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カテゴリー | レポート・手記等に描かれたダメダメ家庭 | |
配信日 | 08年8月25日 | |
取り上げた作品 | 自由からの逃走 (1941年) | |
作者 | エーリッヒ・フロム | |
タイトル | 自由の二面性 | |
さて、以前にこのメールマガジンで、「自由からの逃走」というタイトルで文章を配信しております。以前に議論になった郵政民営化に関しての文章です。 郵便局だって、自由化されれば、自由に運営できるんだから、上手にやれば、収益を上げることができるわけでしょ?何も都会の郵便局だけでなく、いわゆる地方だって、従来の郵便業務とは別のサービスと組み合わせることによって、事業の新展開も図ることができるわけでしょ? どうして、自由化に反対するの? そんなに、他者から「束縛される」のがうれしいの? そんな問題意識の文章でした。 ちなみに、その回の文章のタイトルとして使用した「自由からの逃走」という言葉は、ドイツ出身の社会心理学者のエーリッヒ・フロムの同名の書籍から取っておりますが、その時点では、その本を読んでおりませんでした。 けど・・・タイトルを借りたんだし・・・いずれは読まなきゃ・・・と思ってはいたのですが、サスガに私も時間もない・・・と言うことで、先日やっと読むことが出来ました。 読んでみると、実に面白い。 前からその著作の基本的なテーマは知っていたのですが、じっくり読んでみると、実に示唆的。 このエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」という著作の基本となる問題意識は、ナチズムのような暴力的な体制を、どうしてドイツ国民は「呼び込んで」しまったのか? そんなところです。この「自由からの逃走」という本は、刊行されたのが、1941年。 まだ第2次大戦中のことです。1900年にドイツに生まれ、ナチスの活動や、それを受け入れたドイツ国民を実際に見たフロムは、ナチスを呼び込んでしまったドイツ人の心理的メカニズムを、考えていったわけ。 ちなみに、フロムは、後にアメリカに亡命して、アメリカでこの本を書きました。 この手の問題を考える際には、どうしても『倫理的な』視点ばかりが語られることになる。 なんと言ってもアウシュビッツのようなセンセーショナルな事件もあったわけですしね。 そんなセンセーショナルな事例を取り上げ、倫理的な視点から「非人道的だ!」「アイツが悪い!」と一方的に断罪して、それでオシマイ・・・ナチに関する本は、今でも、そんな本が多いでしょ? しかし、フロムは、そのような倫理的な視点を廃し、暴力的で強圧的な統治を「求めてしまう」民衆の『心理』を説明したわけです。 20世紀における暴力的な統治となるとまさにナチスとなるわけですが、このような心理的メカニズムは家庭においても成立しております。 それこそ、「どうして、あんな暴力的で、強圧的なオトコと、わざわざ結婚してしまったのか?」 そんなドメスティック・ヴァイオレンスの問題とまったく同じなんですね。 ナチスはドイツ国民によって、選挙で選ばれ政権に就きました。 同じようにドメスティック・ヴァイオレンス状態となった夫婦も、曲りなりにも両性の合意があって、結婚したわけ。 そのような、自分への強圧的な支配を受け入れてしまう心理的メカニズムを考えないと、同じことを繰り返すばかり。 たとえ支配者が変わったとしても、その構図は変わらない。 このようなことは、このメールマガジンで頻繁に触れております。 実は、フロムの「自由からの逃走」を読んでいると、この私がメールマガジンで以前から書いている内容が数多く出てきたりします。当然のこととして、私には意味もよくわかる。 と言うことで、フロムの「自由からの逃走」を紹介する形を使って、このメールマガジンのこの時点における総集編としてみたいと思っております。 なにせ、私のメールマガジンと内容的に重なるところが多いので、複数回でまとめてみます。 最初である今回は、「自由の二面性」について、次回は「時代背景」、そして「マゾヒズム」、「サディズム」、「敵意の抑圧」、「権威主義」、そして最後に「残された課題」・・・そんな形で進めて行く予定です。 さて、この「自由からの逃走」において、フロムが最初に指摘しているのが、「自由の二面性」ということです。 一概に『自由』と言っても、「○○からの自由」と「○○をする自由」があって、精神的に抑圧されてしまうと、「○○からの自由」だけに視点が行ってしまって、「○○をする自由」が消失してしまう。 そのような問題を、フロムは指摘しております。 ここで、フロムは「自由の二面性」ということで、「○○からの自由」と「○○をする自由」という2つの言葉を使って、自由というものを区別しているわけですが、私のメールマガジンでは、フロムとは別の言葉を使っております。 「○○をする自由」は、「で、アンタは、結局は、どうしたいの?」という質問に対する、その人なりの回答であり、「○○からの自由」は、「あの○○のせいで、うまく行かない!」という犯人認定の心理として、私のメールマガジンでは説明しております。フロムと私は言葉は違っていても、言っていることは同じなんですね。 本来なら、「○○をする自由」が先にあり、その○○を実現するのに、△△が障害となっていれば、その△△を排除する・・・その排除が「△△からの自由」と言うものでしょ? その障害となっている△△に該当するものとして、古い体制とか、権力者とか、宗教的抑圧とか、経済的な問題とか、周囲の人々とか・・・色々なパターンが存在するでしょう。しかし、まずは「達成したいもの」つまり「○○をする自由」が先にあるものでしょ? しかし、精神的に抑圧されてしまうと、別の言い方をすると、当事者意識がないと、自分で達成したいもの、それ自体が存在しなくなる。だから、逆に言うと、「○○をする自由」も無意味になってしまう。単に無意味ならともかく、むしろ心理的に重荷になってしまうわけ。 「で、アンタ・・・アンタ自身は、結局は、どうしたいのさ?」 なんて聞かれることが心理的に重荷になる状態は、このメールマガジンで頻繁に触れております。心理的に重荷になるので、逆に言うと、「○○をする自由」を放棄するようになってしまうわけ。 「○○をする自由」を放棄しても、「○○からの自由」は、放棄しない。 と言うか、「○○をする自由」から逃避している分、ますます「○○からの自由」に入れ込むようになってしまう。そして、「○○をする自由」から逃避している人は、そんな自己逃避の人間同士で集まることになってしまう。 だって、「自分はこれをやり遂げたい!」と明確に言える人間にしてみれば、「自分は何を達成したいのか?」そんなシンプルなことも語れないような人間と一緒にいても、いったい何を話し合えばいいの? それこそ「先ほどから、グダグダ言っているけど、結局は、アンタは何がしたいのさ?」と、お約束の言葉になって、それでサヨナラですよ。 結局は、「○○をする自由」を持っているもの同士が集まり、協力し合って、お互いの希望を実現することになり、「○○からの自由」だけしか持っていない人間も集まり、「あの△△のせいで、うまくいかないわ!」と、グチで盛り上がることになる。 まさに二極化になってしまう。 前にも書きましたが、「○○からの自由」の精神は、他者を犯人認定する精神につながっているもの。 「○○からの自由」しか持っていない人間が、集まり、まさに集団で犯人認定をするようになるわけ。集団で犯人認定って、いわゆる「つるし上げ」。 何もナチスによるユダヤ人の虐殺ばかりではなく、21世紀の学校における集団でのイジメもまったく同じ。 集団で誰かをつるし上げても、自分の目標が達成できるわけではないでしょ? しかし、「○○をする自由」から逃避してしまっていて、自分の目標自体が存在しない。 そのことを自覚して、「○○をする自由」に考慮が至ればいいわけです。だって、「○○をする自由」というか、「自分がしたいこと」について考え、人に説明し、その実現のために行動することなんて、本来なら小学生でもできることですよ。 しかし、自己逃避の人間は、自己逃避であるがゆえに、自分自身の精神状況なんて、認識できない。だから自分自身から目を逸らし、他者をつるし上げることにいそしむことしかできない。しかし、その「つるし上げ」は、「○○をする自由」からの逃避であるので、何も達成することはない。だから、ますます不満がたまる一方。 そのうち、つるし上げして喜んでいた人間が、今度は人からつるし上げされて、慌てることになってしまう。 誰かをつるし上げないと、自分がつるし上げられるハメになるのが予想できるので、他者を犯人認定するのも必死になってしまう。 それこそ学校でのイジメもそんなパターンでしょ? イジメなり、つるし上げを「そんなことは止めなさい!」と説教して、その該当者を強く指導するよりも、そんな人に対しては、「で、アンタは何をしたいの?」と質問し、それを自覚させればいいわけ。それこそ「イジメを止める。」ということは、「イジメからの自由」であり、イジメ行為を犯人認定しているだけ。そんな犯人認定を考える時点で、「○○からの自由」のドグマに陥っているわけ。 しかし、抑圧状況にある人間は「自分はどうしたいのか?」そのことを考えることは心理的に難しい。それこそダメダメな環境に特有の「この門より入るもの、希望を捨てよ!」という環境で適応してきている抑圧的な精神なので、「希望を持て!」「アンタは何をしたいの?」と言われるのがやっぱり重荷となってしまう。 その重荷を晴らすためにやるのが、誰かを犯人認定すること・・・と、延々と続くことになる。 「自分は何をしたいのか?」という当事者意識がなく、「アイツのせいで、うまくいかない!」という被害者意識だけがあるので、物事を「加害者vs被害者」という構図でないと認識できない。だからなおのこと、「犯人認定」ばかりを行うことになる。 その犯人認定の心理が温存されたままなので、目先のトラブルが形の上では解決しても、また別のトラブルが発生し、今度は「△△のせいでうまくいかない!」と言い出す。 そして、それが解決しても、今度は「☆☆のせいでうまくいかない!」と別のものを犯人認定して、延々と続くことになる。一生そんなことをやっている人は現実に存在するでしょ? それこそドメスティック・ヴァイオレンスの問題なんて、その典型でしょ? そもそも、「自分は何をしたいのか?」そのことを考えることから逃避するもの同士が、一緒になる。しかし、「何をしたいのか?」考えないような人間同士がうまくいくわけもなく、結局は「オマエが悪い!」『アンタの方が悪いわ!』とかの犯人認定の応酬。家庭内で暴力沙汰になると、身体的に弱い女性の側が、別の人たちに助けを求め、今度は介入した市民団体が、暴力を振るった男性を集団でつるし上げ。 こんなシーンは、学校時代の不良のケンカとどう違うの? 「暴力オトコからの自由」は得ようとしても、「○○をする自由」は持とうとしない。 そんな精神だから、また同じような事態になってしまう。 ナチスも、市民運動も、家庭内の暴力沙汰も、ただスケールが違うだけで、精神的には同類なんですね。 というか、ヒトラーは子供時代に、父親から虐待を受けてきました。 そして、成長後に結成後間もないナチスに入党。ヒトラー入党時ナチスは、数人程度の市民団体といえる集団でした。 その市民団体が、「悪いのは全部○○のせいだ!」と犯人認定の主張をして、つるし上げに励むことになる。 そんな姿は、21世紀の活動家と全く同じで、絵に描いたような活動家の姿でしょ? 犯人認定の対象は、時代や場所によって変化しても、「○○からの自由」に逃げ込んでしまう抑圧的な心理は、いつでも見られるわけです。 「自由からの逃走」という著作において、フロムは、「○○からの自由」と「○○をする自由」を明確に区別することによって、トラブル状況の心理を見通す視点を提示したわけ。 ナチスも、ドメスティック・ヴァイオレンスも、実際に、その視点で理解できるものなんですよ。 (終了) *************************************************** 発信後記 今週は、この「自由からの逃走」についての文章を、今回の月曜日から日曜日にかけて、7回連続で毎日配信いたします。 どうせなら、まとめて配信した方がいいですからね。 ちなみに、この「自由からの逃走」は、図書館にはあると思います。 それほど難しい本ではないので、ご興味がありましたら、読んでみると参考になると思います。 ちなみに、この「自由からの逃走」は、小説のような芸術作品ではなく、社会心理学の著作になるんだと思います。まあ、ジャンルわけには意味はないでしょう。 フィクションであれ、ノンフィクションであれ、すぐれた作品は、我々の目の前の現実を見るための視点があるもの。 しかし、当事者意識がないと、その視点を生かすことができないもの。 当事者意識って、まさに「○○をする自由」。 ホント、言葉はともかく、問題意識は、このメールマガジンのものと実に共通しているんですよ。 |
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R.10/12/12 |