代に求めるのではなく、それぞれの時代によって顕在化した、普遍的な人間の姿を見据えること・・・そんなことから、色々と理解できるようになるわけです。 時代から逃げてもダメですし、時代のせいにしてもダメなんですよ。 |
|
R.11/1/2 |