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カテゴリー | ダメダメ家庭が子供に与えない発想,精神 | |
配信日 | 05年11月9日 (10年7月30日,11年2月16日 記述を追加) | |
タイトル | プラグマティックな発想 | |
哲学の一流派にプラグマティズムというものがあります。日本語でいうと功利主義なんて訳されたりしたのかな? アメリカのデューイとかかが言ったりしたものです。 功利的というとチョット難しく聞こえますが、要は「損か?得か?」と言うこと。損得ばかり考える哲学なんて、神聖なる哲学に対する背信行為のように思われたりするでしょうが、まあ、「現実の問題は、現実的に考えましょう!」なんて形で捉えると、至極ごもっともなことでしょ? すべての問題を「損か?得か?」という観点だけで考えることはできません。「ピカソの絵とマチスの絵のどっちがすばらしいか?」などと言った問題に、『マチスは自分の絵を家具か何かのように考えてくれ!と言っていたのだから、マチスの絵の方が実用的でお得だ!だからマチスの絵の方がすばらしい!』・・・なんて考えてもしょうがない。 そもそも芸術の分野なんて、現実の問題とは言えないでしょ? そんな問題は、「切り離して」考えるのが、現実に即した、まさにプラグマティックな思考のスタイルといえます。 一般人にしてみれば、芸術作品なんて、「好き、嫌い」で十分ですよ。重要なことは、自分の好みを分かっていることでしょ? ダメダメ家庭においては、この現実に即したプラグマティックな発想というものが身につきにくい。 だって、現実に即した発想ということになると、「じゃあ、自分は何が欲しいのか?」「自分はどうしたいのか?」について分かっていないと無理でしょ? 自分が欲しいものが、一番重要なこと。 それでいいじゃないの?現実って、そんなものでしょ? ところが、ダメダメ家庭の問題では、当事者だけでなく、周囲の人間もそのような現実的な思考をしない。 このメールマガジンでよく例としてあげていますが、家庭内暴力(ドメスティック・ヴァイオレンス)の問題なども、典型的に発生したりしています。 学術的なスタンスなり、法律的なスタンスが先行していて、現実的な対応がおざなりになってしまっている。 たとえば学術的なスタンスだったら、夫婦間の暴力において、どのような被害なのか?被害者の当面の保護はどうする?加害者からの補償は?・・・と、そんなもの。 法律的なスタンスになると、これに、加害者の処罰が加わることになる。 まあ、その人たちは勝手に議論していれば済む話。 しかし、暴力の現場において、殴る男性が加害者、殴られる女性が被害者と認定するのはラクですが、そんな男性とわざわざ結婚したのは、その女性でしょ?「未必の故意」などと言われちゃったらどうするの? 被害者と加害者の過失責任の割合について、散々と議論するハメになっちゃうでしょ? それにもっと大きな問題があります。 学術的なり法律的なスタンスだと、明確な事件が起きないと、対応しない。 それこそ実際の暴力事件が発生しないと、社会制度的に動かないだけでなく、学問的にも考えようとしない。 しかし、家庭の問題って、まさに過程の問題。事件の前段階に様々な要因があり、段階を踏んでいるわけでしょ? その段階で対応すれば、そもそも事件にはなりませんよね? 「どちらが、どの程度まで、過失があるか?」などと議論するのも結構ですが、もっと現実に即した発想をすると、そんな事件が起きないようにするなり、そもそも被害者が発生しないようにと考えた方がマトモでしょ? 本人たちだって、ラクじゃないの? しかし、ダメダメ家庭は当事者意識がない。そして、自分自身を抑圧している。つまり「自分はどうしたいのか?」ということを自分でも分かっていない。自分はどうしたいのかが分かっていないものだから、「て・き・と・う」で、流れに乗っかっているだけ。そして、当然のこととして、うまく行かずに、いつもの被害者意識に浸ることになる。だから、周囲から「まあ!なんてお気の毒なの?!」と被害者として認定されてしまうと、それで安心してしまうんですね。 「ああ!ワタシは悪くないんだ!」 「この人も、ワタシに同情してくれる。」 しかし、「いい」「悪い」はともかく、そんな修羅場にならないようにすることの方が、重要でしょ?当人自身にとって、ずっと「得」じゃないの? あるいは、実際の暴力事件が発生してしまったら、むしろ女性の側がお金を払って、そんな男性と2度と会わないようにする対処の方法だってあるでしょ? 「被害者がお金を払うのは不条理だ!」って確かにそうでしょう。学問的にも制度的にも不条理ですよね?しかし、じゃあ、このまま殴られ続けた方がいいの?金を払っても、そんな関係は早めに清算した方がマシでしょ? 法律的な観点からすると、殴っていた男性も、後で補償金を払えばそれでOKとなってしまう。しかし、自分が殺された後でお金をもらったり、相手が処罰されても、しょうがないじゃないの? しかし、ダメダメ家庭ではそんな現実的な発想はしない。 それこそ島田伸助事件の女性なんて典型でしょ? あの女性にも色々と事情があるでしょうが、あの女性を見ていると「で、アンタはどうしたいの?」と思っちゃうでしょ? あるいは、たびたび取り上げています、韓国の歴史教科書も、プラグマティズムの欠如の典型といえます。 「どっちが正義なのか?どっちが悪なのか?」執拗に主張していますが、読んでいて思うのが『で、アンタたちはどうしたいの?』 しかし、彼らはそのことが分からない。だから、彼らは自分自身にとって「得なこと」が自分たちでも分からない。 日本でもクレーマーなんて、この典型ですよね? 「自分の正しさを証明するためなら、ワタシは死んでもいい!」 クレーマーって、そんなものでしょ? まあ、そんな覚悟は立派ですが、そんな考えをするような人を、周囲の人はどう思うのでしょうか?『何なの?あの人!キモチ悪い!』『シツコイ人ねぇ・・・』『頭おかしいんじゃないの?』って、思うに決まっているでしょ?それって、結局は、自身が損をしているわけですよね?自分の正しさのために命を掛けるのも結構ですが、自分の損得を考えた方が、その人の評価が上がったりすることになる。だって、現実的な発想ができる「頼り」になる人なんですからね。 実はこのようなダメダメの現場では、「自分ではどうしたいのか?」が分からない人間が当事者になってしまうわけですが、そんな人がトラブルを引き起こすと、当事者と同じような「自分はどうしたいのか?」が分かっていない人間が寄ってくるものなんですね。 いわゆる、「善意のボランティアさん」。 「まあ!アナタはなんてお気の毒なの!あんな人たちは許せないわね!」そうやってグチで盛り上がる。 それこそ、ドメスティック・ヴァイオレンスに関わるボランティアの人などもそんな感じですし、あるいは、島田伸助事件の「被害者」の女性の周囲もそんな感じの人でしょ? 周囲の人は、あの事件の被害者?の女性にとって、得になるようなことをしてあげようとして行動していませんよね? 同情も結構ですが、もっと重要なことは、もう2度とそんな修羅場にならないようにすることでしょ? しかし、法律的なスタンスだと、また同じような事件が発生したら、また同じような法律的処置をとればいいだけ。学術的なスタンスもそれと大同小異。ボランティアをするような人間を「当て」にしていること自体に、当人の当事者意識の欠落があるといえるでしょう。そんなことでは、また同じような修羅場になりますよ。基本的には自分のことは自分で考えていくしかないわけです。 「正しい」とか「悪い」とか、あるいは「いいのか?悪いのか?」・・・それらの観点を一旦、横において、「じゃあ、自分はどうしたいのか?」そのことから考える。 それが本人にとって一番「得」な考えでしょ? しかし、そのようなスタンスは、当事者意識がないとできないこと。ダメダメ家庭ではこの当事者意識がない。だからこそ、「正義」とか「悪」とかの倫理的な問題に拘ってしまって、本人が「損」をしちゃうわけです。 損得を基準に考えるって、すごく低級な考えと思われる方もいらっしゃるでしょうが、そうではないわけです。だって損得を考えるのは本人でしょ?本人以外にはありませんよね? しかし、正義とか悪の問題は、本人とは無縁に決定できるでしょ?当事者意識のない、自分で考えることをしないダメダメ人間には、正義なり悪という倫理的な観点を基準にするのが簡単なんですね。 そしてその正義と悪の問題だって、ダメダメ人間ご用達の権威主義に従っているだけ。 自分自身では考えたりはしない。 「あのエライ○○さんが、このように言っているのだから、コッチが正義だろう!」 それはそれで結構ですが、じゃあ、アンタ自身はどうしたいの? あるいは、やたらカテゴリー的にものを考え、人を党派的に見て、何かというとレッテルを貼り付けて大喜びすることになる。 「アイツは○○派だから、敵だ!」と、スグにそんな言葉が出て来る。 しかし、その人がどんなカテゴリーに属しているかが問題なのではなく、その人個人が何をしたいかが重要なことでしょ? 逆に言うと、スグにカテゴリー分類をする人間は、プラグマティックな発想をしませんし、自身の希望を語れないでしょ? ただ、「敵vs味方の構図」に強引に当てはめて、自身を納得させているだけでしょ? この手のダメダメ人間と話をしたことのある方なら経験があるでしょうが、この手の人は「自分は悪くない!」なんて主張を熱心にするものですが、「このようにしたい。」「このようなことを達成したい。」と自分の希望は決して語らないもの。 だって語ろうにも、自分の希望なんて自分自身にも分かっていないし、そもそも持っていないものなんですね。 自分の希望を人に説明できないような人間が、修羅場に陥るのは当然でしょ? そんな人間の周囲の人間も、同じような「自分のことが分からない」人間ばかりになるもの当然でしょ? 自分にとって「得なこと」って、何だろう? そんなことを考えることって、別に難しいことではないでしょ?それに本人にとっても「得」なことじゃないの? そんな「得」な考え方が身につかない。当事者意識の欠けたダメダメ家庭って、そんなものなんですね。 このようなプラグマティックな発想がないがゆえに、現実社会ではトラブルばかりになってしまう。 そして、発生してしまったトラブルを考えるに際し、「どっちが悪いのか?」という倫理的な視点ばかりで見ることになる。逆に言うと、トラブル発生の原因が倫理の問題にされてしまうので、トラブルの原因は、その当事者の倫理的な欠陥がゆえとされてしまう。 それこそ、2010年のサッカーのワールドカップで北朝鮮のチームが大負けしましたが、それに関して、そのチームの人たちは、帰国後に、思想教育を受けさせられたんだそう。 「オマエたちの性根が腐っているから、試合に負けてしまったんだ!ケシカラン!」 ということなんでしょうね。 スポーツの試合で負けたとしても、マトモな発想をすれば、体力の問題だったり、テクニックの問題だったり、あるいは戦術の問題の観点から議論されるでしょ? しかし、心理的に抑圧され、自分の希望というものがなくなってしまうと、倫理的な観点のみになり、プラグマティックな観点が出てこない。 心理への抑圧が進行すればするほど、倫理的な視点のみになってしまう。 だからこそ、試合での負けは、倫理上なり思想上の問題になってしまう。 しかし、思想教育をしたからといって、現実的には、サッカーは強くはならないでしょ? あるいは、そんなことだろ戦争にも勝てませんよ。 戦いの基本は「敵を知り、己を知る。」こと。ここに倫理は介在しませんよ。 まあ、北朝鮮の人がバカをやるのは毎度のこと。 しかし、それこそ文明国におけるドメスティック・ヴァイオレンスの問題でも、まったく同じ様相になっているんですね。 人を見る目というプラグマティックな観点がなくなってしまって、「どっちが悪いのか?」という点ばかりが議論される。たとえ、その議論に勝ったとしても、人を見る目というプラグマティックな欠陥が何も解決されていないので、結局は同じ事態を繰り返す。 「どっちが悪いのか?」という倫理的な議論は、トラブルの理由を考えているのではなく、手っ取り早い犯人認定をすることで、事態の理由について考えることから逃避しているだけなんですね。 結局は、自分では考えたくない。 自分では考えたくないがゆえに、そんな人は「ふつう」という言葉を使いたがる。 「とにもかくにも、周囲に合わせておけばいいや!」 そんなズボラな精神になってしまっている。 倫理的な物言いは、一見はその人の人格の高潔さを示しているように見えるわけですが、心理的に見ると、「自分は何をしたいのか?」という問題意識からの逃避なんですね。 そんな逃避的な心理であるがゆえに、プラグマティズムとも無縁になってしまう。 当人の希望がないところには、プラグマティズムなんて成立しないでしょ? 逆に言うと、プラグマティズムがまったく存在しない環境は、その心理的な抑圧を示しているわけです。 (終了) *************************************************** 発信後記 このメールマガジンで度々書いていますが、ダメダメ家庭の人間は、自分自身の希望が言えないもの。 もう既に何回も書いているので、今更なんですが、そのうち、それ単独で配信したいと思っています。 そのような問題って、家庭問題の事件が起こる当事者だけでなく、事件の周囲にいるボランティアなどにも共通しているんですね。 |
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R.11/2/16 |