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カテゴリー | ダメダメ土曜講座(トピック編) |
アップ日 | 10年5月22日 (11年2月6日 記述を追加) |
タイトル | 有名人の立候補から見えるもの |
もうすぐ(10年)に参議院選挙があります。 それぞれの政党の皆さんも、選挙に向けて色々な候補者を用意しているようです。 用意されているとされる候補者の中には、それこそ芸能人とか元スポーツ選手とかの、いわゆる有名人の方が多くいらっしゃいますよね? そんな有名人候補者の本命として、柔道でおなじみの谷亮子さんもいらっしゃいます。 谷さんの擁立に関して、「柔道との両立なんて不可能だ!」「政治をナメている!」なんて声があったようです。 しかし、立候補であって、当選したわけではないでしょ? 日本人の中で、選挙になると、やたら立候補したりする人も実際にいるでしょ? それこそ、青森の「木下藤○郎」さんとか、東京の「ドクター○松」さんとかは、その手の選挙イヴェントがあると、いつも立候補しているでしょ? だからといって、その人たちの立候補に対して、そんなクレームがついたりするでしょうか? 立候補すること自体は、国民の正当な権利ですよ。 ただ、立候補しても、選挙で当選するかどうかは別問題。 落選させるのも、国民の正当な権利。 上記の「木下藤○郎」さんとか、「ドクター○松」さんは、まあ、現実的には当選しない。 だから問題にはならない。 今回の柔道の谷さんのケースも、本来は、同じでしょ? 「彼女は政治を舐めている。」と思っているのなら、立候補に対してクレームをつけるのではなく、選挙で落選させればいいだけ。 「彼女のような人を、絶対に当選させてはならない。」と強い決意があるのなら、対立候補として自分自身が立候補するくらいの覚悟がないとね。 インターネット上でグチっているだけの人よりも、実際に立候補する谷さんの方が、ずっと立派ですよ。 それに、選挙というものは、相対評価。 当人に問題があっても、別の候補者よりも相対的に良ければ、いわば消去法的に「選ばれて」しまう。 そもそも谷さんのように、「一芸に秀でた」人は、それなりのものを持っているもの。選挙地盤を世襲しただけのボンボンよりも、はるかにマシでしょ? 谷さんが政治的に何の実績がないとは言え、それこそ、父親の死を受けて突然に立候補した小渕のお嬢さんよりも、まだマシと言えるのでは?当時の小渕優子さんに、いったいどんな能力なり実績があったとでもいうの?それよりも「一芸に秀でている」谷さんの方が、まだマシでしょ? 「一芸に秀でている」ということが往々にして、人から評価されるのはなぜでしょうか? それは、大きな成果を達成するための方法論は、得てして、どんな分野でも共通なんですね。 基本に忠実に、 そうやって、いわば足腰を整え、 小さなことを、しっかりやり続けていき、 小さな成果を積み重ねていく・・・ そんなものでしょ? 大きな成果だって、基本となる足腰がなっていないと、できませんよ。 それこそ、柔道だって、派手な技の練習ばかりしていてもダメでしょ? まずは足腰を鍛え、基本となる動作を習得しないとね。 そして、そのことを、谷さんは分かっている。 だからこそ、柔道において、立派な成果をあげることができたわけでしょ? 候補者それぞれの政治的な識見はともかく、 人の話を聞き、そこから問題点を抽出していく能力なり、 今までの人類の歴史を踏まえての、現状の洞察なり、 将来を展望していく能力なり、 もちろん、人に対する「説明能力」とかの、基本がなっていないと、何もできませんよ。 ポイっと立候補して、実際に国会議員になったとしても、大きな成果に到達できるわけがないことを、谷さんは一番分かっている人と言えるんですね。 何も政治の分野だけではありません。 それこそ、ダメダメ家庭に関わる文章を作成するのだって同じ。 基本的な現状認識能力なり、 分析能力なり、 一般教養なり、 論理展開能力なり、 文章作成能力がないと、まとまった形の文章は書けませんよ。 一時的な感情を書き連ねることはできても、客観性を持った文章を作成するためには、基本的なスキルが要求されますよ。 何かを達成しようとすれば、遠回りでも、基本を習得していくしかないわけです。 地道なことから逃避してしまうと、文章を書いたとしても、一時的な不平不満を主観的に書いた文章のレヴェルで止まってしまう。まあ、今だったらインターネットの掲示板とかで、その程度の文章を吐き出せばいいんでしょうが、そんな吐き出した文章でどんな成果が得られるの?ただ、不平不満が共鳴しただけでしょ? それなりの成果を得るためには、基本をマスターしておく必要がありますよ。 じゃあ、今回の選挙に立候補するその有名人たちは、基本を積み重ねる「覚悟」を持って立候補しているの? それはちょっと怪しいでしょ? そもそも、そんな有名人をどうして政治の分野に擁立しようとするの? その人たちも、勝手知ったるスポーツの分野とか、芸能の分野で活躍すればいいのでは? その手の人たちは、頂点を極めた人といえるわけだから、一番であることの価値と尊さをよく分かっている人といえるでしょ? だったら、一番を得ることにつながる分野の方がいいのでは? 政治で2番目よりも、スポーツで一番の方が格好がいいものですよ。 というか、現実的には2番ですらないでしょうしね。 候補者の出自として、スポーツ選手や、芸能人であってもいいでしょう。 逆に言うと、そんな人が、政治の基本をマスターする意欲を持って、地方議員から始めるということなら、意義もあるでしょ? 地方議員をすることによって、政治における基本的なスキルを習得して、それを踏まえて、国会に打って出るということなら、まさにスポーツ分野や芸能分野での体験を踏まえているといえるでしょ? 自分の特性を認識し、相手方について情報収集し、分析し、対策を立てるスポーツの場における修練は、政治の分野でも役に立つでしょう。 あるいは、芸能界で培ったアピール能力も、政治の分野でも役に立つでしょう。 しかし、それは、まずは政治の分野における基本を習得してからのことになりますよ。 つまり、いわゆる有名人が国会議員へ立候補することを考えるに際し、単に元スポーツ選手とか芸能人云々の出自の問題から考えても有効な議論にはならないわけです。 むしろ、「信頼」と「好意」の違いに着目することで、この問題が見えてくるわけです。 ダメダメな人間は、「信頼と好意」の区別がつかない。 というよりも「信頼」というものが心理的に理解できない。 このことについては、いつも書いております。 信頼というものを理解できない人間にしてみれば、その手の有名人は、まさに「好意」につながるわけだから、効果があるわけです。 実際に、怪しげな商売をしている団体とか、怪しげな宗教団体ほど、その手の広告塔を用意するでしょ?その手の広告塔が「信頼」につながるわけではないでしょうが、「好意」にはつながっていくわけです。 それに、その手の広告塔は、「説明というものとの対応がぎこちない」ダメダメ家庭の人間にしてみればありがたいもの。 だって、相手から説明されれば、その説明を受けて、自分なりに考えなくてはならない。 それは自己逃避のダメダメ人間にしてみれば、不快なこと。 それに対し、単なる広告塔だったら、「信じるか?信じないか?」「好きなのか?嫌いなのか?」という形でOKとなるでしょ? 抑圧的なダメダメ人間にしてみれば、広告塔という存在は実にありがたい存在となる。まさに思考から解放してくれる存在なんですね。 広告塔がそのように魅惑的だからこそ、逆に言うと、気になってしまう。 だから、いささか条件反射的に、「立候補するなんてケシカラン!」となってしまう。 有権者としての「判断と選択」によって、落選させるということができない。 まさに、「こんにゃくゼリー」を買わないという判断ができない人間の心理と同じ。 あるいは、「こんなメールマガジンを発行するな!」というクレームを送りつける人間の心理と同じ。 「選択の場面そのものが怖い」ので、選択の場面の発生自体を防止しようとする。 しかし、その手の有名人が当選してしまったら、「どうして、あんな人が当選してしまったんだろうか?」という点について、自分たちなりに考えてみることできるでしょ? 自分たち自身について考えるためには、ある意味において、いい機会ですよ。 しかし、当事者意識がなく、被害者意識だけがあるダメダメ人間は、選択を迫られたということを、「あの○○に立候補されてしまった・・・」と被害という形で認識し、そして、実際に当選してしまったら、「ああ!こんなことになってしまうなんて!ああ!オレたちは、なんてかわいそうなんだ?!」と嘆くだけ。 実際に、そんな有名人が当選した後になって、「どうして当選してしまったのか?」という点について、議論がなされたりすることはないでしょ? 本来は、その点こそが意味があるのでは?立候補することもよりも、当然することこそが、考える対象としては適切ですよ。だって、立候補するのは、自分とは別の人間の問題なのに対し、当然してしまうのは、自分たち有権者の問題でしょ? 「どうして、当選してしまったのか?」その点について、自分たちの問題として考えないとね。 しかし、当事者意識がなく、被害者意識しかないダメダメ人間は、ただ嘆いているだけ。 自分でやりたいことそれ自体がなく、思考から逃避しているダメダメ人間にしてみれば、選択によって、自分の求めるものを得ていくという発想がない。 むしろ、自分が行った選択の結果責任を、後になって追及されるという恐怖心があるだけ。 信頼というものは、「積み重ね」が必要でしょ? 小さなことを積み重ねるしか、大きな成果に達成できないものの代表例が、まさに信頼というもの。 有名人の擁立に安直に頼ってしまって、そして、実際に当選してしまう・・・ それは、この社会において、信頼という面が喪失しているということなんですね。 信頼の喪失という観点から見ると、その手の候補者の問題も、そして現在の日本の方向もよく見えてくるでしょ? それこそ、政党を語る際に、「あの政党は好き。」とか、「◎◎党は嫌い。」とかの、「好き嫌い」で語る国民も多いでしょ? 本来は、政党というものは、「好き嫌い」で語るものではなく、政策の方向性なり、その政策の一貫性に基づく信頼性で語るはずのものでしょ? しかし、信頼というものが認識できなくなってしまうと、好意の面だけで評価するようになってしまう。しかし、たとえ、政党に対して、好き嫌いがあったとしても、それをあえて語ることは、本来は情けないことですよ。それだけ、語っている人が信頼というものを理解できないことを自分で言っているようなもの。 しかし、現実的には、いい歳をした人が、「あの政党は嫌い。」とかの言葉を平気で口に出してしまう。 それこそ、「あの政党は、芸能人頼りだから、嫌い。」なる文言になってしまう。 しかし、好き嫌いで政党を見ているからこそ、芸能人が担ぎ出されたわけでしょ? つまり、「あの政党は、芸能人頼りだから、嫌い。」という言葉そのものが、芸能人が立候補することの有効性を存分に語っているわけです。 政治の面においても、好意だけを志向して、信頼が不在となってしまっている。そんな事例として、ちょっと前に、国会で実際にあった転倒事件を考えて見ましょう。 女性議員が自民党議員に押されたとか、それとも倒れたのは、サッカーで言うシミュレーションのように、「偽装」として倒れたんじゃないかとか・・・ その転倒がどちらの原因なのかの問題は当然にあるでしょう。 しかし、その転倒なり、それによる負傷は、アピールポイントではないでしょ? 政治家のアピールポイントは、たとえば現状認識の的確性なり、それを踏まえた対処の的確性でしょ?それを自分の言葉で国民に分かりやすく伝えることが、その政治家の能力というものでしょ?自分の考えを説明する際に、どこか身体に痛いところがあれば、ちょっと顔をしかめることもあるかもしれません。身体の痛さは、目的達成のための「ハンディキャップ」かもしれませんが、アピールポイントではありませんよ。 「倒れた」にせよ「倒された」にせよ、それは、政治家の美質というかセールスポイントではないでしょ? しかし、信頼というものを理解できなくなってくると、自分の被害を主張することで、「かわいそうなワタシ」と主張し、だから「ワタシに好意を持って!」と周囲に対して要求するようになる。 信頼ではなく、好意を求め、そして、周囲から好意を得るために、自分の被害を主張する習慣があると、そんなアピールになってしまう。 周囲に対して訴えたいことが、「自分はかわいそうな被害者なのよ!」ということだけになってしまう。 そして、そんな訴えが、それなりの効果を持ってしまう、あるいは、そんなアピールに対し、「気に入らない!」と感情どまりの反応になってしまう・・・それが現在の日本なんでしょうね。 有名人の立候補も、国会の転倒事件後の対応も、そして、それに対する国民の反応も、この日本社会から信頼という発想そのものがなくなっている・・・そんなことをよく表しているわけです。 さて、信頼というものが、なくなってしまったら、もっとなくなるのが敬意でしょう。 11年時点で日本は民主党が政権を取っており、管さんが首相でいます。 その管さんに対して、かつて政権にあった自民党の人が非難することが多いようです。 もちろん、政権を巡って対立する政党同士なんだから、非難するのは、結構なこと。 ただ、その非難にあたっては「敬意を持った上での非難が必要なのではないか?」という自民党重鎮のお小言がありました。それこそ、インターネットの掲示板でのやり取りのような罵倒や悪態どまりの言葉だったら、情けなく思うでしょうね。 そのお小言は、いい点を突いていると言えるでしょうし、残念ながら、「敬意」というものが本質的に分かっていないとも言えるでしょう。 たとえ、対立する政党であっても、国民による選挙で選ばれたわけだから、その結果としての民主党政権なり管首相に対して、「侮蔑的な」言葉を投げかけるのは、その議員を選んだ国民を侮蔑することであり、それは民主主義の根幹を否定することであり、同じように国民によって選ばれた、自民党議員自身を否定することでもある・・・そのような考えは、当然のこと。 考え方の違いに基づいた非難と、感情的な侮蔑は違っているものであり、「その点をはき違えるな!」と、その自民党の重鎮は言いたいのでしょうね。 しかし、「敬意」と「尊重」も違っています。 国民によって選ばれた、民主党政権なり管さんを「尊重」することは必要でも、敬意は別ものでしょう。 別のところで書いていますが、敬意となると、その成果について、具体的に分かっていて、別の人に説明できるくらいでないと、敬意とは言えないでしょ? 敬意を持てと言った以上は、その成果を示すことができないとね。 その成果ですが、昔の与党政治家だったら、橋を架けたとか道路を造ったとかになるのでしょうか?その評価はともかく、形の上では業績といえるでしょう。何も、そのようなものでなくても、本を出版したとかの成果もあるでしょ? 政治家になる前の業績も、敬意に値しますよ。 少なくとも、柔道の谷さんだったら、政治家としてはともかく、人として敬意に値する業績を持っている。 じゃあ、管さんは?管さんの業績は何? 本を出版とかでなくても、ちょっとした論文でもいいでしょう。 彼の業績って、何? あるいは、管さんだけでなく、小沢さんでも、鳩山さんでも、業績って何? 選挙で配下の者を大勢当選させたということは、政治家の業績としては微妙でしょ? 政治家となると、やっぱり自らの政治的な識見に関わる業績でないと、政治家としての敬意にはつながらないでしょ? 業績というか成果を上げるためには、キレイごとばかりとは行かない。 泥をかぶってでもやり遂げる気持ちが必要になりますよ。 そんな強い態度が、信頼になり敬意につながっていくのでは? しかし、泥をかぶっても・・・という態度は、「好意」にはつながらない。 周囲から好意を持たれる「いい人」というものは、マズイ事態になってくると、コソっと逃げ出す人でもある。自身に信念がないからこそ、「人から嫌われてもやり遂げる。」という発想を持っていない。 民主党の幹部はまさにそんな人たちですし、自民党も大同小異なんですね。 一国の首相が、芸能人の人気投票に類するものになってしまっている。 だからこそ、そのトップとなっても、それが敬意の対象とはなっていない。 たとえ、好感度の高いといっても、敬意の対象とはならないでしょ? 「一国の首相に対して敬意を持て。」という言葉で、「尊重」と「敬意」の区別もできない人も同じ。信頼と好意は違いますし、尊重と敬意も違いますよ。 それを一緒に議論しているから、トンチンカンなものになってしまう。 そして、そんな事態は、信頼とか、敬意について理解できなくなってしまった、現在の日本の精神的な土壌を示しているわけです。 |
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R.11/2/6 |