トップページに戻る 配信日分類の総目次に戻る 「心理的ベース」についてのシリーズ目次へ
カテゴリー分類の総目次に戻る タイトル50音分類の総目次へ
検索すると上位に来る文章 韓国・北朝鮮問題のトピックス(その3)
カテゴリー ダメダメ家庭が持っていない発想
配信日 09年7月9日
タイトル 主観と客観の区別 (客観性の認識)
前回配信の文章では、抑圧的なダメダメ家庭出身者は、「他者というものを心理的に認識できていない」ことについて書いています。
視覚なり聴覚などの感覚情報としては認識できていても、そのような情報を発する「統合する実体」としての他者というものを、心理的には認識できていない。別の言い方をすると、自分とは別の人間の「人格」というものを心理的に認識できない。他者の形や声や匂いなどの感覚情報については、断片的に認識できても、そんな様々な感覚情報を人格というレヴェルまで統合することができないわけです。

何回も書きますが、「動くマネキン」に囲まれているように認識しているわけです。
だって、実際にその人の親は、子供からのアクションに対して何も反応しない、動くマネキン状態だったわけですからね。

思考する実体としての他者。
あるいは、判断する実体としての他者。
あるいは、一貫した行動をする他者。

抑圧家庭の子供は、そのような「反応する他者」との接触をしていなかったり、不十分なので、感覚情報の統合が心理的にできず、その結果として、感覚情報が断片的に飛び交っているように、この世界を認識してしまう。まさに白昼夢状態。

他者というものを心理的に認識していないがゆえに、他者との関わりが発生するものは、当然のこととして対処不可能になる。
ここで、その不可能を認識し、実際に他者と関わらないのなら、論理的には事は簡単といえます。しかし、現実に生きる人間としては、他者というか、別の人間とのやり取りも、実際に発生してしまう。そうして、やっぱりトラブルになる。そんなトラブルになっても、自覚から逃避する人間なんだから、自分自身が別の人間とのやり取りが困難なキャラクターであることも自覚できない。やり取りの困難さになんとなく苦悩しながら、自分の目の前に飛び交う感覚情報から、その断片化された情報に自分の行動を合わせることで、その場を乗り切るわけ。
人のやっていることに、無条件で合わせたり、
人の言っていることに、何も考えずに、合わせるようになる。

ただ、その「合わる行為」は、視覚情報や聴覚情報の次元でとどまっているだけで、その他者の「実体」にまで目を向けたものではない。
まさに「人の気持ちがわからない」ので、とりあえず、見えたり、聞こえたりする「人の言動に合わせる」だけになってしまう。

人に言動に合わせることはできても、本質的には、他者とのやり取りは不可能。
だって、何回も書きますが、他者というものを、その他者の人格を心理的に認識できていないわけですからね。

たとえば、会話のような状況を見てみましょう。
会話は、自分ひとりで行うものではなく、自者と他者との関わりが発生するでしょ?
しかし、他者というものを、心理的に認識できていないんだから、会話だってぎこちないものになってしまう。会話の形を整えようとして、中身が何もないやり取りになったりするもの。発せられた聴覚情報としての言葉に合わせることができても、その言葉を発した意図は何もわかっていないわけ。というよりも、言葉と意味のつながりが心理的な実感としてない。言語において、音声的な情報と、意味情報のリンケージが出来ていない状態。あるいは、国語辞典的には認識していても、その言語の意味と、その言葉を使った人の意図が心理的につながらない状態。
まさに、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」で描くやり取りのようなもの。

それだけではありません。他者という存在が心理的に認識できているからこそ、客観というものが存在できる。客観というものは、自分以外の人間も受け入れることができるものの見方や考え方でしょ?しかし、自分以外の存在を心理的に認識できないんだから、客観というものも、心理的に認識できなくなってしまう。他者の存在があるから、客観も存在する・・・ということは、あまりに当然なことでしょ?

そんな人は、主観はそれなりに語ることができても、客観的な説明はできない。そんな人の物言いや表現は、実に主観オンリーになってしまう。
以前にも配信いたしましたが、その物言いに「思う」なんて言葉が頻発するようになってしまう。
「ワタシはこのように思う。」
「ボクはこんな感じで思っている。」
そんな物言いばかりになってしまう。

その人個人がどのように思おうと、その人の勝手でしょう。
しかし、その感想とやらを「他者に対して」どうしても伝えたいの?わかってほしいの?
わかってほしいことが明確に意識されているのなら、「思う」なんて主観的な感想を言うよりも、客観的な説明のスタイルでないと不適切でしょ?

しかし、客観というものが心理的に理解できないんだから、「こう思う」という主観ばかりの発言になってしまう。そもそも他者が心理的に存在しないんだから、主観どまりで実質的に十分になってしまう。だから、そんな人の表現には客観的な表現が喪失することになる。
客観が喪失したそんな文章の代表例が、以前にこのメールマガジンで取り上げた「韓国の歴史教科書」でした。

あの教科書には、一般的には客観的とされる、年号とか史料名はほとんど記載がなく、執筆者の個人的感想が羅列されているだけでした。教科書でそれをやるのが、サスガに韓国と言えますが、程度問題は別として、抑圧環境出身者には、あのような「思う」「〜という感じがする」なる文言の羅列が多かったりするもの。文明社会においては、教科書においては、そのような主観的な感情を記述することはないものですが、まあ、サスガ韓国ですよ。

そんなことだから、人治はあっても、客観的な法律に基づいた法治にはならない。
韓国のような客観が喪失した社会においては、法律すら、客観に基づいたものではなく、単なる主観の羅列なんですね。だから後になって平気で無視することもできる。あるいは、客観的な法律による統治ではなく、人による主観的な支配だからこそ、まさに支配者を目指そうとする。
客観というものがない社会では、相互の合意には意味がない。ただ、命令と服従の関係があるだけ。上下関係が絶対となってしまうので、たとえ主観どまりであっても、その主観が上の序列の人のものであれば、それで通ってしまう。

本来なら、個人の主観的な感想を延々と聞かされても、「あっ?そう?アナタはそう思うの?」でオシマイですよ。そんな感想を延々と聞かされた側は困ってしまうもの。個人的感想というものは、本来は、やり取りの一方の側が「アンタはどう思うの?」と聞いたら、それに対して答えるのがスジというもの。いきなり主観の羅列を切り出されてもねぇ・・・しかし、そんな主観の羅列に対して、ヘタに質問したりすると、それこそ逆上されてしまう。

だって、主観と客観が区別できないんだから、その人が語る感想は、まさに「すべての人間が持っている考え」として勝手に認定しているわけです。他者というものが心理的に認識できていないんだから、自分とは別の考え方の存在なんて、とてもじゃないけど、受け入れることはできない。客観というものを認識できるからこそ、逆に言うと、自分の考えを主観とみなすことができるわけでしょ?しかし、主観と客観の区別がないので「自分の考え=万人の考え」となってしまう。別の言い方をすると、子供時代に、自分とは違った考えの人とのやり取りを通じて、他者という存在を実感できる。マネキンに囲まれた生活だったら、とてもじゃないけど、「自分とは違った考え」と接することはできないでしょ?だってマネキンには、自分と違った考えどころか、考えそのものがないわけですからね。

他者というものが心理的に存在しないので、別の考え方というものを認識することができないし、だからこそ、自分とは別の考え方の受け入れ方もわからない。自分以外の他者に対して、自分以外の人間でも通用する客観的な説明をするなんてことはできない。だから、要求する際には、一方的に命令するだけになってしまう。それができないのなら、逆に、一方的に命令されるパターンの方を好むようになる。
対等の関係で、ディスカッションしながら、一つ一つの合意を積み重ねていく・・・そのような進め方は、他者という存在を心理的に認識できず、そして自分とは別の考え方というものを心理的に認識できない人間にしてみれば、パニックを引き起こす状況なんですね。

つまり、他者というものを心理的に認識できないと、

自分とは別の見解というものも、言葉の上では、受け入れても、心理的に認識できない。
だから、自分とは別の見解との接し方がわからない。
他者に対して、自分の見解を、「相手にわかるように」客観的に説明することができない。

そのような状況になってしまう。

極端なことを書いているように思われる方もいらっしゃるでしょうが、そんな視点を考慮して韓国人の言動を見てみると、実にツボを押さえているでしょ?彼らは、他者というものを、心理的に認識できていないし、客観というものも心理的に理解できないわけです。

韓国の歴史教科書は、客観が不在となっている実例として非常に参考になるもの。彼らは、それを意識せずに、つまり自覚せずにやっている。だからタチが悪い。
それを意識的に表現しているのが、以前に取り上げたバルザックの「谷間のゆり」という小説です。もちろん小説だったら、教科書ではないんだから主観の羅列でも問題はありません。
しかし、作者のバルザックは、あえて、書簡体という主観の羅列という形式を取ることで、登場人物が陥っている客観の不在を浮かび上がらせているんですね。書簡の書き手が語る主観の羅列の中から、読み手は、客観的な状況については、自分で判断する必要があるわけです。まさに書簡では語られていない状況を、読み手が行間を読んで認識する必要があるわけです。

バルザックはまさに神の如くの天才ですから、そのような表現における、主観と客観の乖離の問題を、意識して作っている。本来は客観的な描写を組み合わせていく必要があるものを、登場人物の個々の主観によって描写することによるギャップ。そのギャップから登場人物の抑圧状況や、その他のダメダメの問題も見えてくることになる。

あるいは、インターネットの掲示板などで、映画や文章などに対する個人の感想を、さも得意気に発表する人がいるでしょ?「つまらなかった。」とか「くだらない。」とかの否定的な感想の場合もあるし、あるいは「感動した!」のような肯定的な感想のパターンもある。「この作品のこんなシーンや表現に注目したら?」なんて記述だったら一種の解説ですから、読み手を意識した文章といえるわけですから、そのような公開の場で公表する意味はあるでしょう。しかし、個人の感想だったら、そんな感想を読んだ側は、それこそどう感想を持てばいいの?主観は主観で結構ですが、公表するとなると客観を意識する必要があるでしょ?何回も書きますが、主観というものは、他者から「聞かれたら」答えればいいだけ。当人が率先して語りだすなんてヘンですよ。しかし、それこそメールマガジンに対する感想でも、さも得意気に「つまらない!」なんて書き込んでいる人もいたりするでしょ?「つまらない」と個人の感想を記述するよりも、「ここの○○という記述が、あの△△という観点から見て不適切だし、あの☆☆の事例を説明できない。」と指摘するのが、客観を重視した態度じゃないの?
何度も書きますが、主観的な感想は、個人の自由。それを公表する際には、客観が要求されるというだけ。しかし、客観というものを心理的に認識できていないので、個人の感想と、客観的な説明や解説の区別が付かないわけ。

逆に言うと、主観と客観の区別が付かない人間は、インターネットの掲示板のような同類が集まるようなところに群れてしまう。そして主観的な感想が飛び交うことになる。
断片化された感覚情報が飛び交うだけの世界で育った人間が、主観的な感想が飛び交うだけの世界に浸りきってしまうというのは、実に当然の流れでしょ?個人の感想なんて、心理的断片ですよ。それらの断片を統合するのが、人間の精神的活動というもの。しかし、抑圧的なダメダメ人間はそれができないわけ。

客観がなく、主観だけが存在するので、そんな人はトラブルになると、自分勝手に妄想して、その妄想に対する説明を周囲に求めたりするもの。

それこそ、誰かを勝手に、つまり主観的に犯人認定して、その説明を相手に求めたりするもの。
「ワタシはアンタが怪しいと思っている!だからアンタの側が説明してよ!」などと相手に対し要求することになる。誰かに対し疑念を持つのは、その人の勝手ですが、その疑念の説明を他者に求められても、求められた側は困ってしまいますよ。しかし、そのようなことは韓国人なり、あるいは日本だと社民党の方々がよくやっていることでしょ?

本来なら、客観的な現状認識があって、問題点の抽出があって、原因なり改善策が出てくるもの。そして、それを客観的に説明していくもの。しかし、ダメダメ人間は、主観的な犯人認定が先にあって、それを自分で納得するために現状を認識するわけです。

あるいは、客観というものが心理的に認識できないので、個人として「思う」ことと、他者との関わりで発現することの違いが心理的に認識できない。
本来ならどのように思おうと、実行しなければいい話。「姦淫の心を持って、女性を見ても、何もアクションをしなければそれでいい・・」それが客観というものを重視した態度ですよ。しかし、他者と自者の違いがなく、主観と客観の違いがないので、そんな区別ができない。
「個人的な感想=客観的な事実」と心理的にはなってしまっている。思うこと自体を問題視し追求するようになるので、なおのこと精神的な抑圧が進んでしまう。

他者が心理的に認識できないと、客観というものも心理的に認識できない。
だから、個人的な感想と、他者に対する行動の間にある違いも、心理的に認識できなくなってしまう。

そんな自分と他者の区別がつかない人間ができるのが、子作りだけ
そんな人間の相手になってくれるのは、自分の子供だけ。

他者というものを心理的に認識できていないんだから、そんな人は当然のこととして、子供を別人格とは思っていない。
だから子供に対しては、単に命令するだけ。いわば奴隷扱い。
自分自身すら明確ではないんだから、子供との分離などできようがない。
親となった当人はと言うと、親譲りの抑圧状態だから、子供からどんなアクションがあっても、何も反応しない。

そんな家庭環境の子供が自分と他者の区別がつくの?
そして、客観ということを、心理的に認識できるようになるの?
そんなことは自明でしょ?そうやって、スパイラル的に事態が悪化していくわけです。

だから、どうしても周囲との間でトラブルが発生してしまう。そんなトラブルになると、周囲とのやり取りも発生する。しかし、当然のこととして、自分の考えや状況認識を客観的に説明できない。結局は、武力的な手段で解決しようとする・・・
そんな流れは、それこそ北朝鮮関係での典型的な流れでしょ?

あるいは、主観と客観の区別が付かないので、自分が思えばそれが社会一般の常識と認識してしまうので、個人的な趣味の問題と、客観的な迷惑の問題の区別が付かない。
たとえば、お刺身にマヨネーズをかけて食べても、それは個人の趣味の問題でしょ?それを強制されたらタマラナイというだけ。目の前で、お刺身にマヨネーズをかけて食べている人がいたら、無視すればいいだけだし、あるいは笑っていればいいだけ。あるいは、「自分もやってみよう!」とチャレンジしてもいい。いずれにせよ、個人の問題ですよ。

しかし、目の前でお刺身にマヨネーズをかけている人がいて、それを気持ち悪いと思って、それについて裁判に訴えたら、それは違うでしょ?
お刺身にマヨネーズをかけて食べることよりも、そのことについて裁判に訴えることの方が異常ですよ。個人の感想や趣味と、客観的な法律とは全然別のもの。
しかし、以前にも取り上げましたが、東京であった漫画家さんの邸宅へのクレーム事件なんて、まさにそんな主観オンリーの発想が基になっているわけです。
クレームをつけた女性は、主観と客観の区別が心理的につかないわけ。そしてそんな人の周囲にいる人も、やっぱり同類となっている。

主観と客観の区別を付けられる一般の人間は、そんなクレームを付ける人の近くには寄って行きませんよ。たとえば、そんなクレームを付けるような女性と、あるいは珍妙な家を建てる漫画家さんとどっちと友人になりたいか?と聞かれれば自明でしょ?
個人の趣味は趣味で勝手ですが、重要なことは、客観に基づいた、ちゃんとしたやり取りができる相手であること。

趣味に近い分野でモメるような人とは、たまたま趣味があって意気投合しても、別の分野でモメることくらいはマトモな人ならスグに予想が付きますよ。
逆に言うと、そんな判断ができないような人間が、ドメスティック・ヴァイオレンスになったり、自分の子供を虐待したりするわけ。

国語辞典的には主観と客観の区別を付けることは簡単ですが、心理的な観点から見て、その区別を認識するためには、その前提として、「他者というもの」あるいは「別の人の人格」というものを、心理的に認識できている必要がある。

しかし、新生児の頃に、養育者とのやり取りにおいて、やり取りが成立して、かつ、自分とは違った発想をする人間とのやり取りを体験していないと、漫画家さんへのクレームのように、客観的な着地点なしに突っ走ってしまう。

前回の文章においてピアジェという学者さんの「自己中心性」という概念を紹介いたしました。
何も性格的なセルフィッシュとかエゴイスティックということではなく、自分以外の視点が、心理的に認識できないことです。新生児は、まだそんなものなんですね。
だから、新生児にとっては、いわゆる「いない、いない、ばー」も、単に顔を手で隠しているだけだとは認識できないわけ。今まで目の前にあった「顔」が、突然に消失し、手に変化してしまった、そして、次には、今まで存在していなかった顔が、突然に現れた・・・そんな大事件として、認識しているわけ。

新生児は、養育者とのやり取りを通じて、自分とは別の見方の存在を、心理的に認識していくことになる。「いない、いない、ばー」において、手が顔に変化したように見えたのは、単なる主観であり、顔という「客観的な」存在の見え方の変化に過ぎないことがわかってくるようになる。

逆に言うと、マネキンによって養育された場合には、そんな体験はできないでしょ?
漫画家さんへの過剰なクレームも、「いない、いない、ばー」に近いわけです。「ねぇ?ねぇ?どうして、手が顔に突然に変っちゃったの?あらまあ!大変!」
新生児は、そんな感情を言葉にすることはできない。
しかし、言語能力だけは、それなりに発達したダメダメ人間は、「ねぇ?ねぇ?どうして、ヘンな家なの?あらまあ!大変!」と大騒ぎ。 客観というものが心理的に認識できるのなら、その人がヘンと思うことと、客観的に迷惑となることの区別はつけられる。しかし、主観と客観の区別が心理的につかないと、「自分がヘンと思うこと=すべての存在に迷惑をかけること」と心理的に認識してしまう。
言語能力はそれなりに発達しても、心理面では、新生児のまま。だって、それ以降は親の養育がない状態だから、成長のしようがない。

主観と客観が「心理的に」区別が付けられることは、あまりに当然のこととして考えておられる方も多いでしょうが、その能力は、養育者とのやり取りの積み重ねによって達成される後天的なもの。実際に、その区別が付けられないという観点で見てみると、実に理解しやすい人物なり事例も多いでしょ?

(終了)
***************************************************
発信後記

前回の文章では、反応が欠けた養育者によって育てられた子供は、「他者を心理的に認識する能力」がないことについて書いております。
他者を認識できないから、客観というものも、心理的には認識できない・・・これは論理的には至極明晰なこと。
ただ、まさに、論理的には納得できても、心理的には、釈然としない方が多いでしょう。

私としては、そのような客観の不在ということについて、可能な限り客観的に書いたつもりですが、「なんだか・・・丸め込まれたような気分だ・・・」と思われる方も多いでしょうね。

いきなり納得なさらなくても結構ですが、ちょっと頭の中に入れておいてくださいな。
重症のダメダメ家庭出身者の言動を理解するためには、そんな視点が有効なんですよ。皆さんも、ちょっと怪訝な思いをした際には、この視点を思い出してくださいな。
このような「主観と客観の区別ができない」人物となると、たとえば、10年5月時点で日本の首相をされておられる鳩山由紀夫さんもその典型でしょう。
鳩山さんについては、「09年12月12日 配信 由紀夫くんはいい子ちゃん」という文章に記載あります。
R.10/12/25