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カテゴリー ダメダメ家庭の会話の雰囲気
配信日 08年4月11日 (10年5月27日,11年1月20日 記述を追加)
タイトル 過剰な「思う」  (「思う」という言葉、「思う」と「思い」 )
ダメダメ家庭の人間は、感想どまりであることが多い。
このことは以前に配信しております。
何かに接した際に、「面白かった。」とか「つまらなかった。」とか、「こんな感じに思った。」とか・・・そんな感想を持ち、そして感想どまりであって、それ以降の思考につながっていくことはない。
実際に、何かに接して違和感を持つこともありますよね?それこそ「わけ分からなかった!」とか「なにか、どーんとしたものが心に残った。」とかの違和感を持つことも多い。そんな違和感から、物事が見えてくる・・・本来ならそんなこともあり、違和感それ自体としては有益な面も多いと言えます。しかし、思考までつながらず、単なる感想に止まったままだと、不快な感想・・・つまり違和感を持つこと自体から避けるようになってしまう。

感想を持つのは自由ですし、そこから自分なりの思考を発展させていけばいいわけですが、自己逃避のダメダメ人間は、やっぱり感想の段階で止まってしまう。
感想というと、まさに「○○と思った。」・・・そんなものでしょ?
その○○に入る言葉は色々とあるでしょう。しかし、「じゃあ、思ってどうしたか?」「どのように考えたか?」本来はそっちの方が重要でしょ?
自己逃避だと、思考からの逃避してしまい、断片的な感想どまりになってしまう。そのような人は、まさに「○○と思った。」という言葉が多発しているもの。

政治の世界でも、ダメダメな政治家は「○○と思います。」なんて言葉が実に多い。
それこそ与党だろうが野党だろうが、党首からしてそんな物言いになっている。
それこそ、ちょっと前にモメていたガソリンの暫定税率の問題でも、与野党双方(08年当時は自民党が与党)とも「思う」という言葉が連発するばかり。
実際に、その時には、「△△をしないと、トラブルが発生すると、思う。」なんてスタイルの物言いでした。

上記の文章ですが、上の「思う」を別の言葉に置き換えてみましょう。

「△△をしないと、トラブルが発生すると、私は考えている。」
このような表現だと、ちょっと強い調子になるでしょ?あるいは、色々な事態を想定している雰囲気になる。

あるいは、
「△△をしないと、トラブルが発生すると、私は危惧している。」
と言った表現だと、危機感が出てくる。
また、
「△△をしないと、トラブルが発生すると、我々は推測している。」
あるいは、「△△をしないと、トラブルが発生すると、我々は認識している。」。あるいは、「捉えている」とか「想定している」とかの別の言葉でも可能です。

そのような表現だと、十分に検討している雰囲気になるでしょ?
「思う」という言葉は、「感じている」に近いと言えます。はたして実際に検討しているのかについて明確ではない。英語だって「think」とか「recognize」とか「suppose」とか「feel」とか・・・色々な言葉があるでしょ?
少なくとも政治家がコメントとして発する言葉だったら、「思う」なんて言葉ではなく、せめて「考えている」くらいの言葉を使わないと、決意なり危機感も伝わりませんよ。

このようなことは、文章慣れしている人間だったらスグに分かること。
もちろん、一般の多くの方が、そんな文章慣れしている必要はありませんから、そんな「慣れていない」人の文章の中に「思う」が多発していても、これはしょうがない。
しかし、誰かの文章を読んでいる時には、その文章の書き手が、伝えようと一生懸命に書いているのか?「て・き・と・う」に書いているのか?それくらいは、読む人間が「文章慣れ」していれば、分かりますよ。

逆に言うと、本来はそれなりに文章慣れしている人なのに、不必要なまでに「思う」が多発しているなぁ・・・と「思わされる」文章もあったりします。

「○○と思った。」
「□□と思った。」
そんな表現が多い文章です。
そんな文章の書き手は、往々にして感想どまりの人間であって、別の言い方をすると、自分自身で突き詰めて「考える」ことから逃避している人間と見ることができるわけです。断片的な感想に安住することで、思考から逃避しているとも言えるでしょう。

「思う」「思う」って・・・この文章の書き手自身が、どう思うのかなんて、私は知らないよ!
そんな文章を読んでいると、そう「思って」しまいます。そうして「この書き手は、自分自身から逃避しているだろうなぁ・・・」と「考えたり」「判断」することができる。
「思う」と「考える」って、やっぱり違うでしょ?
その人が、思っていることなんて、手間暇かけて誰かに伝える必要なんてありませんよ。その人が必死に考えて、「このことを分って欲しい。」というレヴェルにまでまとめ上げた段階だったら、伝える価値もあるでしょう。
「思った」ことをそのまま書いても、安っぽくなるだけですよ。
自分なりの考えを、十分に寝かせた後で、文章にし、公表した方がいいんじゃないの?

「思う」と「考える」の違いを理解するには、たとえばこんな例を取り上げればわかりやすいでしょう。
ボンクラな人を指して「アイツは何も『考えて』いないヤツだからなぁ・・・」と言う言葉で、人をバカにするパターンがあったりするでしょ?
しかし、上記の悪口も「アイツな何も『思って』いないヤツだからなぁ・・・」とはならない。そんな物言いは聞いたことがないでしょ?
つまり、「思う」ことはバカでもできるわけです。
つまり、「思う」「思う」と連発するような人は、「何も考えていないヤツ」の可能性もあるわけです。

政治家のコメントに「思う」が多発しているなんて、正直言って悲しいことですが、それが日本の現実というもの。それが単に、ボキャブラリーの貧困という、純粋に言語能力の問題ならいざ知らず、現実的には、その人の実際の心理として感想どまりの状態であって、「危機感の欠如」とか「問題認識の欠如」あるいは、「一貫した信念の不在」と結びついているでしょ?また、当然のこととして、言葉に対してそのように鈍感だったら、メッセージも伝わりませんから、事態は何も改善しませんよ。

しかし、事態が何も改善しないと、「どうして、うまくいかないんだ?!」「どうして、分かってくれないんだ?」と被害者意識に浸って、騒ぐだけ。
その人が、どう思おうとその人の勝手ですが、他者とコミュニケートするのなら、「何を分かってほしいのか?」そのことを、自分で「考える」ことが先でしょ?それを考えた上での言葉だったら、「思う」という言葉が多発はしないものなんですよ。「思う」が多発している言葉を発する人は、相手に「分かってほしい」ことが自分でも分かっていないことが通例なんですね。

そもそも、政治家なり物書きは、「自分自身がどう思うのか?」が問題なのではなく、コメントの聞き手なり、文章の読み手に「思わせる」ことが必要でしょ?その目的のために、適切な言葉をチョイスする能力のない人は、政治家や物書きには、不適ですよ。
主観を延々と語っても、望んだ影響を相手に対して与えないのなら、単なるオバカ。

しかし、抑圧的な人間は、「主観と客観の区別がつかない」ことが多い。
自分自身というものを持っていないので、逆にいうと、他者という存在も成立しなくなる。
だからこそ、自分が他者に伝えるという段になると、全くの主観である感想を延々と並べるだけになってしまう。
だから、結果的に「思う」という言葉が多発することに。

皆さんも、この「思う」というありきたりの言葉から、文章なりコメントに注意してみてくださいな。そんなコメントの中の「思う」を、別の言葉に置き換えた方がいいのでは?
そう「思う」こともあると思います。
そんな地点からダメダメについての視点や思考も、色々と広がっていくものなんですよ。

さて、このように自分で考えることから逃避する抑圧的な人間は、その物言いに「思う」という言葉が頻発するわけですが、その「思う」という動詞を名詞にして「思い」なる言葉もあります。
それこそ、10年5月時点での日本の首相である鳩山さんやその周辺には、この「思い」なる言葉が実に多い。
それこそ「沖縄への思いを伝えたい。」なるコメントの言葉になってしまう。
逆に言うと、鳩山さんが、沖縄の問題をどのように「認識」し、どのように「考えている」のかが分からない。
と言うか、彼らは、認識や思考から逃避しているわけです。
「思いを伝えたい。」という言葉はいいとして、逆に言うと、彼には「思い」という情緒しかない。現状認識なり判断は何も持っていないわけです。

「思い」という情緒次元であって、認識や思考ではない。だから、そんなものは他者に対して説明できるわけがない。そんな情緒は、顔を合わせてのやり取りだったら、それなりに意味があるわけですが、言葉としては伝えようがないでしょ?
認識や判断なら、言葉にできますが、情緒は言葉には向きませんよ。
だから、東京から沖縄に向かって「沖縄への思いを伝えたい。」なんて言葉は、珍妙極まるものなんですね。

言語で説明できないものだからこそ、相互理解や合意形成とは無縁となり、支配・被支配の構図になってしまう。
相手から質問があっても、それに対し説明できない。だから、相手からのリアクションがない状況にしておきたい。
あるいは、序列によって片をつけようとする。
「思い」であるがゆえに、支配者としての命令というパターンしかコミュニケーションの手段を持ち得ない。

そんな人は「思い」を証明するために、説明の言葉ではなく、何かを「恵んでアゲル」というスタイルになってしまう。
しかし、エーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」の中で指摘するように、「恵む」という行為は、いわばサディズムであって、つまり「アメを使った支配欲」の証明のようなもの。
「ワタシの思いを分かってほしい。」という感情は、「オマエを支配したい。」という心理と実に近いもの。「アナタに○○をやってほしい。」という明確な形で言えないわけです。だからこそ、支配・被支配の構図が重要になってきてしまう。

結局は、自分の思いで支配できる領域にこだわってしまう。一種の閉鎖性につながってしまう。言葉による客観的な説明であれば「来るものは拒まず、去るものは追わず。」とできるわけですが、主観的で一方的な「思い」なので、情緒面でことが済む人だけしか相手にできないし、いったん、相手にできた人間を常に確保しようとする。

「思う」とか「思い」とかの言葉が、頻発し、暴走するような状況になると、結局は、その人の無意識次元で存在する支配欲が暴走し、「こんなにアイツのことを思ってやっているのに、どうして分かってくれないんだ?!」と被害者意識につながってしまう。
そして、その被害者意識が報復行為につながってしまう。
国家の政治だけではなく、それこそストーカーについても、そんな視点を取り入れると、理解しやすいでしょ?

「思う」とか「思い」は、心理的には断片であって、一貫したものではない。
一貫したものがなければ、そんな人は信頼とは無縁となってしまう。
その場その場において、相手から嫌われないように、人に合わせることはできても、信念をもって自分の考えを語ることはできない。
自分で現状認識をしているわけではないので、「思い」を語っても、客観的な説明をすることはできない。だからこそ、相手との合意を達成することはできない。
と言うか、前にも書きましたが、「思う」という言葉が頻発する人は、心理的には他者というものが認識できていないわけです。

そんな人はその場の情緒に配慮する「いい人」とも言えるわけですが、信頼とは無縁の人なので、結局は嫌われてしまう。
そうして、やっぱり「どうして分かってくれないんだ?」と大仰な嘆きとなってしまう。
「思う」という言葉が頻発する人の周囲において、そんなシーンはポピュラーなものでしょ?

(終了)
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発信後記

このメールマガジンの文章は、意外にも、言葉のニュアンスを考えながら書いています。有名な哲学者のニーツェは「意味と強度」の違いを指摘したそうですが、言葉においても意味の方向性と表現の強さは別のもの。
強さを調整することによって、表現の緩急も生まれてくる。

「思う」という言葉は「緩急」でいうと「緩」になる。だから「思う」「思う」と繰り返すと、「緩」「緩」となり、まさに締まりのない表現になってしまうわけ。なんとなくダラぁ〜とした印象になってしまって、切れ味が出てこない。

とはいえ、そんなことを考えて書いている人は、そうはいないでしょし、一般的にはそんなことまで考える必要はありませんよ。
ただやっぱり微妙なニュアンスの違いというものはあるわけですから、それに注意しながら読むと、色々と見えてくるものなんですよ。
私としては、そんなニュアンスに配慮して書いるので、このメールマガジンの文章を自分で外国語にする意欲がありませんでした。
まあ、やりだしたら細部に凝り過ぎることになってしまうのは明白ですしね。

先日オーストラリア在住の方が、ひとつの文章を英訳していただきました。
アナトール・フランスの小説「タイース」から、ダメダメ家庭と芸能界との関係を考えた07年5月1日配信の文章です。その英訳はバックナンバーのサイトに収録したしました。
この場をお借りして、英訳の労を取っていただいた方に篤くお礼申し上げます。

メールマガジンの文章については私は原作者?ですから、英訳を読むと当然のこととして意味はわかる。ただ英語の微妙なニュアンスまではちょっとわからない。
ただ、原作?の微妙なニュアンスまで忠実に再現した英訳する必要はないと思っています。
人それぞれの、受け取り方もあるわけですしね。ここまでは誤解がないように・・・しかし、それ以外は読み手の自由。表現においては、そんな面があるものなんですよ。

このメールマガジンを購読されたおられる方は、ほとんどが日本在住の日本人でしょうが、もし外国語に得意な方で、ちょっと翻訳に関心がありましたら、翻訳のご協力をいただけると助かります。あるいは、翻訳ソフトを買ったけど、ちょっと試しに使ってみたいなぁ・・・何か適当な例題はないかなぁ・・・と思っておられる方がいらっしゃいましたら、お願いいたします。

「そんなことは原作者のオマエがやれよ!」とおっしゃりたいのは、当然でしょうが、まあ、翻訳は私が死んだ後でも出来ますが、原作は、死んでしまうとできませんからね。
まずは日本語の原作を優先して・・・というのが、今のところの私の考えです。
R.11/1/20