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カテゴリー 認識からの逃避
配信日 05年12月12日 (10年7月1日に記述を追加)
タイトル オカルト趣味
ダメダメ家庭の人間は、自分で考えることをしない。権威筋から与えられたありがた〜い「ご高説」をオウム返ししているだけのことが多くあります。

ただ、権威筋と言っても様々な種類の権威がありますよね?
学界における権威だったり、いわゆる「賞」を受けた人という類だったり、単に年長者というだけだったり。
ダメダメ家庭の人間が頼る権威には、そのような一般的な権威だけでなく、もっと特殊な権威があったりするものです。

ある種のオカルト的な権威のパターンです。
陰陽師とか、インドの神秘思想家とか、勿論、新興宗教の教祖さんとか。

以前に、将棋の女流棋士がインドのサイババの元に修行に行ったとか・・・色々とありましたよね?あの女性は今どうしているのかな?彼女の行動って、典型的なダメダメ家庭出身者のものでしょ?というか、容姿だってダメダメ家庭の典型。あの瞳なんて、いかにもですからね。

まあ、様々なキャラクターの人の考えを聞くこと自体が悪いわけではないでしょう。
重要なことは、まずもって「自分はどうしたいのか?」について、ちゃんと自覚することでしょ?
自分の希望を自覚して、人の意見を聞いて、その意見を取り入れたらどうなるのか?頭の中でシミュレーションする・・・そうやって最適と思われる考えを採用する。
そんなものでしょ?

不思議なのは、「あの手のオカルト的な考えをどうやって検証するのか?」「どうやって頭の中でシミュレートするのか?」ということです。
以前にちょっと書いたことがありますが、重症のダメダメ家庭出身の女性で、「陰陽師に相談したら、ワタシとワタシも息子は前世でも親子だったとわかった!」と、喜んで言っている人がいます。

この考えは考えでいいとして、それをどうやって検証するの?
それにその考えを取り入れた場合、今の親子関係が幸福になるの?
前世の存在が本当にあるとして、その親子が実際に・・・前世でも親子だったとしても、そんな考えを取り入れて生活したとしても、今の親子関係はよくならないでしょ?結局は、自分の子供にストーキングする理由を探しているだけなんですね。
多分、その陰陽師とやらも、相談者がほしがる話を作ってやったということなんでしょう。
やっぱりリピーターになってほしいんでしょうね。

しかし、そんなストーカーまがいのヨタ話は、ダメダメ人間には都合がいいわけ。
自分自身で考える必要もないし、考えようもないでしょ?
「あのエライ○○先生がこうおっしゃった!」
ただそれだけでしょ?それ以上は、何ともしようがないじゃないの?

そのようなオカルト的な考えは、自分で考えるものではなく、「信じるか?信じないか?」になってしまうでしょ?逆に言うと、自分自身で事態を認識し、判断しなくてもいいわけ。まさに自分で考えることをしないダメダメ人間にはありがたいものなんですね。

加えて、ダメダメ家庭の人間は、「恋に恋する」ような妄想癖があるもの。現実の世界では自分の意向が実現されないので、妄想の世界に逃げ込んで、自分の望むストーリーの中にいるわけです。それに加えて、会話の能力がないので、自分自身で「縁」を広げていくことができない。どうしても以前から存在した「縁」に頼ることになる。そのような人にとって前世からの因縁とかは、まさに「ツボ」なんですね。どうしてもそんな話の中に浸ってしまうわけ。

別に前世があろうと、なかろうと、今現在我々が生きている世界が重要でしょ?我々が直面している問題を一つずつ解決して行くしかないじゃないの?

陰陽師も、インドのサイババも、妙ちきりんな新興宗教の教祖さんも、別にいいのですが、じゃあ、その人自身は具体的にどうしたいの?そっちの方が重要でしょ?

その手のオカルト的なものに耽溺するような人って、一番重要なはずの自分の希望が言えない類の人ばかりなんですね。
「自分の希望が自分でもわからないけど、相談に乗ってくれ!」
そんな相談をする方はダメダメですが、そんな相談にマジメに乗る人間も、アタマがヘンですよ。

しかし、ある種のオカルト的な状況だったら、そんなスタイルの相談でも、それなりに成立するわけ。
前世がうんたらかんたら・・・
輪廻がうんたらかんたら・・・
守護霊がうんたらかんたら・・・
そんな話は自分自身がわかっていない人間には、ピッタリとフィットするでしょ?だって、自分自身について考えなくてもいいわけですからね。

ダメダメ家庭の人間は被害者意識が強く、当事者意識がないので、自分では何も状況を改善しようとはしない。
だから「悪いのは全部○○のせいだ!」などと言った物言いがお約束となっている状態。
そんな雰囲気で、今現在がうまく行かないと「悪いのは全部前世のせいだ!」などと言い出して自分を納得させてしまう。
しかし、現世でもやれることっていっぱいあるでしょ?
前世があるなしにかかわらず、改善のために自分ができることをやる・・・それくらいはすればいいじゃないの?

その種のオカルト趣味って、自分自身が直面している具体的問題に向き合うことから逃げたいダメダメ人間にとっては大変にありがたいわけ。
それだけでなく、自分で考えるのがイヤなダメダメ人間には、都合よくフィットするものなんですね。

そんな人が語る言葉は、一般の人の語る言葉と、言葉そのものは同じでも、その心理的な意味合いが違っていたりするもの。

それこそ「信じる」なんて言葉がその典型でしょう。
マトモな人間が言う「信じる」は、その「信」の字が指し示すように、「信頼」ということにつながっている。
信頼というものは、人とのやり取りを積み重ね、そのやり取りの評価を積み重ねることによって、到達するものでしょ?
「あの人とは、今までこんなやり取りをしてきて、それなりの成果を出しているから、ワタシはあの人を信頼している。」・・・そんな物言いが、信頼を語る典型的な物言いと言えるでしょう。

しかし、オカルト趣味にいるダメダメ人間がいう「信じる」は、信頼とは無縁。
たとえ「ワタシはあの人を信じている。」という言葉を語っても、やり取りの積み重ねがあるわけでもないし、たとえやり取りをしても、そのやり取りによって、結果的にどうなったのかについては、自分では何も考えていない。

つまり、ダメダメ人間が言う「信じる」は、肯定的な評価の積み重ねではなく、「特に問題が発生していない状態」という二重否定に近いわけ。
「特に問題が発生していない」ことが、「信じる」ことになってしまうんだから、「何もやり取りをしてない」状態こそが、「信じる」ことの極致になってしまうのは、論理的に当然のこと。
そんなことだから、見ることもできない、触ることもできないがゆえに、信じるというオカルト趣味になってしまうのも当然でしょ?

話は変わりますが、ちょっと以前に、マグロの試食会で、「天然物のマグロというキャッチコピーだったのに、実は養殖物だった。」と言った事件がありました。おぼろげな記憶で申し訳ありませんが・・・
まあ、あの事件では、試食した人が、「これは養殖物じゃないの?」と指摘したわけです。

多分、味が違うんでしょうね。私にはさっぱりわかりませんが。
しかし、それについて、「天然物とは味が違う。」といった指摘の方法もありますが、もしその人がこんな言い方をしたらどうなるでしょうか?

「うーん、うーん、見えるぞ、見える!このマグロが生きていた頃の記憶が!おお!目の前に網が見える!!この魚は養殖されていたものだ!」
そう言ったらどうなるでしょうか?
「味が違うから養殖物だ!」と実際には思っていても、もっと有難味が増すように、そんな物言いをする方法だってありますよね?

ダメダメ家庭の人間は、そんな「ありがたい」物言いの方がスキなんですね。
だって、そう言われたら「ほぉ!!」と言っていればいいだけでしょ?自分で考えなくてもいい。
これが「味が違う!」なんて言い方だったら、色々な疑問が出てきますよね?
「へぇ・・・どんな風に味が違うんだろう?」
「この人って、スゴイなぁ・・・普段はどんな食事しているだろう?」
「いつからこんなに食通になったのかな?」
実際にその人と会話が出来ないにせよ、その人について考えることができますよね?

逆に言うと、自分で考えることをしない人間には、「味が違うから養殖もの」という言い方は、ツボから外れるわけ。自分で考える意欲のない人間にしてみれば、自分の「ツボ」であるオカルト的な説明の方が好きなんですね。

普段からそんなオカルト趣味なんだから、ドンドンそっちの方向に進んでしまうわけ。本人はそれで勝手でしょうし、その人の友人も、そのキャラクターをわかった上で近くにいるわけですから、問題はありません。
しかし、そんな人間に育てられる子供はたまったものではありませんよね?

子供が何を言おうが、「私たちは前世からのつながり。今、上手く行かないのも前世の因縁。」なんて問答無用で言われちゃうわけ。
オカルト趣味の親は、そんなオカルト的な物言いも、いたってマジメ。そして、そんな人間の相手をしてくれるのは、最後には自分の子供だけになってしまう。
しかし子供が現実の世界でどんなに困っていても、オカルト趣味の親は、いつも夢の中というわけ。

(終了)
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発信後記

現実の物事をしっかり見ることができれば、かなりのことがわかるものです。
このメールマガジンだって、皆さんがご自分の目で物事を見るようになるお手伝いができればそれで結構です。

4時間近くの長い映画で「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」という作品があります。監督はセルジオ・レオーネで、主演が有名なロバート・デ・ニーロ。
ちょっと前に、そのDVDでの完全版が発売になりました。
それによって新たに見ることができるようになったシーンで、「面白いなぁ・・・」と思わされるようなシーンがありました。

映画の最後の方で、ロバート・デ・ニーロ演じる主役さんがパーティに行くのですが、パーティ会場に入る際にわざわざ「足拭きマット」で靴の汚れを丁寧に落としているわけ。そんなシーンが入っていました。

ちょっと面白いでしょ?だってそんなシーンなんて全然面白くないもの。
そんな面白くもないシーンをわざわざ映画に入れるのはどうして?

足拭きマットで拭くということは、靴が汚れているからですね。つまりデ・ニーロが演じている人は、「歩いて」パーティ会場に来たわけ。他の人は、車で来るので靴が汚れていない。

わざわざ「足拭きマット」で丁寧に拭くということは、彼があまり裕福でないことと、普段は律儀で実直な生活していることがわかるわけ。
別にオカルト的な能力がなくても、現実をしっかり見れば、実に多くのことが見えてくるわけです。
R.10/7/1