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カテゴリー レポート・手記等に描かれたダメダメ家庭
配信日 08年8月30日
取り上げた作品 自由からの逃走 (1941年)
作者 エーリッヒ・フロム
タイトル 敵意の抑圧
ダメダメな環境だと、子供に「聖人君子」になることを求める・・・このことについては、以前に配信しております。
それこそ、「誰も嫌わず、誰にでも愛されるいい子。」になるように求めるわけ。
それこそキリストが言うように「姦淫の心を持って、女性を見たら、もう姦淫したことになる。」・・・それくらいの極端な発想になってしまう。
心の底から「いい子」でいなくちゃ!!

しかし、現実は違うでしょ?
「姦淫の心を持って女性を見る。」ことと、「実際に姦淫してしまう。」こととは違っていますよ。逆に言えば、自分に「姦淫の心を持って女性を見ている。」という自覚があるのなら、「それとどのように対処するのか?」そんな現実的な方法論の問題も出てきますよね?

まあ、そんなスケベな気持ちは、上手に発散すればいいだけでしょ?
世の中には、その手の施設も色々とあるでしょ?
そんなものを使えばいいだけでしょ?
しかし、抑圧的な環境だと、「姦淫の心」の発生を抑えるように指導するわけ。
だからこそ、自分自身の「姦淫の心」との接し方がわからず、発散の方法論がわからずに、結局は解決できずに、結果的に行くところまで行ってしまって、まさにドッカーンとなってしまう。

自覚できていれば対処の方法なんていくらでもあるわけですが、そもそも「あってはダメ。」という環境だと、対処しようがないわけ。煩悩を抑えきり聖人となるか、それとも抑えられずに殺人鬼となるかの二者択一状態。
確かに聖人になれれば立派なことでしょうが、それが一般の社会人として必要なことなの?

何も「姦淫の心」の問題だけではありません。
もっとシリアスな問題として発生するのが、親への敵意の問題です。
現実的には親に敵意を持っていても、その敵意そのものを抑圧するようになってしまうわけ。かと言って、抑圧は発散でも解消ではない。抑圧していても、その敵意が消えるわけではないわけ。ただ、「見ない」ようにしているだけ。
だから、親への敵意が別の形で発現したりするわけです。

このような事例については、フロムがこのように書いています。
「たとえば子供が厳格でおそろしい父親の言い付けに従って――怖れのあまりに――『よい子』となる場合である。子供は環境の必要に適応するのであるが、彼のうちに、何かが起こる。彼は父親に対して敵意を抱くであろうが、しかし彼はそれを抑圧する。敵意をあらわしたり、それを意識するだけでも、非常に危険であるから。
しかしこの抑圧された敵意は表面化されないとしても、彼の性格構造における動的な要素である。それは新しい不安を生み出し、ひいてはさらに根深い服従へと導く。そのために特定の誰というのではなく、むしろ人生一般に対する、漠然とした反抗心が生まれる。」

ここではフロムは男性の例を挙げていて、だからこそ「彼」なる言葉を使っておりますが、ここでの「彼」を「彼女」としてもまったく同じ。
そうなると、まさに某国の社民党の関係者の方々の顔が思い浮かぶでしょ?

あるいは、上記の「彼」の例として、フロムはマルティン・ルターの例を挙げております。
「ルターは子供の時に、度を越えて厳格な父親に育てられ、ほとんど愛情安心感を経験したことがなかったので、彼のパーソナリティは、権威に対する絶え間ない闘争にさいなまれていた。彼は権威を憎み、それに反抗したが、いっぽう同時に、権威に憧れ、それに服従しようとした。」
と、プロテストする人間が背負った境遇の、まさに教科書的なまでに典型的な事例と言えます。

上記の「特定の誰というのではなく、むしろ人生一般に対する、漠然とした反抗心」は、まさに通り魔などの『事件』があった後での、犯人のコメント「誰でもいいから殺したかった!」に直結しているのは、それこそ誰でもわかることでしょ?
親への敵意を抑圧しているがゆえに、「誰でもいいから殺したかった!」となってしまう。

親への敵意というものは、自覚すること自体が、危険を伴うわけ。だって子供というものは親へ依存しているもの。その依存しているものに対して敵意を持ったら、どのように対処すればいいの?
これは子供でなくても難しい問題となってしまう。
だから、敵意そのものを、「なかったこと」にしてしまうわけ。
よく言う「自分を騙す」わけです。

しかし、いつまでも騙せるものではなく・・・
フロムによると「子供は意識的には安定と満足とは感じるかもわからないが、無意識には、自分の払っている代価が自分自身の強さと統一性の放棄であることを知っている。このようにして、服従の結果はかつてのものとはまさに正反対である。服従は子供の不安を増大し、同時に敵意と反抗とを生み出す。そしてその敵意と反抗は、子供が依存している・・・依存するようになった・・・まさにその人に向けられるので、それだけいっそう恐ろしいものになる。」

まさに「行くところに行ってしまう」ことになる。
こんな心理だったら「通り魔事件」の一つや二つを起こしてしまいますよ。
フロムは「破壊性は生きられない生命の爆発である。」と書いています。

ここでまたフロムの言葉を取り上げると(自分が持っている敵意を)「自分で気がつけば、子供はもっと幸福に感じるであろう。ところが義務感の圧迫が非常に強いので、人から期待されている通りのことを『自分』でも欲していると感じてしまう。」

敵意を持っていても、「自分は、本当に『いい子』でいなきゃいけないんだ!!」「ボクは、本当はお父さんのことを愛しているんだ!」と自分に対して言い聞かせ、その時点で考えるのを止めてしまう。。
自分を騙すのにも、念が入ってくるわけ。
まあ、皆さんも「この手」の人を実際にご存知なのでは?というか、ご本人がそんな人のケースもあるかも?

そのような人は、常に不安を抱えている。
敵意を抑圧していても、解消されているわけではないので、その敵意が対象を求めて、暴れまわることになる。
その敵意が自分自身に向けば、マゾヒズムになるわけですし、それが他者に向けばサディズムになる。
そして、支配したり支配されたりの関係性に自分の関心を集めることによって、自分自身から逃避するわけ。

自分で何も考えないので、確実なものが何もない。だから当然のこととして懐疑にさいなまれる。
フロムが記述するルターの懐疑は「ルターにみられるような、確実性への強烈な追求は、純粋に信仰の表現ではなく、絶え間ない懐疑を克服しようとする要求に根ざしている・・・・現在でも・・・孤独になった自我を取り除くことによって、また個人の外にある圧倒的に強力な力の道具になってしまうことによって、確実性を見つけ出している。」となる。
ルターだけでなく、一般の個人も「(抑圧された)個人は疑いと無力さの感情を克服するために、活動しなければならない。このような努力や活動は、内面的な強さや自信から生まれてくるのではない。それは不安からの死にもの狂いの逃避である。」状態。

このメールマガジンでは以前に「正しい」なる言葉を取り上げたことがありますが、自己を抑圧している人間は、他者が「正しい」と認定したものを無条件に受け入れることで、自己逃避を行うことになるわけ。自分では考えないので、「立派な」「権威ある」他者が必要になるわけです。

こうなると、まさにナチのような権威者による指導を求めてしまうわけ。
権威者によって、「何が正しいのか?」決めてくれないと困ってしまうわけです。

自分自身の中にある敵意を抑圧すると、代償として登場してくるのが倫理的な視点です。
「自分は、あの○○がキライ!」と自分の敵意を自覚できればいいわけですが、倫理的な視点を持ち出すことによって、「あの○○は倫理的に問題がある!だから我々は、あの○○を攻撃し、つるし上げるんだ!」と、自分の敵意を心理的に合理化するわけ。

それこそルターの時代の中産階級は「富と力にあかし、生活を楽しむ人間に対して、実際には羨望をもっていたが、この憤りと羨望を、道徳的な公憤の言葉や、これらの上層の人間たちは永遠の苦悩を受けて罰せられるだろうという信念によって合理化していた。」とあります。あるいはヒトラーが台頭する時代のドイツの中産階級はどんなキャラクターであり、どのように考えていたのか?
フロムによると、「強者への愛、弱者に対する嫌悪、小心、敵意、金についても、感情についても、けちくさいこと、そして本質的には禁欲主義というようなことである。かれらの人生観は狭く、未知の人間を猜疑嫌悪し、知人に対しては詮索好きで嫉妬深く、しかもその嫉妬を道徳的公憤として合理化していた。」

皆さんも上記のような人をご存知でしょ?
それこそ、韓国人なんてその典型でしょ?日本でもインターネットの掲示板にたむろしている人って、そんな傾向があったりしますよね?

そもそも、その手の人は、自身の敵意を自覚できていないがゆえに、「こんなにいい子のワタシなのに、周囲とうまくいかないのは全部○○のせいだ!」と言い出し、誰かを犯人認定するようになるもの。加害者を設定することで、自分の敵意のあて先を見出すわけ。この手の人は、まずは敵意が先にあって、その後で、(誰でもいいから)犯人認定を行うもの。そしてそんなことを繰り返すもの。しかし、犯人探しをしても、その人の尊厳が高まるわけもなく、結局は、そんな犯人探しを繰り返すばかり。
自分の目標を達成するための障害を除去するのではなく、そもそも自分の目標自体が存在しない。だからうまく行くわけもなく、ますます不満がたまり、その不満を自分に納得させるために、「あの○○が悪いんだ!」との論理を求めるわけ。

その手の人は、自尊心はあっても、自分自身を愛していないわけ。
そのような状態は「他人に対する軽蔑と平行し、また愛や慈悲の換わりに、自尊心が取って代っている・・・自己卑下と自己否定的な『良心』とは、敵意の一面にしかすぎず、他人に対する軽蔑と嫌悪が他の面になるのである。」
・・・なんか・・・見たことがあるようなキャラクターでしょ?

その手の人は、利己的であっても、自分を愛していないわけ。
利己的な人間については、フロムの記述では「利己的な人間は、いつでも不安げに自分のことばかり考えているのに、決して満足せず、常に落ち着かず、十分なものを得ていないとか、何かを取り逃がしているとか、何かを奪われるとかいう恐怖に、駆り立てられている。彼は自分よりも多くのものを持っている人間に、燃えるような羨望を抱いている。」

・・・いやぁ・・・なんともツボを押さえている。
とてもじゃないけど、70年前の書物とは思えないほど。
逆に言うと、人間はそんなに変わらないわけ。

人は、自分の敵意を抑圧して、結局は他者を犯人認定したり、あるいは、敵意を持つ自分自身から逃避して、自己を捨てるわけ。社会に適応するために、別の言葉を使うと「ふつう」の人間になろうとして、自分を捨ててしまう。
この状態をフロムは、
「精神病学者にとっては、社会に適応できない人間は、より価値の少ない存在なのである。その反面、よく適応できる人間は、人間的価値という尺度で計っても、一層価値のある人間と考えられる。しかし、もし正常的と神経症的という概念を分けるならば、結論は違ったものになるであろう。すなわち、よく適応しているという意味で正常な人間は、人間的価値については、しばしば、神経症的な人間よりも、一層不健康である場合もありうる。彼はよく適応しているといっても、それは期待している人間になんとかなろうとして、その代償に彼の自己を捨てているのである。」と書いています。

敵意を抑圧するがゆえに、敵意を持つ自分自身から逃避せざるを得ない。
敵意のない「いい子ちゃん」になろうとして、周囲の人に合わせてばかり
そんな人は、合わせる対象によって言うことが変わったりするので、その言動が相互に矛盾するようになってしまい、人から「アンタ!いい加減なことを言うんじゃないよ!」なんて怒られたりする。

ということで、敵意とは無縁な「いい子ちゃん」であっても、結局は、周囲の人からの侮蔑の対象に、自分自身がなってしまう・・・
そもそも個としての尊厳を捨てているのだから、当然といえば当然ですが・・・
ダメダメ家庭の周囲においては、そんな事例は、まさにお約束でしょ?

(終了)
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発信後記

「敵意のない」いい子については、このメールマガジンで頻繁に触れております。
このメールマガジンでは、「敵意のない」いい子について、文章でまとめて書いておりますが、それこそ多くの方々が発行されておられるようなメールマガジンは、文章そのものが「ボクは敵意のないいい子」というアピールでしかないものが多いでしょ?

「敵意のない」いい子は、自分の敵意を見ないようにしているだけで、逆に言うと、避けられないような状況になると、その敵意がまさに暴発することにもなります。
そうして「あんないい子がどうして?」なんて、お約束のコメントになるわけ。

今回の文章は、ちょっと長いし、難しいところも多い文章ですが、ある程度理解できると、現実の社会で起こっている事件の多くが理解できるようになると思います。
R.10/12/13