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カテゴリー | 会話のスタイル(発言側) |
配信日 | 05年6月15日 (11年1月12日 分離独立) |
タイトル | 語られない人 |
追記 | 「事件後に大騒ぎ」から分離独立。(11年1月12日) |
以前より頻繁に書いておりますが、ダメダメ家庭の問題を考える際に「言われていること」を考えるのではなく、「言おうとしないこと」を見出す必要があります。ダメダメ家庭の親は被害者意識が強いので、普段から自分の被害を強調する。そんなグチを聞いて育ってきた子供は、「これ以上は、親に被害を与えてはならない!」と、思考の面でも、親の問題はアンタッチャブルになってしまう。事件の本当の原因だからこそ、「語られない」ものですし、本当には「この人が原因そのもの」と言える人が事件後に大騒ぎしたりするもの。 事件の当事者が、直面しているトラブルを語る際に、そのトラブルの当事者にとって身近な人と言える人なのに、その身近な人について語ろうとしないことも多くあります。また、当事者の身近な存在である人自身が、当事者を差し置いて、自分の被害感情を大いに語るような場合は、その被害感情を語る人そのものが事件の要因と言えるわけです。 その手の人は、事件の直接的な「きっかけ」ではないにせよ、事件の「理由」であり「土壌」なんですね。 語られないということは、関係ないと言うことではなくて、思考のアンタッチャブル領域となっていると言うこと。 アンタッチャブル領域が増大していけば、当人自身に身動きが取れず、結局はドッカーンとなってしまうのは、心理的に自然な流れでしょ? 語ることができないがゆえに、トラブルを引き起こすことになる。 それに関連したことですが、先日ちょっと書きました、大相撲の若貴兄弟の確執ですが、あの事例は結構興味深い。 あの兄弟は、仲がいい悪い以前に、一般とは違っていますよね? 長男、次男の関係となると、一般的には長男はしっかりとしていて責任感があり、次男はチャランポランで要領がいい・・・と言うのが一般的な兄弟のスタイルでしょ?それに一般的には弟より兄の方が成績がいいものです。 あの兄弟は全く逆ですからね。 出来の悪い弟を持った兄の嘆きは、一般的によく聞かれるところですが、そのような嘆きは兄としても、まあ、納得できる。「弟にも困ったモンだ!」と笑っていればいい。そして、年長者として、年少の者をサポートすればいいだけ。そもそも子供時代では、当人の素質云々よりも、年齢によってできることが決まってしまう。子供の頃においては年長者の側が能力が高いことは常識的なこと。だから、年長者が年少者を指導し保護するパターンとなる。兄弟であれば、兄が弟をサポートすることになる。そして、大人となっても、その関係性を引きずることになる。だから、大人になっても、兄が弟をサポートすることに心理的な違和感は持たない。まさに、それが子供の頃からの習慣なんですからね。 しかし、出来の悪い兄を持った弟の嘆きは、嘆く本人ですら、納得がいかないもの。年少者が年長者をサポートするのは、一般的とは言えない。若貴兄弟の弟さんとしては、そんな思いがあるのでは? だから、「まったく・・・兄貴も、もうちょっとちゃんとしていてくれたらなぁ・・・」 そんな感情が積もりに積もっている状態と言えるでしょう。 しかし、あの兄弟で兄と弟では、「格」が違うでしょ?誰が見たって「弟」の方が格が上ですよ。弟も兄貴などは無視すればいいじゃないの?あるいはこの言葉でOK。 「兄貴は所詮、負け組よ!」 弟さんも、どうして、あそこまで、お兄さんに対して「からむ」のかなぁ・・・ 自分より格下のものに、からむ方が不自然と言うもの。猫にからむ人間というのも珍妙でしょ?あそこまで「からむ」にはそれなりの理由があるのでしょう。 ここで考えなくてはならないのは、あの次男が語って「いない」人物・・・つまり彼の父親です。 彼の父親は相撲取りの世界では、横綱となった自分よりも格が下であるだけでなく、家庭人としても問題ありでしょ? だって、離婚はするは、息子たち兄弟の間は疎遠になるは・・・と、父親失格ですよ。 「まったく・・・オヤジも、もうちょっとちゃんとしていてくれたらなぁ・・・」 と、思いたいけど、父親はアンタッチャブル。となると、父親への不満が、代わりに兄貴への攻撃への転化してしまう。本来は自分より上であるはずなのに、それに値しない人間という共通性で、父の代わりに兄貴にからむことになる。 「彼の父親は偉大な人だった。」とか周囲は言ったりしているのかもしれませんが、外から見ていた凡人による評価と、身近で見ていた天才による評価は、全然違っているものです。 むしろ周囲の凡人たちによる「あの人は偉大だ!」なる物言いが、ますます次男を追い込んでしまう。 次男さんも、自分の父親を冷静に評価できれば、この問題のかなりの部分は解決されるでしょうが、ダメダメ家庭の問題において、自分の親の「至らなさ」を認めることが難しいことは、このメールマガジンで何回も書いています。しかし、それをしないと、前に進めないんですね。 アンタッチャブルな親を避けて、自分の兄貴を攻撃しているうちはまだしも、その攻撃対象が自分自身になってしまうことだってある。 その種の危険な状況が少しずつ近づいているでしょ?あの次男の完全主義者ぶりを見れば、周囲がもっと配慮した方がいいのにね。「兄弟、仲良くしなさい!」なんて言っている場合じゃないでしょうに。 大きなアンタッチャブルな領域を抱えているがゆえに、認識からの逃避や、思考からの逃避となり、結局はトラブルになってしまう。 トラブルになっても、アンタッチャブルな領域を避けて行動するので、的確な対処ができない。あるいは、アンタッチャブルなものを除外して、いわば代替品を犯人認定を行うことになる。 若貴兄弟の次男さんは、兄を父親の代替品として、その兄を攻撃したわけです。 まあ、父親の代わりに兄を攻撃するくらいなら、それなりに許容範囲と言えるでしょう。 実際に、以前より自分と関係があったわけですし、攻撃するにせよ、兄弟なんだから配慮もする。 しかし、アンタッチャブルなものの代替品を攻撃する場合には、その欺瞞をごまかすために、劇場的で過激な攻撃をすることも多い。 別のところでまとめておりますが、それこそ08年に起こった厚生省事務次官OBの殺害事件なんて、その典型と言えます。 かわいがっていた犬を、父親が保健所に連れて行き処分してしまった恨みとか言っていたようですが、それなら保健所ではなく、父親の問題でしょ? しかし、父親はアンタッチャブルだから、犯人認定の対象を、保健所で「代用」しているわけです。そして、上の立場から問答無用に命令を下す存在として官僚制にも、父親のイメージを投影する。 だから、官僚のトップを、父親の代替品として、殺害することになる。 それも、自分に納得させるために、必要以上の過激さが必要になる。 まさに、自分を騙す儀式となっているわけです。 何もこの事件だけではなく、父親のイメージを別のものに投影する事例は多いでしょ? そして、その手の人は、自分の父親について語ろうとはしないでしょ? 弱い自分に攻撃してくる父親のイメージを、捕鯨船に投影して、その捕鯨船を攻撃、と言うか報復する過激な捕鯨反対運動のパターンもありますし、 自分の父親を一般化して、男性全体に攻撃をする過激なフェミニストのパターンもありますし、 あるいは、自分の意向をくみ取ろうとはしなかった点をカトリック教会に投影して、そのカトリック教会を攻撃したマルティン・ルターのような例もある。 それらの攻撃行動は、まさに必要以上に過激であり、その手の人は、自身の父親について何も語れないでしょ? 語れない、語りたくないからこその過激な攻撃であり、まさに必死になって自分を騙そうとしているわけです。 そのような劇場的な過激さこそが、自分を騙すためには必要になっているわけです。 何かを達成するための攻撃ではなく、逃避のための攻撃であり、「攻撃のための攻撃」となってしまう。 逆に言うと、そんな行動の背後には、当人にとってのアンタッチャブルな存在から逃避しようとする心理があるものなんですね。 |