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カテゴリー 形への依存
配信日 05年7月11日  (10年11月6日 記述を追加)
タイトル 制度の方を当てにする
昨年(04年)に、テレビで活躍している島田紳助氏の暴行事件がありました。
このメールマガジンでもちょっと触れましたが、あの「被害者」の女性の行動は典型的なクレーマーの行動といえるでしょう。
トラブル解決の具体的な着地点がなく、クレームそのものが目的になっているわけ。

そんなクレーマーの要求は、聞き入れようがないでしょ?「だったら、アナタとしては、ワタシに具体的にどうしてほしいの?」「どのようになったら納得するの?」そう思わずにはいられないでしょ?それこそ韓国が日本に言ってくるクレームと同じ種類なんですね。

あの事件では、また特徴的なことがありました。
実に手際がよく、警察とか弁護士が出てくるわけ。
あの「被害者」の女性に悪気があったとは思いませんが、そんなに手際がよく第3者が出てくることは異常でしょ?
まずは、周囲の信頼している人に相談することが先じゃないの?

しかし、ダメダメ家庭出身者は、往々にして、周囲の人を信頼していないわけ。むしろ「顔の見えない」第3者の方を信頼しているんですね。
だって、顔の見える人との信頼関係は、会話によって築き上げられていくものでしょ?会話の能力の不全なダメダメ家庭出身者には、そんな相互理解に基づく信頼関係は築き上げようがないわけ。

おまけに、自分が子供時代すごしたダメダメ家庭の発想がある。
ダメダメ家庭の親は当事者意識がない。常に被害者意識があるわけ。そもそも、自分の子供を育てることすら、親の側の被害と思っている。だから子供との約束などもいとも当然のごとく反故にしたりするわけ。
おまけにダメダメ家庭の親は、「妙な駆け引き」をしたりするんですね。
妙に「自分を高く売ろう!」などと考えたりするわけ。自分自身の価値を自分で高めるよりも、「いかに高く自分を売りつけようか?」と、さもしいことを考えているわけです。

だから、誰かをサポートする際にも相手の状態を見るわけ。
将来において、相手が自分の役に立たない人間と判断したらサポートはしない。
「今コイツを助けておけば、後々自分のためになる。」と判断したらサポートするわけ。
こんな「駆け引き」があるわけです。
それこそ、銀行のように「晴れた日に傘を貸そう。」とするわけ。

そんな親の元で育っているので、子供も「自分がピンチの時には、親は頼れない。」と判断しているわけです。

よく「困った時に頼りになるのは家族だ!」なんて物言いがありますよね?
しかし、ダメダメ家庭では違っているわけ。
「困った時に頼りになるのは政府だ!」そのように思っているわけです。だって、政府は駆け引きはしないでしょ?ただ、制度で動いているだけ。それに対し人間は・・・特に家族は駆け引きをするもの。ダメダメ家庭の人間には、そんな「常識」となっている。

こんなことだから、困った時にも、周囲に相談することはできるわけがないでしょ?自分の身は自分で守るしかないでしょ?つまり、「もし、自分が大きなトラブルに見舞われたら政府機関に頼ろう!」そんな感じで頭の中でいつもシミュレーションしながら生きるようになってしまう。

あの昨年の島田紳助事件の女性だって、そんな背景があるわけです。
だから手際よく警察や弁護士が出てくることが可能なんですね。だって、日頃からのシミュレーションが出来ているんだから、簡単にできますよ。
あの女性に悪気はないでしょうが、本当の問題は島田紳助氏とは別のところなんですね。

周囲の人を信頼していなくて、だから制度だけをあてにするような人間なので、何か問題があると、なおさら「すぐに政治のせいにする。」ことになるわけです。
自分自身や、自分の周囲の範囲で片付けることができないから、スグに制度の問題にしてしまうわけです。

あるいは、制度の問題だけでなく、社会風潮の問題にしてしまったり・・・
男女問題でも、妙に話を一般化してしまう人っているでしょ?
「男は○○!女は△△!だから差別だ!」
そのような問題も、まずもって、できるだけ「マトモな男性」とくっついたり、「マトモな会社」に入社することが第一でしょ?そのような見識眼が重要じゃないの?自分にその見識眼がないのなら、周囲の信頼できる人に相談するとか。
しかし、自分に見識眼がないし、周囲に信頼できる人がいないので、社会の制度しかあてにできず、だからこそ、不都合があれば、社会制度のせいにしてしまうわけ。

制度を当てにしなければならないって、それだけ本人の無能とつながっているわけです。そのことに気がついて、自分自身の能力を高めることが必要ですし、あるいは、自分の能力の不足を補える人の協力を求めるようにすればいいだけ。

ちなみに昨年の島田紳助事件ですが、その流れは、ある意味において実に簡単なんですね。

1. ダメダメ家庭出身者は人の気持ちがわからない

2. ダメダメ家庭出身者は、会話の能力がない。

3. 会話ができないので、自分の意向が実現されず、普段から不満ばかり。

4.不満ばかりを語っているから、周囲にマトモな人間がいなくなってしまう。

5. 家族は頼りにならないと思っているので、トラブルが起こった時のためのシミュレーションを普段から行っている。

6. マナーも知らず、親しくない人に気軽に話しかけて、相手の機嫌を損なう。

7. 暴行を受けた後で、以前からのシミュレーションとおりにテキパキと対応する。

8. 日頃の不満が、ここぞとばかりに噴出してくる。

9. 周囲にアドヴァイスしてくれる人がいない。だから、トラブル解決の着地点も自分独りで設定することが必要な状況となる。

10. 自分自身ですべて対応しようとして、ますます自分自身が追い込まれてしまう。

11. そうなると自分で自分がわからなくなるパニック状態。

12. となるとクレームを言うことだけに、ますます熱を入れるようになる。

ああなってしまうと、もう行くところまで行くしかないでしょう。
前回配信の「アンディ・ウォーホルを撃った女」という映画の流れと実に似ています。
実際にウォーホルを撃ったソラナスさんはホームレスの施設で肺炎でお亡くなりになったそうです。そうなる前に自分自身の両親の問題をちゃんと認識する必要があるわけ。

制度の不備の問題は、多くの人に関わる問題と言えるわけだから、多くの人の関心を得やすい。だから、個人の対処の不備の問題も、制度の問題にすり替えてしまい、それにより、同類たちの共感を得てしまい、ますます制度の問題ばかりに注目することになる。

それこそ、たまに言及する実際の例ですが、「もう何年も没交渉状態の自分の子供が親である自分のもとに尋ねてくるように、法制度を見直していくべきだ!」などとの主張になってしまう。
そのような主張は、ある意味において、誰も傷つかない主張でしょ?
表立っては誰も反論はしないでしょ?
ヘタをすれば、同類たちから、「そうよ!そうよ!もっと法律を整備すべきだわ!そうすれば、子供もワタシのところに訪問するように命令することができるわ!」と共鳴することになる。

法律面から強制することは考えても、現在没交渉状態の自分の子供に対して、手紙を出すとか、電話をするとか、誕生日プレゼントを送るとか・・・そんなことはしないわけ。
法律整備を求めるために、政治家に対して手紙を出すことはしても、自分の子供に対しては手紙も出さない。

ギャグを書いていると思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、現実の例ですよ。
前にも書きましたが、その方は、子育てについての本を書いていらっしゃる子育ての権威さんなんだそう。まあ、確かに法律面には色々と詳しくはなるでしょうね。法制度の不備もよくわかるでしょう。それに、誰も傷つかないがゆえに、とおりがいい主張とは言えるでしょ?
何も、子育ての権威さんだけでなく、市民運動の活動家とかPTAとかの人たちは、やたら法制度ばかりに注目するでしょ?
それは、自分の子供と間で、人と人とのやり取りができないということなんですね。
しかし、法律面を整備しても、あるいは、ヘタをすれば警察などの強制力を使っても、その没交渉の子供は訪問しないでしょうし、たとえ、訪問したとしても、どうなるの?いったい、何がしたいの?

法制度の問題を議論することによって、目の前の人の気持ちには何も配慮しないで済む大義名分とするわけ。しかし、自分を納得させることはできても、相手は納得しないでしょうし、そんな人の周囲の人のレヴェルも落ちてしまうのは誰でもわかること。

自分自身が、やたら「制度の方を当てにする」人間だと思ったら、しっかり自分自身をみつめ直す必要があるわけですし、「あの人・・・やたら社会制度の問題にしてしまうなぁ・・・」と思わされる人には近づかないことも、自分自身の身を守るために必要なことなんですね。

(終了)
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発信後記

本文中で島田紳助事件を言及しましたが、今とっておきのワイドショーのネタなのは若貴兄弟のネタでしょうね。
あれは実に面白い。

あの展開をちょっとウォッチしていると、とある小説を思い出しました。
ドイツの文豪トーマス・マンの「ブッテンブロークス家の人々」という小説。
日頃より「オマエの文章は長いぞ!」とお叱りを受ける私も脱帽の長さの小説です。文庫本で3冊ですからね。ちなみに、トーマス・マンの自伝的要素のある作品です。

北ドイツのハンブルク(リューベックだったかな?)の謹厳実直な商人の家に、洗練された美意識を持った人間が加わり、それにより生命力が失われ、没落していく・・・そんな内容です。小説ではその家系の没落に伴って、離婚だの、兄弟の不和だの、遺産の問題だの、芸能関係者との結婚だの、そして物言いもちょっと観念的になったり・・・そんな形で展開します。

洗練された美意識というものは、決して生産的ではありませんよね?それだけではありません。一旦感覚が研ぎ澄まされてくると、それがスパイラル的に進行するわけ。だって美意識が洗練されれば、「美しくない」ものは受け付けなくなるでしょ?どんどん「美しくない」ものは排除され、生命力が減衰するわけ。

若貴兄弟の問題だって、お相撲さんの世界に、本来は芸能人の妻なんて不向きですよ。それなのに、そんなチャラチャラした・・・しかし、感覚的には洗練されている・・・芸能人と結びついてしまうことは、本人自体にその素養があるということなんですね。

若貴兄弟の父親自体が、芸能人と結婚していますから、家系をさかのぼって考えると、初代の若乃花と貴乃花の母親あたりが、洗練された美感を持った人だった・・・そんな風に考えることができます。多分、その土地の人に似合わず、読書好きだったり、芸事好きだったりしたのでは?

トーマス・マンはノーベル賞も取っている有名な作家ですが、トーマスのお兄さんであるハインリッヒ・マンも作家です。こちらも弟の方が優秀な兄弟。
ハインリッヒ・マンは小説というより、映画となった「嘆きの天使」の原作者といえばわかる方もいらっしゃるかもしれません。大女優マリーネ・デートリッヒが登場していますからね。
この「嘆きの天使」という映画も、謹厳実直な人間が、感覚美を受け入れることによって没落していく・・・という基本的流れ。

その「嘆きの天使」でデートリッヒのシーンを引用している映画が、イタリアのルキノ・ヴィスコンティ監督の「地獄に堕ちた勇者ども」という作品です。ルキノ・ヴィスコンティはヨーロッパでトップクラスの名門貴族の出身。そんな人が映画を作ったり、オペラの演出をやったりしたわけ。家系の没落ということには実感があった人といえるわけです。

さて、ルキノ・ヴィスコンティ監督はトーマス・マン原作の「ヴェニスに死す」も映画化しています。この「ヴェニスに死す」という作品も、謹厳実直な人間が、感覚美によって没落する・・・という基本的な流れを持っています。

まあ、ヨーロッパの色々な作品は、つながっているんですね。

日本だって「花田家の人々」という小説が書かれれば面白いでしょうに。
かなり前の作家である北杜夫さんという作家は、トーマス・マンの真似をして、そんな小説書いたでしょ?

そもそも花田家を特徴つけるストイシズムがあんなに絵になるのは、花田家が感覚美を受け入れる家系であるからですね。ただの鈍感な家系だったら、ストイシズムもヘチマもないでしょ?感覚美に惹かれながら、それを退けようとするからドラマティックに見えるわけ。

現在の貴乃花さんは、感覚美による生命力の衰退ということを本能的にわかっているので、過剰な禁欲主義で、感覚美の魅惑に対抗しようとしている。しかし、もともと感覚美を受け入れる土壌がある人なので、単純な禁欲主義では収まりがつかない。
だから精神的に強い葛藤があるわけ。
彼の素っ頓狂な行動は、その葛藤に由来するわけです。

家系の没落の最終的なトリガーを引くのは、この種の葛藤です。
子供が親の精神的葛藤を受け継いでしまうわけ。だから子供が早死にする。
トーマス・マンの「ブッテンブロークス家の人々」のラストはそんなラストでした。
ご興味がありましたら、お読みになられることをお勧めいたします。
R.10/11/6