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カテゴリー 自己への抑圧
配信日 09年11月4日
タイトル 思考を恐怖する
このメールマガジンでは、たびたび逆上メールについて触れたりしています。
別に意趣返しというわけではありませんよ。
ダメダメ家庭の特徴である、強い被害者意識と会話の不全の実例として、「これ以上ないほど」に最適であるからなんです。

逆に言うと、そんな逆上メールを送りつける人の生態を見てみれば、ダメダメ家庭について考える多くの視点も得られる・・・そうなりますよね?

そもそも、ダメダメ家庭の人間は、自分で考えることから逃避するものです。
自分で考えることをしないから、上手く行くわけもなく、実際にトラブルになり、「どうしてこんなことに?!」と被害者意識を募らせる。そんなことを繰り返している。

このメールマガジンではある種、疑問型の言い回しを多用しています。
「アナタはどう考えるの?」
そのような問い掛けを主体としています。

だからこそ、自分で考えることから逃避する人間にしてみれば、気に入らないのは当然でしょう。自分で考えることから逃避する人間が、この種のサイトに求めるのは、「ワタシがどんなにかわいそうな人間なのか、ワタシの代わりに説明してほしい!」そんなものでしょ?
その説明を求めて、バックナンバーのサイトを訪れ、「こんな状態は典型的なダメダメだよ。」なんてことが書いてあって、「これって・・・まんまワタシじゃん!!」となって、逆上してしまう。
そして、逆上メールを発信!!
「自分は違うんだこうじゃないんだ!ダメダメであるもんか!絶対に認めないぞ!!」

このメールマガジンの文章で描写されているダメダメが「これって、そのまんま近所のあの人じゃないいの?」と言うくらいなら笑っていられる。
「これって、まんまウチの母じゃん!」というくらいなら、気分が損なわれたり、あるいは、逆に「そうよ!そうよ!」となったりする。
しかし、「これって、まんま自分そのものじゃん!」となると、やっぱり冷静ではいられない。それはしょうがない。しかし、「そこからどうするか?」でしょ?問題点を認識したら、自分なりに考え対処すればいいだけ。

それはいいとして、その種の逆上メールを送った人間が困ってしまうことは何でしょうか?
そもそも「自分で考えること」から逃避する人間なので、その逆上メールの発信者に対し、私から『私としてはこのような状況認識や考えでこの文章を書きました。アナタとしては、じゃあ、どう考えますか?』なんて丁寧に対応されるのが、一番困ってしまうようです。このことについては、以前に配信しております。

これは何も逆上メールに対する返事じゃなくても、発生したりするんですね。

とある購読者さんからのお便りで、「アナタはどう思いますか?」と返事で書かれると、どう答えようか?と考えてパニックになる・・・なんて記述があって、私としては『ふーん・・そんなものなの?』って思った次第です。
逆上メールじゃない人でも、そんな感じなんだから、逆上メールを出した人にしてみれば、「アナタはどう考えますか?」なんて返事に書かれるなんて、恐怖そのものなんでしょうね。

まだ、「アナタはどう考えますか?」と言われちゃうとパニックになることが自覚していれば、少しずつ改善していくこともできるでしょう。まあ、少しずつでも、リハビリしてくださいな。
しかし、そんな自覚もないようなら、どうなっちゃうの?

それこそ以前に取り上げた実際の逆上メールにありましたが、「逆上慣れ」してしまうことになる。
「ちょっとでもヤバくなったら、とりあえず逆上。」そんな態度が身についてしまうわけです。

だから、自分自身が「考えることを恐怖している」ことすらわからない。
もう、居酒屋での定番と言える、「オレは酔っていないぞぉ〜!酔っていないってば!ウィッ!」なんて状態。
そうして、上手く行かないことは全部他者のせいになってしまう。だって自分の問題点なんて、それこそ何も見ないし、考えないわけですからね。
そんな人は、何も考えたくないから、どんな事態になっても、スグに結論を出してしまうもの。自分の中にため込むのが怖い。

このメールマガジンに対してお便りを頂戴することもあります。逆上メールの場合はともかく、あるいは、広告メールと疑わしいメールの場合も違いますが、それまでやり取りがなかった人から一般的な内容のメールをいただいた場合には、基本的には頂いてから1日以内には、お返事を出すようにしています。
少なくとも、「届いた」という連絡と、「お便りありがとうございます。」という感謝の意は、早急に伝える必要があるでしょ?

ネタバレになりますが、お返事のテンプレートをあらかじめ作ってあります。だから、お返事のメールを書くのに、それほど時間が掛かることはありません。
そのお返事のテンプレートには、ドイツの作家のゲーテのライフワークである「ファウスト」の中の中心的な考えである「絶えず勤め励むものを、我々は救うことができる。」(・・・って、天使が言いますよね?)と、フランスの作家であるジッドの言葉「真理を見出したという人の言葉を疑え!真理を探し求める人の言葉を聞け!」それらの言葉が入っているんです。
なかなか文芸的なテンプレートでしょ?

ゲーテもジッドも言わんとするところは同じ。
「人間の尊厳は、結論を出すことではなく、自分自身が向上するために、結論を出すために、考え続け、努力し続けることじゃないのか!」
そんなところ。

「私はもう全部分かった!」
なんて、自分を納得させてしまったら、もう考えなくてもいいでしょ?
自分自身がまだ分かっていないと自覚しているから、もっともっと自分で考えるわけでしょ?
ちなみに、ギリシャの哲学者のソクラテスが言っていた「無知の知」も似たようなもの。
知を探求するにあたって、「自分が知っていないことを自覚し、そこから出発しよう!」という考えです。あるいは、頻繁に言及するフランスの哲学者ミシェル・フーコーがいう「哲学の役割は、見えているものを見えるようにすることだ!」も同じ。心の目で見るためには、まずは心の目で見ていないことを認識することが最初に必要になる。フーコーはそう言っているわけです。
結局は、みんな似たり寄ったりのことを言っているんですね。

ダメダメ人間は、自分で考えることをしない。ただ権威筋から与えられたご高説をオウム返しに繰り返しているだけ。自分で考えないから、人の話を聞かなくてもいい。しかし、人の話を真摯に聞かない人に、誰がマトモに話をするの?
と言うことで、そのような人間に対しては、誰も込み入った話をしなくなり・・・つまり、その人の目の前からはトラブルが消えてしまう。だから、その手の「ご高説」人間は、「私たちは、上手く行っている。」と勝手に納得することになる。
だって、誰も、そんな人には自分の困りごとを相談しないんですからね。そんな人は、無意識的には、相手から言わせないようにしているわけです。だから、「自分の周囲には何も問題がない」と考えるのも、ある意味において無理のないところ。

自分で考えることをしない人間は、人の話しを聞いたり、あるいは文章を読んだりしても、とりあえず「スグに結論を出してしまう」。
それこそお約束の「悪いのは全部○○のせいだ!」とか「あの本に書いてあるとおりだ!」とか「時代のせい!」とかね。

そうやって、スグに結論を出して、勝手に納得して、そして、もうそれ以上は考えない。
その手の文章って、結構あったりしますよね?
どうしてそんなにスグに結論を出してしまうのかなぁ・・・と思わざるを得ませんが、まあ、考えることから逃げるためには、とりあえず結論を出す必要があるわけです。
しかし、ゲーテやジッドやソクラテスが、一生涯を掛けて考え続けたのに対し、そんな人たちより、はるかにアタマが悪いその人たちがスグに出した結論など何の意味があるの?
ゲーテやジッドやソクラテスの思考力を真似しようとしても、そりゃ無理ですが、せめて考え続けることくらいは真似してもいいでしょ?

しかし、抑圧的なダメダメ人間は、様々な問題や芸術作品と接する際に、接する前から「解答」が用意されている状態となっている。以前にも取り上げましたノーベル賞作家のイェリネクさんの「ピアニスト」という小説の中に「コンサートに行っている連中は、あらかじめ自分が知っていることを、そのコンサートで再確認しているだけだ。新鮮な視点などを求めているわけではない。」と言った記述がありました。これは音楽のコンサートについての記述ですが、文章を読む際にも、絵画の展覧会でも同じ状況でしょ?抑圧的な人間は、自分の目で見て、自分の頭で考えるということから逃避してしまっている。

トラブルが起こっても、トラブルを解決するつもりがなく、そのトラブルが見えなくなるようにしたいだけ。見えなくしたいだけだから、思考を恐怖する人は、その前段階として認識することを恐怖するようになる。
アンナ・カレーニナのように、「見たくない!」「見せないで!」と周囲に主張し、そのように行動することになる。

これに関連して、死刑の問題があります。
死刑にすれば、事件を生み出す土壌が解決するというものではないけど、事件を忘れることはできるでしょ?
最終的に死刑にするしないは別として、その前に犯人にちゃんと語らせてからでも遅くないのでは?もっとちゃんとしたレポートにまとめる努力をしてみては?その事件について、一番知っているのは、もう加害者たる死刑囚だけなんですからね。
しかし、ダメダメな状況になると、トラブルについて見たくないし、考えたくない。いわば、死人に口なしにしておきたい。カミュがいう「やさしい無関心」状態を求めている。
だから何も改善せずに、同じような事件が繰り返されることになる。

ダメダメ人間は、話をしていても、文章のやり取りをしても、「これは△△が原因なんだと思いました。」「結局は、こんなことが原因なんだよ!」なんてフレーズがいとも簡単に出てくる。早めに原因とやらを掲げてしまって、自分自身に降りかかることを防止しようとする。だから、その思考の展開もなく、実に猪突に結論に到達しちゃうんですね。

しかし、これからもっと深く考えようと思って、やり取りをしている時に、さっさと「これが原因なんだ!」なんて言われちゃったら、どう思いますか?
『アンタがそれで納得したいなら、それでいいけど・・・その結論に何の意味があるの?』となりますよね?
まあ、そんな人とは、それ以上のやり取りなんてしたくはないでしょ?
だってツマンナイもの。
そんな人は、どんなことが起こっても、いつも同じ理由で片付けてしまうんですね。

その手の人って、思考から逃げるための「取っておき」の理由を常に持っているもの。都合が悪くなると、その言葉を持ち出す。
聞いている方は、「あ〜あ、また、いつものヤツね!」と、呆れるだけ。その手の「取っておき」は、いわば相手の話から逃げるための理屈として使われる。「いかにして相手の話から解放されるのか?」そんなことで必死になっている。人の話だけでなく、それこそ芸術作品に接しても、いとも簡単に、「こういうことなんだと思いました、マル」と言い放ってオシマイ。
これが知人のような関係ならともかく、家族にこんな人間がいたらたまったものではありませんよね?

子供が何か聞いても、「そういうものだ。」「それがふつうだ!」「こうすべきなんだ!」でオシマイになって、自分では何も考えない。そんな人がどんな家庭を作るの?しかし、その家庭でトラブルになっても、やっぱり何も考えずに「時代が悪い!」「政治が悪い!」でオシマイ。まったく処置なしですよ。

思考を恐怖していると、思考を恐怖していること自体も考えない。論理的には当たり前でしょ?まあ、倫理的には大問題ですが・・・
しかし、そんな倫理的に問題な人がやることは、他者への説教
だって、自分には何も問題はないと思ってしまっているし、悪いのは全部他者のせいなんだから、人に説教もしますよ。

そんな人間とどう付き合えばいいのか?
やっぱり「避ける」しかないでしょ?
他人だったら、そんな人間とは距離を置けばいい。しかし、家族だったらどうなるの?避けようがないじゃないの?
子供の事件が起こったりしますが、ダメダメ家庭の現実を理解していれば、この種の事件は「避けようがない」ことなんですね。
そして、事件が起こった後で、そんな親が言うのは「どうしてこんなことに?!」というもの。
もう、なんて言ったらいいのかなぁ・・・
そんな残念な事態も、距離を置いていれば、安心して「呆れる」だけで済む。
しかし、適切な距離を置いていないと、それこそ、周囲にいるマトモな人も面倒な事態に巻き込まれるだけ。近くにいると犯人認定を食らったりして、勝手な理屈で報復されたりするもの。

そんな事件の後になって「どうしてこんなことに?!」なんてダメダメな嘆きでなくても、『ああ!あの時点で、ちゃんと距離を取っておくべきだった!』と嘆くことに。
嘆きの種類はともかく、事件が起こってからでは遅いものなんですよ。

(終了)
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発信後記

今週は、自己逃避のダメダメ人間がみせる、認識や思考への恐怖についての文章を集中的に配信いたします。
このようなことは、頻繁に配信しておりますので、記述的には以前のものと重なるものが多いでしょう。まあ、復習とでも思ってくださいな。

自分で考えることを恐怖する人間は、まずは認識段階で恐怖するもの。まさにアンナ・カレーニナのように「ワタシに見せないで!」と要求することになる。
本来なら、見た上で、判断すればいいだけなんですが、心理的にそれができないわけ。
だからこそ、私への逆上メールのように、メールマガジンの発行そのものを止めさせようと要求するわけです。購読解除の判断ができないわけ。

アンナ・カレーニナのように、「見せないで!」と明確に要求するケースばかりではなく、無言の圧力で「言わせないようにする」パターンも多いでしょ?
それこそ、猪突に、「これが原因なんだ!だからもうオシマイ!」と議論を打ち切ろうとしたり・・・
逆に言うと、その段階で、避難すればいいわけです。そんな人と関わっても、面白くないだけでなく、危険なんですね。
R.10/12/29